壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

試行錯誤

2008年05月31日 20時46分36秒 | Weblog
 “携帯ケース”を買った。ケータイを持っていないのに、だ。

 今はもちろん、在職中も一度もケータイを持ったことはない。必要を感じなかったからだ。
 ただ、家庭訪問の際、子どもの家が見つからず、公衆電話も見当たらないときなどは、「ケータイを持っていたなら…」と思ったことはある。
 また、珠算の検定試験や俳句の吟行会などの駅での待合わせ。ケータイを持っていたなら、欠席の連絡をしてくる人が助かることも、よくわかる。
 それでも、とうとうケータイは持たなかった。おそらく今後も持つことはないだろう。
 自宅の電話料は毎月、ほとんど基本料のみと言ってもよいほど。ちなみに今月支払った通話料は、1通話で8円であった。
 もちろん電話は、毎日かかってくる。だが、こちらから電話することがないのだ。これではケータイは必要なかろう。
 “振込め詐欺”から電話がかかってきても、ケータイがないので振込みに行けない。そんなときにはきっと、バイク便と言うのかも……?

 冗談はさておき、ケータイがないのに何故、“携帯ケース”を買ったのか。
 実は、先週買ったiPod touchの、携帯用ケースを探していたからだ。
 兵庫県の伝統的工芸品の、白なめし革でつくられた“携帯ケース”が気に入り、iPodを入れてみたら、ピッタリだったのだ。
 それで、ケータイを持っていないのに、“携帯ケース”を買った次第。

 「白なめしの歴史は古く、四・五世紀頃には、作られていました。
 戦国・安土桃山時代には、豊臣秀吉の派手好きな性格が反映したのでしょうか、軽くて、強靭で、しなやかな皮革は武将の鎧冑や馬具に用いられてきました。
 鮮やかな装飾性豊かな武具を作り出した技術技法を受け継ぎ、平穏な江戸時代には、煙草入れ・文庫などの細工物を作り、今では、バッグ・財布などの日常品、文庫・テーブルセンターなど装飾品と、伝統的革細工物として珍重されています」(有限会社キャッスルレザーのチラシ)

 白くなめされた革に、花柄や小紋などが上品な色合いで型押しされ、見て美しく、手触りがよく、使い勝手もよい。
 毎日、散歩に持ち歩き、お気に入りの音楽や、ポッドキャストのVOAニュースを聴いたり、思いついたことをその場で、画面のキーボードで入力など、非常に重宝している。
 いかにもiPod touchを使いこなしているようだが、まだまだなのだ。
 なにせ“取扱説明書”が、まったく付いてないのだ。それほど操作が簡単ということだろうが、ケータイをいじったことがない変人にとっては、試行錯誤だらけ。
 それでも、手持ちのCDは簡単にiPodに取り込めたが、パソコンにダウンロードしておいた英語教材?が、取り込めない。
 まあ爆発することはなかろうと、四苦八苦しながら、あれやこれやと操作したら、バッチリiTunesに取り込むことができた。二日がかりで。

 機能はまだたくさんあるようなので、毎日少しずつ覚えてゆこう、試行錯誤を繰り返し……。


      ケータイのひとつだになき更衣     季 己

芭蕉のパトロン

2008年05月30日 23時27分30秒 | Weblog
       五月雨に蛙のおよぐ戸口哉     杉 風

 山間の町や村を通ると、道の両側に溝があり、そこには澄んだ水が音を立てて流れ、鍋や釜、野菜などを洗っている光景を、以前はよく見かけたが、今はどうであろう。
 そうした溝が、折から降り続く五月雨で水があふれ、道にまで流れ込んでいる。ふと見ると、流されてきた蛙が、家の戸口のあたりを泳いでいる、という情景である。

 作者の杉山杉風(さんぷう)は、江戸日本橋小田原町で、幕府に魚類を納入するお納屋を営み、「鯉屋」といった。
 はじめ談林俳諧に親しんだが、芭蕉が江戸へ来るとすぐに入門し、深川のいわゆる芭蕉庵も、杉風の提供によるものであった。
 去来と並んで、芭蕉の最も篤実な門人であり、芭蕉のパトロンとして尽くした役割は大きい。
 芭蕉も、「去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と言ったという。
 また杉風は、狩野派の画をよくし、彼の描く芭蕉像は許六のそれとともに、芭蕉の風貌を最も忠実に伝えるものとして定評がある。
 杉風の俳風には、鋭い感覚や斬新警抜な着想は期待できないが、平明にして温雅なところに特徴を認めることができる。

 さて、“五月雨に”の句。そのころは江戸の下町でも側溝があって、きれいな水が流れていたであろうから、雨季に入るとこのような場面は、しばしば見かけることがあったであろう。
 下町住まいの杉風であったから、これは実際に目にふれた光景を詠んだ句であろうと思われる。実景そのままを何の技巧もなく、そのままにうたっているところに、杉風の作風の一端を知ることができる。
 平明の一言に尽きるが、それでいてやはり、一つの詩的世界をつくりあげているといえよう。
 さして特徴らしきものがないところに特徴がある、と言ったら失礼であろうか。


      みづうみに映る魁夷の月涼し     季 己

老鶯

2008年05月29日 21時33分51秒 | Weblog
 梅に鶯の喩えの通り、鶯は春の鳥と、相場が決まっている。
 しかし、初夏の山に分け入ってゆくと、足元の低い藪の中から、思いもかけぬ美しい音色の鶯の声を聞いて驚くことがある。
 夏になっても鳴いている鶯を、老鶯(おいうぐいす・ろうおう)といい、また夏鶯(なつうぐいす)ともいう。このほか、乱鶯、残鶯、狂鶯などとも呼ばれ、“鶯音を入る”、“鶯老いを啼く”なども夏の季語である。

 清少納言は、『枕草子』の中で、鶯を取り上げて、

 「夏から秋の終りまで、しゃがれ声で鳴いて、『虫食い』なんて、しもじもの者は、名をつけかえて呼ぶのがね、残念で、奇妙な気がする。
 それだって、ありきたりの雀なんかみたいに、しょっちゅういる鳥だったら、それほど気にもなるまい。
 春に鳴くものだからこそ、『年立ちかへる』なんて、しゃれた文句で、歌にも詩にも作るのでしょうよ。
 やはり、春の間だけ鳴くものだったら、どんなに結構なものだろう。
 人間も同じこと。一人前でなく、世間の評判も悪くなりはじめた人をば、誰がうるさく批判するものですか」(『枕草子』第三十八段)

 と、述べている。『腐っても鯛は鯛』というところであろうか。

 もともと鶯は、秋から春にかけて人里に近づき、夏には山地に移って、産卵・繁殖する漂鳥であるから、いつ・どこで鳴こうと、鶯の勝手なのだ。
 それを、春告げ鳥だの、虫食いだのと、上げたり下げたりするのは、鳥の心を知らぬ人間の無知そのもの。
 その鶯を生きながら捕らえて、窮屈な籠に閉じ込め、附子(つけご)だの押親(おしおや)だのと、鳴き声の管理教育をするとは、とんでもないことだ。
 在職中、受験教育にもたずさわった一人として、反省しきり?


      老鶯や女神は山の頂に     季 己            

エミリー展

2008年05月28日 23時36分30秒 | Weblog
 絵とは何か、描くとは何か、考えさせられる貴重な空間であった。
 
 オーストラリア先住民のすぐれた美術を紹介する『エミリー・ウングワレー展』が、東京・六本木の国立新美術館できょう28日から始まった。

 エミリーは、オーストラリア中央の砂漠地帯で、アボリジニの伝統的な生活を送りながら、儀礼のためのボディ・ペインティングや砂絵を描いていた。
 1977年からバティック(ろうけつ染め)の制作をはじめ、88年からカンヴァス画を描きはじめる。その後、亡くなるまでのわずか8年の間に3000点以上の作品を残した。
 エミリーの作品は、アボリジニの世界観を背景に、美しく自由で革新的である。西洋美術の歴史とはまったく無縁な環境にありながら、その作品は、抽象表現主義にも通じる極めてモダンなものとして、世界的に高い評価を得ている。
 昨年5月、シドニーのオークションで、オーストラリアの女性美術家としては初めて1億円を超える金額で作品が落札され、話題になった。

 今回の展示は、構成が非常に親切で、エミリーの作品の変化がよく理解できる。
 エミリーの原点ともいうべき“バティック”⇒“点描”⇒“色彩主義”⇒“身体に描かれた線”⇒“ヤムイモ”“神聖な草”⇒“ラスト・シリーズ”という構成になっている。
 また、おまけ?のコーナーの“ユートピア”が、エミリーの作品の背景を知る上で、非常に役立つ。

 初期のエミリーの作品を支配していたのは、バティックの特徴である点描と、簡潔な線による構成であった。しかし作風は、点描に覆われた大画面へと変化する。
 点は、線による構成から解放されて自由に浮遊し、大画面を埋め尽くし、網目状の線を覆い隠す。この線は、はっきりと見える作品もあるが、たいていは点描の下に埋もれて、ぼんやりとしか見えない。
 エミリーの点描は、繊細なものから大胆なもの、抑制の効いたものから爆発したものまで多様である。またそれは、一つの点であったり、二重、三重の点であったりする。
 大きな点描がつながってつくる動きのある線は、踊りのリズムや成長のダイナミズム、さらには風に運ばれた種が、大地に飛散する際の自然の生命力を喚起する。
 無限に広がり、次々に変化する色彩はまた、移り変わる季節や夜空を感じさせる。

 エミリーは、オーストラリア中央部、アルハルクという先住民族の住む集落に生れた。エミリーは、そのアルハルクという土地の長い歴史に育まれながら、芸術家として表現するためのすべてを、そこで身につけたと思われる。
 エミリー自身の言葉としてよく引用される、「すべてのもの、そう、すべてのもの、私のドリーミング、細長のヤムイモ、トゲトカゲ、草の種、ディンゴ、エミュー、エミューが好んで食べる草、緑豆、ヤムイモの種、これが私の描くもの、すべてのもの」は、ドリーミングという言葉以外は、みな食料となっていたさまざまな植物と、身近な小動物である。
 ドリーミングとは、アボリジニの宇宙観や創世、祖先、宗教的および社会的な行為に関する掟、彼らの生活を支える霊的な力、それらに関連する物語を包括的に指す、と図録の用語解説にある。

 エミリーは、目の前のものをそのまま写すことはしない。目の前のものを色彩として認識し、自らの中にあふれるドリーミングを放出しているのだ。
 エミリーの作品には、大地への畏敬と自然の恵みへの感謝で満ち溢れている。
 エミリーの作品を前に、つくづく感じるのは、「絵は色彩の調和」であり、絵を描くということは、「自然への感謝と祈り」である、ということだ。

 エミリーは最晩年、点や線といった要素が完全に消去し、筆触の残った面の集積のような作品を残している。
 エミリー最後の作品とされる《無題(アルハルクラ)》は、白に近いベージュの色彩が、地の部分をほとんど残すことなく重ね塗りされている。ひと筆ごとに微妙な混色の色調の変化を見せており、そのことが画面にやわらかな動きをはらんだ大気の感触をもたらしているようでもある。
 昇華されたドリーミングとも、涅槃の境地ともいえるような、不思議な空間を印象づける作品である。
 エミリーの魂は、すでに彼岸の世界を遊んでいるのだ。その彼岸の世界を表現したのが、白い最後の作品なのだ。

 テレビ東京系、毎週土曜夜10時から、『美の巨人たち』が放映されている。
 6月7日に、このエミリー・ウングワレー《無題(アルハルクラ)》が、取り上げられる。
 エミリーは何故この作品を描いたのか?
 その描写と画家の生き方との関わりとは?
 作品や作家の生き方に大きく影響した時代背景とは?
 それらを一つひとつ解明してゆく番組になるのではないかと思う。
 また、実物の作品をじっくり鑑賞されたい方は、この放映前に行かれるのが賢明。放映後は、一時ではあるが、混雑すると思われるので。


      声あげて伯耆大山 梅雨に入る     季 己

杜甫草堂

2008年05月27日 23時40分41秒 | Weblog
 「李白・杜甫の旧居など……大地揺れて 跡形なし」と、次のように『読売新聞』(5月27日 夕刊)は報じている。

 四川大地震の被災地・中国四川省で、唐代の詩人・李白や杜甫の旧居など、世界的な文化財に深刻な被害が出ている。
 中国政府は近く、全国の文化財専門家を動員し、修復に乗り出す方針だ。
 同省文物局などによると、江油市の李白の旧居でも山門が全壊し、書斎や寝室部分も大破。
 杜甫が約四年暮らした成都市の「杜甫草堂」でも一部の建物が倒壊し、清朝時代の花瓶二つが壊れた。
 省内で、国指定の重要文化財128か所のうち65か所で被災が確認されている。(以上、「読売新聞」より)


 「杜甫草堂」は、成都の西七里、錦江にかかる万里橋の西、浣花渓(かんかけい)のほとりに位置する。したがって、「浣花草堂(かんかそうどう)」とも呼ばれる。
 ここからは遠く西北に、万年雪をいただく西嶺(せいれい)も眺められた。
 杜甫は、その漂泊の生活に終止符を打ち、ここにようやく落ちつくべき草堂を得たのである。
 この草堂を営むと、杜甫は多くの友人たちに詩を送り、桃やスモモなどの果樹や竹などの苗木をもらいうけたりしている。

 当時、関中(かんちゅう)では、飢饉におそわれており、その経済生活は極度の混乱に陥っていた。その上、中原(ちゅうげん)の戦乱や、辺境の侵略も続いていた。成都はこれらのものから隔絶し、物資もまた豊富であった。
 この恵まれた地で、杜甫は、草堂のまわりの荒地を開き、耕したり、子どもたちと釣りに興じたり、自然を楽しみ自然の中へ入り込んでいった。
 今からおよそ1250年前の、成都での生活は、杜甫はもとより家族にもしばしば落ち着いた平和な日常をもたらした。
 杜甫の生涯の中でも、もっとも安定した生活を送ったのは、浣花渓の時代だった、という。

       春夜 雨を喜ぶ     杜 甫
   好雨 時節を知り   春にあたってすなわち発生す
   風に随って潜かに夜に入り   物を潤して細やかにして声無し
   野径 雲は倶に黒く   江船 火は独り明らかなり
   暁に紅の湿れる処を看れば   花は錦官城に重からん

      よい雨は、その降るべき時節を知っており、
      春になると降り出して、万物が萌えはじめる。
      雨は風につれて、ひそかに夜中まで降り続き、
      万物をこまやかに、音もたてずに潤している。
      野の小道も、たれこめる雲と同じように真っ黒であり、
      川に浮かぶ船の漁り火だけが明るく見える。
      夜明け方に、赤いしめったところを見たならば、
      それは錦官城に、花がしっとり濡れて咲いている姿なのだ。

 761年、杜甫五十歳の作。成都(四川省成都市)郊外の杜甫草堂で、春の雨をうたった詩である。
 前半は、春雨のやわらかく降るさまをうたう。
 小ぬか雨が、風と共にやってくる、というのは、雨を擬人化し、そのひそやかな到来を歓迎しているのだ。
 後半は、夜の景と明朝の景をうたう。
 天も地も真っ黒な中に、漁り火の一点の赤をとらえ、その赤のイメージが、朝の明るい光の中の濡れた花びらへと拡散してゆく。
 それは、成都の町いっぱいに咲き満ちる花だ。ちなみに、錦官城というのは、成都の町をいう。
 詩の中には、「喜」の語一つないが、おのずから、あふれるような喜びがにじみ出ている。

 成都が、この詩にあるような光景に戻れるのは、いつのことであろうか。一日も早い復興を祈るばかりである。


      喜雨晴れの三囲神社ぬけて来し     季 己

鳶尾(いちはつ)

2008年05月26日 23時36分50秒 | Weblog
 最近はめったに見られなくなったが、田舎家の厚い藁葺き屋根の棟に、濃い紫や白の、あやめに似た美しい花が咲いていることがある。いったい、この花は何だろう。

 五月五日の端午の節句に、菖蒲の葉を軒端に葺くことは、遠い平安朝の昔に盛んに行なわれたことである。
 五月五日の菖蒲湯は、今も民間で行なわれているが、その葉は、サトイモ科の白菖(はくしょう)とか泥菖(でいしょう)と呼ばれるもので、花の美しいあやめや花菖蒲とは全く違う植物だ。
 花菖蒲や杜若(かきつばた)・あやめなどは、アヤメ科に属するものであるが、初めに述べたのは、その中の鳶尾(いちはつ)なのである。

 菖蒲や杜若は水辺に繁殖するが、同じ仲間の鳶尾が、なぜ藁葺き屋根の頂上に咲いているのだろう。鳥が種を落としていったのだろうか。いや、そうではない。
 端午の節句に、白菖の葉を屋根に葺くのは、火災除けや悪魔祓いの意味があってのことだが、鳶尾を屋根に植えるのも、大風を防ぐとか、火災を除けるなどという言い伝えがあってのことだという。

 そう言えば、大きなお寺やお城の天守閣などに、鬼瓦とか鯱(しゃちほこ)据えるが、これらを建築上の述語では、“シビ”と呼ぶ。その“シビ”を訓で読むと、トビノオと言う。つまり鳶の尾と書く、イチハツと同じことなのだ。
 しかも、不思議なことに、鳶尾の学名は、イリス・テクトルムといい、テクトルムとは、ラテン語で、「屋根」という意味で、イリス・テクトルムとは、「屋根のあやめ」という訳だ。
 まさか西洋でも同じ習慣があったとは思えないので、中国原産の鳶尾を見た西洋の植物学者が、日本における習慣によって、こんな学名を与えたのかもしれない。

 アイリス(イリス)・しゃが・鳶尾・あやめ・杜若・花菖蒲・黄菖蒲は、同属で、よく似た清楚な花であるが、それぞれ特徴があり、味がある。
 簡単に区別するには、次のように見るとよい。

  アイリス……近年、輸入されたもので、種類も多いが、まとめてアイリス
        (イリス)呼んでいる。立弁と垂弁がきわだっていて、異色
        になっているのは、ジャーマンアイリスである。
  しゃが………山地や藪かげに咲き、淡い紫。葉は浅みどり。内弁の先が
        こまかく切れている。
  鳶 尾………花壇。紫か白で、外弁の内がわにトサカのような突起あり。
  あやめ………濃い紫か白。外弁の根元に網目模様(それで文目という)。
  杜 若………水辺。青紫か白でスマートな花型。
  花菖蒲………弁広く、多色。覆輪や斑入り、茶色系の豊かな花は、すべて
        これ。水辺にも花壇にも。
  黄菖蒲………花全体が、濃い黄色。水辺。


      萬葉の真間の手児奈や花菖蒲     季 己

鯉はねて

2008年05月25日 22時52分53秒 | Weblog
      鯉はねて水静かなり郭公     池西言水

 季語は「郭公(ほととぎす)」で夏。
 ほととぎすの声を待ちかねる風情を詠んだ詩歌は古来多く、北村季吟の『山の井』にも、
   「声をまつには しびりをきらして立花のかげに かしらをかたぶけ
    みみをすまし うつらうつ木のもとに 日をくらし夜をあかすあり
    さま」
 という記事がある。
 この句の前書きに、「伏見江ニ時鳥ヲ聴ク」とあるので、京都、伏見あたりの淀川端での詠ということになる。
 静寂に包まれた淀川べりで、ほととぎすの声を待ちかねたが、いっこうに啼かない。突然、鯉のはねる水音がして、後はまた、以前にもまさる静寂がおとずれたが、やがて、待ちかねたほととぎすの一声が、静けさの中に鋭く響き渡ったことだ、の意。
 上五の「鯉はねて」が、静寂を際立たせて効果的である。

 作者の言水(ごんすい)は、慶安三年(1650)生れ、享保七年(1722)没。
 言水は奈良の人で、弱年より俳諧に親しみ、十六歳で法体となり、俳諧に打ち込んだ。
 はじめ松江重頼の門に入り、延宝ごろ江戸に下って、芭蕉や素堂らと交流し、『東日記』他を出版した。
 『東日記』は、談林風からの脱却をめざし、新風を志向した先駆的な作品である。
 後に京に移り、伊藤新徳らと交わり、多くの撰集を刊行した。
 芭蕉より六年あとに生まれ、芭蕉より二十八年あとに没している。

 言水の「鯉はねて水静かなり郭公」を見るたびに、なぜか芭蕉の、
      閑かさや岩にしみ入る蝉の声
      古池や蛙飛こむ水のをと
 を思い起こしてしまう。
 「鯉」が「蛙」に、「郭公」が「蝉」に思えてならないのだ。つまり、言水のこの一句には、芭蕉の代表句とも言える二句を、凝縮した内容が詰まっていると思う。
 「鯉はねて」は、言水の代表句、と言ってもいいのではないか、と変人は思う。


      銘を切る奈良の刀匠ほととぎす     季 己

2008年05月24日 21時50分33秒 | Weblog
 清少納言の『枕草子』第三十九段に見える、
   「いみじううつくしきちごの、いちごなどくひたる」
 という文章は、たいそうかわいい幼児が、苺なんかを口にしているところは、高貴な感じがするというのであるが、清少納言の神経の繊細さには、驚くべきものがある。
 二、三歳の幼児の白く柔らかく浄らかな肌と、小さな苺の真紅との鮮やかなコントラストが、高貴繊細美をかもし出す。

 それにしても、昔の苺は、五月から七月にかけての夏の果物であった。だから苺は、今でも歳時記では夏の部に入っている。
 ビニールハウスで促成栽培される苺は、二月から四月にかけての春の果物になってしまった。最近では、ショートケーキの上にのっていたり、果実店でも、ほとんど一年中口にすることができ、親しみがあるが、やはり甘酸っぱい味は初夏のものといえよう。

 江戸切り子のガラスの器に入れて、銀のスプーンですくって、一つずつ口に運ぶルビーのように赤く輝く苺の美しさには、大きさが変わり、季節が変わり、時代は移っても、清少納言が感じたのと同様に、鮮やかな美しさを感じる。

 今日一般の食用に供する苺は、外来種のバラ科オランダイチゴである。
 平安時代の苺は、草本ではなく、バラ科に属する野生のクサイチゴ・ナハシロイチゴなど、落葉性の小低木であろう。これらは陰暦の五月ごろに甘く紅熟する。
 『延喜式』巻三十九の中に、「覆盆子二升(五月)」とあるのによれば、覆盆子(いちご)の栽培も行なわれていたものと見える。 


      口に運ぶ苺のなかに母がゐて     季 己

其角俳諧の性格

2008年05月23日 11時19分53秒 | Weblog
 「夕立つ」と「夕立」を、『広辞苑』で引いてみよう。

 「夕立つ」 ①夕方、風が吹く、波が立つといった、ある自然現象が起る。
       ②夕立が降る。       
 「夕立」  ①夕方、風・波などの起り立つこと。
       ②夕方、急に曇って来て激しく降る大粒の雨。(以下略)

 文法的に言えば、「夕立」は名詞で、「夕立て」は動詞「夕立つ」の命令形だ。

 つぎに、もう一度、句を見てみよう。
      夕立や田を見めぐりの神ならば     其 角
 その名の通りの「田を見めぐり」の、三囲(みめぐり)稲荷の「神ならば」の意である。
 「夕立」は、「ゆうだち」・「ゆうだつ」・「ゆうだて」、いずれにも読めるし、読んでいいのだ。
 けれども、中七・下五から考えれば、「ゆうだて」と読むのが自然ではなかろうか。すると、
 「どうか夕立を降らせてください。あなたさまが、その名の通りの“田を見めぐり”の、三囲稲荷の神ならば」
 の意となる。
 「夕立や買わず飛び込む百貨店」ならいざ知らず、「あっ、夕立だ。あなたさまが、その名の通りの、“田を見めぐり”の、三囲稲荷の神ならば」は、なかろう。

 この句を、仮名で分かち書きで書いてみる。
      ゆふだてや たをみめぐりの かみならば
 もう、お分かりと思うが、「ゆたか(豊)」の折句でもある。
 雨乞いといい、この折句といい、俳句が近代芸術詩となる以前の、民族詩の姿を色濃くとどめている句である。
 神がまだ身近に生きていた当時の人々の姿が見られる点、また、俳句が民族の日常生活と融合していた点で、元禄俳諧が、現代の俳句とはまだ性格にかなりの相違があったということが、端的にこの句に現れている。
 しかも、このような句となると、芭蕉には発見されないという点で、芭蕉俳諧との性格差も現れている。
 さらには、このような事態の前に、まったく躊躇・逡巡なく詠まれるという点で、其角俳諧の特質が示されている。
 以上のように、この句は元禄俳諧の、また其角俳諧の性格を知る上で多くの示唆を与えてくれる句である。
 この句の興味は、元禄期における江戸市民の実生活の一こまが、よく出ている点にあると思う。

 江戸近郊の「ひぐらしのさと」も、景勝地でもあり、文人たちにも好まれた土地である。近在の「根岸の里」に多くの文人・墨客たちが隠棲していたという。
 「ひぐらしのさと」の寺社の一つ、養福寺には、俳諧の一派、談林派が自分たちの足跡を表すように句碑を残している。
 その一派のひとりに、姸斎・津富がいる。
 養福寺の入口近くに、談林派の句碑を見つめるように立っている「落歯塚」の主である。
 この俳諧師、津富がある地方に出かけたとき、其角の雨乞いの句をもちだされ、ぜひ雨乞いの句を詠んで欲しいと、地元住人から懇願される。
 風変わりで有名な津富も、このときばかりは正装をして、神殿の前で、
      しろしめせ神の門田の早苗時     津 富
 と、神妙に詠んだという。
 雨は、この数時間後に降り始め、三日三晩降り続き、農民たちに非常に感謝された。(詳しくは、拙稿、昨年12月16日付「姸斎津富の一面」をご覧ください)

 三囲稲荷の、其角の雨乞いの句は、それほど有名だったのである。


      ひぐらしのさとにぽつぽつ松の芯     季 己

夕立てや

2008年05月22日 21時48分20秒 | Weblog
 都市化の進んだ江戸市中にも、多くの緑が残されていた。
 しかし、その大半は、江戸城や大名屋敷の庭園など塀で隔絶され、市民には手の届かぬ存在であった。
 そこで市民は、一般に開放された緑を求め、鬱蒼とした鎮守の森を持つ寺社への参詣を契機に、自然との交流をも図った。この自然との触れ合いが、寺社参詣の目的の一つであった。

 こうした欲求を、十分に満たしてくれる行楽地として存在したのが、市中からさほど遠くない隅田川とその沿岸であった。
 隅田川は、平安朝以来、『伊勢物語』などの文学作品にたびたび登場するなど、古くから全国的に知られた数少ない名所の一つである。
 春には、梅若忌や摘み草、花見、夏には両国の川開きと花火、夕涼みのそぞろ歩きや納涼船の舟遊び、秋には月見舟に菊見、七草鑑賞、冬には浅草寺周辺の歳の市、そして雪見と、一年を通してそれぞれの季節を堪能できた。
 また、隅田川の象徴的景観としてたびたび描かれた三囲(みめぐり)稲荷と待乳山(まつちやま)聖天は、雪見の名所であった。

      夕立や田を見めぐりの神ならば     其 角
 連日の猛暑に涼を求めて隅田川へ舟で出かけたとき、対岸の三囲稲荷で雨乞いをしていた農夫たちに出会い、彼らに乞われて詠んだ句である。
 その翌日に雨が降ったので、評判になった句だ。
 現代人はこれを迷信として、蔑視の眼で見るために、味わいにくい句となっている。やはり、このような句を味わうためには、当時の人の身になってみる必要があろう。当時はまだ、これを迷信とする考えはなかった。
 このような中にあって、乞われるままにその誠意を詠うのは、人の情として当然であろう。

 この句を読んで気づかねばならない第一は、当時の人には、神は遠い存在ではなかったということである。
 これは単にこの句だけに現れていることではない。其角の師である芭蕉の句、文においても同様で、とくに神社参詣における彼の感激などは、現代人と明らかに異なるものがある。共感は不可能であるとしても、理解だけは必要である。
 第二は、当時の俳句には、現代人の芸術としての俳句とは全く異なった性格がなお生きていた、ということである。
 ここでは俳句は、祈祷の役割を果たしている。このような句は、芭蕉には見出せない。
 第三は、其角自身の態度である。
 ここには、もし一句を詠んでも雨が降らなかったら、という危惧の感情が見られない、ということである。其角の句の特色の一つは、真正面から句を詠んで行くところにある。ここにも全く同じ態度が示されている。一句を詠むにあたって、躊躇・逡巡がないということである。
 
 さて、「夕立や」であるが、おそらくほとんどの方は、「ゆうだちや」とお読みになるのではなかろうか。
 変人は、滝沢馬琴が考証しているように、「ゆうだてや」と読みたい。(続く)


      ひとごとのやうな川かぜ泥鰌鍋 

鹿の袋角

2008年05月21日 21時53分57秒 | Weblog
 お気に入りの散歩バッグの一つに、特別に注文したショルダーがある。
 大きさを指定し、金具は一切使わず、できるだけシンプルな革のショルダーバッグということで、神戸の「ATELIER FISK KOBE」さんにお願いした。
 出来上がってきた鞄は、“作品”と呼んでもいいくらい、素晴らしく、斬新なものであった。“被せ”を止める、止め具に鹿の角が使われている。これがアクセントとなり、大いに気に入った。聞けば、奈良公園の鹿の角とのこと。

 大陸と地続きであった大昔には、日本にも、マストドンのような巨象も棲んでいた。今でもしきりに恐竜の化石が発掘されている。
 やがて日本海が陥没して、離れ島となってからは、巨大な獣や恐ろしい猛獣が、大陸との間を行き来することもなくなった。狭い土地に多くの人間が増加するに及んで、いよいよ、大型の獣や猛獣は棲みにくくなってきた。
 熊・狼・鹿・猪などが僅かに生き残ったのだが、中でも、人間と最も深い交渉を保っているのが鹿である。

 奈良の春日大社や、安芸の厳島神社の境内などで飼育されている鹿が、私たちに最もたやすく野生の姿を見せてくれている。
 鹿といえば、先ず第一に眼に浮かぶのは、その角である。
 牡鹿の角は、常盤木の落葉と同じく、抜け落ちて、五、六月ごろ新しい角と生えかわる。新しく生える角は、固い角ではなく、表面に皮をかぶって、血管がわかるくらい透き通った感じの、柔らか味のある一握りほどの突起に過ぎない。
 これが「鹿の袋角」で、茸状なので鹿茸(ろくじょう)ともいう。触れると柔らかく、温かい。非常に鋭敏なので、物の触れるのを嫌い、雌鹿さえ近づけない。
 
 袋角は、鹿茸といわれて薬用となる。『和漢三才図会』には、「筋肉を旺んにし、精を生じ、髄を補ひ、血を養ひ、陽を益す」という強壮剤であると、説明している。
 袋角は、やがて枝分かれして、九月か十月ごろには立派な固い角に成長する。
 芭蕉もそのことを、
      二股にわかれ初めけり鹿の角     芭 蕉
 と詠んでいる。

 ちなみに、“袋角”“鹿の子”“親鹿”は、夏の季語で、“鹿”“鹿の角切り”は、秋の季語である。


      鹿の子の夕日あびたる耳聡し     季 己

Little Charo

2008年05月20日 21時02分54秒 | Weblog
 「サザンから重大発表」という、新聞の全面広告に眼を引かれた。
 といっても、「サザン」の文字は見たことはあるが、全く知らないと言ってよい。それなのに、なぜ眼を引かれたのか。
 全面広告の右下の、スタンプのようなところに、眼が行ったのだ。
 桜の花が二つ重なったなかに、「よく三十年間 休み休み 働きました」とある。
 そう、小学生のときに、先生から押してもらった、「たいへんよくできました」とか「よくできました」とかいう、あれと同じだ。

 なぜスタンプに眼を引かれたかというと、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』のラストシーンを思い出したからだ。
   左手を見下ろすと判子が押されていた。可愛らしい花のマークで、
  真ん中に、「たいへんよくできました」と文字がある。
 という、この部分である。

 「本屋大賞」と「山本周五郎賞」のダブル受賞をした『ゴールデンスランバー』を、あの全面広告の作成者も読んで、感銘を受けたのではなかろうか。ふと、そんな気がした。

 ところで、いま“チャロ”が面白い。
 正確に言えば、NHKラジオの『チャロの英語実力講座』が面白い。
 日本生まれの子犬チャロ。ニューヨークの空港で飼い主とはぐれ、マンハッタンに迷い込む。そこで野良犬のドレッドや、明るく、おせっかいおばさん犬のマルゲリータとともに、ニューヨークでの生活が始まる……。
 子犬のチャロの冒険を楽しみながら、英語の実力が身につく?というスグレモノ。この4月から始まり、来年3月に完結する“大河英語講座”だ。

   ラジオ第2放送   [月~土]午前7:00~7:15  週6レッスン
   再放送       [月~土]午後8:45~9:00
             [月~土]午後10:20~10:35
             [日]  午後10:20~11:50(6レッスン分)
 
 というように、再放送を含めて、毎日3回、日曜日の夜に、1週間分まとめて放送されるのだ。いかにNHKが、この番組に力を入れているかが、よくわかる。
 そして最も変人がうれしいのは、NHKホームページ「チャロ・オンライン」で、放送されたラジオ番組の内容をそのまま聞けることだ。しかも放送後、1週間近く聞くことができるので、非常に助かる。
 ネットではこのほか、毎週Little Charoの物語に出てくる単語やフレーズの解説、おまけにその音声も聞ける。
 NHKとしては破格のサービス? これを活用しない手はない。
 変人は毎日、30分ほど勉強している。頭脳の老化防止のために。


      緑陰のせせらぎ近くリトルチャロ     季 己

江戸囃子

2008年05月19日 23時28分59秒 | Weblog
 東京浅草の三社祭は昨日、つつがなく終わった。
 祭の三日間の人出は、例年より若干少なく感じたが、実際はどうだろう。
 昨年から篠笛を習い始め、まだ一年たたないが、どうしても神輿より祭囃子のほうに興味がゆく。
 浅草神社・神楽殿では、連日、江戸里神楽の演奏があった。
 1994年に、国の重要無形民俗文化財に指定された、「江戸里神楽 若山胤雄社中」の生演奏が聴けたことが、何よりの勉強になった。
 知識と耳学問?だけで、実技においては、まだ音も満足に出せないという情けない状態が続いている。しかし、師の言われる「笛・太鼓・鉦の三拍子揃って自在に演奏できて一人前」ということは、非常によく理解できた。

 祭囃子は、山車や練物の上で囃されたものと、それらを引くための一種の「木やり」のようなものが元になったとされる。
 天下祭りとも呼ばれた日枝山王、神田明神の祭りは、各種の山車や練物が華やかに引き回された。この山車や練物の上で囃されたのが、江戸の祭囃子という。
 若山社中の演奏は、江戸っ子の気性がよくあらわれているような、また音楽としても特色ある、美しいものであった。
 わが師のK先生は、温和でやさしい方なので、その笛の音は春風のよう。締太鼓の先生も気持ちよさそうに撥を打っている。
 代わって、K先生の先輩・T先生が吹くと、青葉の頃に吹きわたる清爽な、やや強い風。締太鼓も、それに負けじと力強く、笛をリードしているように思えた。

 師の話によると、江戸囃子の起こりは、享保の初めごろ、葛西金町村の鎮守、香取明神(いまの葛西神社)の神主が、村内の若者たちを集めて「和歌ばやし」と呼ばれる囃子を教えたことに始まるという。
 これを香取明神の祭礼や、近郷の鎮守の例祭などに、社内に屋台を設けて、拍子面白く囃させた。
 享保4年(1719)以降は、関東代官の伊奈半左衛門が、この囃子の流行を利用して、天下泰平、五穀豊穣の「奉納ばやし」として大いに奨励した。
 毎年、各町村で代表者推薦会を催し、その選ばれた者を、神田明神の将軍家上覧祭に参加させたりもした。そのため、この囃子が一層普及したといわれる。

 大小の太鼓に笛、鉦をもって囃し、その基本の曲として、
  屋台、昇殿、鎌倉、四丁目(先玉・後玉)、四丁目上げ、屋台
 があり、緩急よろしく組み合わされている。

 変人は、屋台・昇殿・鎌倉の譜面をいただいたが、一曲としてまだ吹けない。
 仲間の皆さんは、来年の祭礼を目指し、先生に特訓までお願いするという熱の入れよう。
 変人は、ただひたすら音が出せるよう、努力中。


      花やしきへ繰込む子ども神輿かな     季 己 

続・旅立ち

2008年05月18日 20時51分51秒 | Weblog
 では、①②③について、作品の鑑賞、事実の検証の両面から探ってみよう。
 ①について、作品上は、3月27日の旅立ちに疑問をさしはさむのはおかしい。
なぜなら、『おくの細道』は、創作作品なのだから。
 事実はどうか。
 芭蕉は、3月23日、弟子の落梧宛の書簡をしたため、26日に奥羽行脚に出発すること、2月末に草庵を譲渡してしまったことを伝えている。
 曾良の『旅日記』によれば、出立は、
 「巳三月廿日、同出、深川出船。巳ノ下刻、千住ニ揚ル。一 廿七日夜、カスカベに泊ル。江戸ヨリ九里余」
 とある。
 この部分、一般的には、曾良の誤記ということになっているが、変人は誤記とは考えていない。
 曾良は廿日から千住に入り、黒羽藩主の大関屋敷に挨拶し、準備万端ととのえ、現在の“スサノオ神社”で御籠りをし、芭蕉を待ったのだ。

 当時の藩主・大関増恒は三歳で、芭蕉など知る由もない。けれども、黒羽館代の浄坊寺高勝(俳号は桃雪)、その弟・翠桃は、一時、大関屋敷の近くに住んでおり、そのとき、芭蕉に弟子入りしたものと思われる。
 また曾良自身も、翠桃と顔見知りの間柄であったことは知られている。
 さらに曾良は、芭蕉に入門する前、吉田神道を深く学んでおり、いわば、“免許皆伝”の腕前?であった。そして何より、当時の奥州行脚は、“命がけ”の旅でもあったのだ。
 これらを総合して考えると、上記のことが推し量れるのである。

 一方、芭蕉は、27日、深川の杉風の別荘を出て舟に乗り、曾良の待つ千住の南詰め(荒川区側)に上がり、曾良の案内で大関屋敷へ。ここで挨拶かたがた諸手配を頼み、スサノオ神社で道中安全の祈願をし、石好きの芭蕉は、瑞光石を見ているはずだ。(①、②)
 そして、千住大橋のたもとで待つ門人・知人と別れの挨拶を交わし、千住大橋を渡って、いよいよ奥州行脚に旅立ったのである。

 スサノオ神社の拝殿の右側に、芭蕉の『おくの細道』への旅立ちを記念して、文政3年(1820)、芭蕉忌にあたる10月12日に建立された“矢立初めの句碑”がある。(現在のものは復刻。本物は傷みがひどいので、別に保存)
 書は亀田鵬斎、画は建部巣兆の筆によるもの。当時、千住宿周辺に、多くの文化人たちが活躍・交流していたことが、よく分かる碑である。
 この「行春や鳥啼魚の目は泪」を刻した、“矢立初めの句碑”の建立者は、現在の足立区に住んでいた文化人という。
 足立区にもたくさんの寺社があるのに、なぜ対岸のスサノオ神社に建立したのであろうか。必ず理由があるはずである。
 碑が建立されたのは、『おくの細道』出版後、120年余りのことである。
 おそらく当時の文化人の間には、この矢立初めの句は、スサノオ神社で詠まれたものという、伝承か何かがあったに違いない。少なくとも、スサノオ神社で詠まれたものと、読み解いていたに違いない。(③)
 ただ、「行春や」の句が、『おくの細道』完成間際に差し替えられたもので、実際に千住で詠まれたものではないという事実は、知らなかったと思われる。(③)

 「古人も多く旅に死せるあり」「上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし」「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに、離別のなみだをそそぐ」「もし生きて帰らば」などとあるように、芭蕉の奥州行脚は、まさに“死出の旅”でもあった。
 したがって、芭蕉にとって、隅田川は“三途の川”であり、千住大橋は此岸と彼岸を結ぶ“三途の川の渡し”でもあったのだ。
 だから、作品の上でも、事実の上でも、千住大橋は絶対に渡らねばならなかったのである。どんなに後ろ髪を引かれても、三途の川を渡るときには、後ろを振り返ってはならない。
 「人々は途中にならびて、後かげの見ゆるまではと、見送るなるべし」


      蟻穴を出づるや前途三千里     季 己

旅立ち

2008年05月17日 11時27分09秒 | Weblog
   弥生も末の七日、元禄二とせにや、明ぼのの空、朧々として、月は有あ
   けにて、光おさまれる物から、富士の峯かす(か)に見えて、上野谷中
   の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは、宵よりつどひ
   て、舟に乗りて送る。千じゆと云処にて、舟をあがれば、前途三千里の
   おもひ胸にふさがりて、幻のちまたに、離別の涙をそそぐ。
      行春や鳥啼魚の目は泪
   これを矢立の初として、行道猶すすまず。人々は途中に立ならびて、
   後かげの見ゆるまではと、見送るなるべし。(自筆本「おくの細道」)

 ご存知、松尾芭蕉『おくの細道』の「旅立ち」の一節である。
 元禄二年三月二十七日、陽暦では1689年5月16日にあたる日の早朝、芭蕉は深川から旅立った。
 見送る門人は少なかったようで、それが「むつましきかぎりは宵よりつどひて」という本文に反映していると思われる。
 親しい者だけが前の晩から集まって、早朝の旅立ちの舟に乗って送ってくれる。
 千住で舟から上がった芭蕉は、待ち受けていた曾良とここで合流し、見送りの人々に別れを告げて、奥州へ向かったのである。

 芭蕉が、元禄二年の奥州北陸行脚に基づく作品『おくの細道』の執筆にかかった期間は明らかでない。けれども、芭蕉自筆本の完成したのは、おそらく元禄六年から七年のことであったと想像される。
 『おくの細道』の清書は、後に柳沢家の和歌指南役となる素龍(そりょう)に依頼した。「元禄七年初夏」付の素龍跋文があるので、清書完成はその頃であろう。

 『おくの細道』は紀行文であるが、旅の事実を記したものではない。あくまでフィクションであり、実際の旅をベースにしているとはいえ、それは取材旅行のようなものであり、作品中には多くの虚構が含まれている。したがって、
  ①芭蕉の旅立ちの日時
  ②千住の上陸地点(隅田川の足立区側か、荒川区側か)
  ③「行く春や鳥啼き魚の目は泪」の句を詠んだ場所
 などを、『おくの細道』本文から探ろうとするのは無意味である。
 『おくの細道』はフィクションとして、芭蕉の創作として、そのまま読み、味わえばよいのである。

 幸い、芭蕉に随行した曾良の『曾良旅日記』(岩波文庫)が、残されている。これは、曾良の“旅の手控え”であり、虚構が含まれている可能性は低い。
 それを、旅立日の違いは一般的に、曾良の“誤記”ということで決着がついている。“虚構”が正しく、“手控え”が誤記であると、どうして言えよう。あまりにも安易すぎないか。都合の悪いことは、なんでも誤記にする悪弊である。
 確たる証がない限り、『曾良旅日記』を信じて、実際の芭蕉の足跡を検証すべきであろう。(つづく)


      
     復刻の矢立の句碑や木の芽晴     季 己