蛤の生けるかひあれ年の暮 芭 蕉
そもそもは、画賛としておかしみを志向した発想であろう。しかし、芭蕉自身に、画賛の句を、いわば述懐の句として独立させようとする気持があったためだと思われる。
そこでは、俳諧師としての自分の侘びしい生活のあり方に、蛤(はまぐり)が蓋(ふた)にこもって生きているのと、隠微相通ずるものを感じて、境涯を詠じた作となっているのである。
「蛤」は、歳旦の吸物に使われるという点を指して、「生けるかひ」ということが言われているものと思う。「かひ」は貝の意をこめての縁語仕立てと見るべきであり、「蛤の」の「の」は、「の如くに」という比喩の意をふくんだ用法ととりたい。
季語は「年の暮」で冬。「年の暮」という一年のかぎりを指すよりは、新しい年への心の傾きが中心になっている発想である。
「蛤が新春の料として珍重され、生きていたかいがあるがごとくに、自分も
新年への生きがいをいだきつつ、この年の暮れを過ごしたいものだ」
年詰まる片目達磨のままつまる 季 己
そもそもは、画賛としておかしみを志向した発想であろう。しかし、芭蕉自身に、画賛の句を、いわば述懐の句として独立させようとする気持があったためだと思われる。
そこでは、俳諧師としての自分の侘びしい生活のあり方に、蛤(はまぐり)が蓋(ふた)にこもって生きているのと、隠微相通ずるものを感じて、境涯を詠じた作となっているのである。
「蛤」は、歳旦の吸物に使われるという点を指して、「生けるかひ」ということが言われているものと思う。「かひ」は貝の意をこめての縁語仕立てと見るべきであり、「蛤の」の「の」は、「の如くに」という比喩の意をふくんだ用法ととりたい。
季語は「年の暮」で冬。「年の暮」という一年のかぎりを指すよりは、新しい年への心の傾きが中心になっている発想である。
「蛤が新春の料として珍重され、生きていたかいがあるがごとくに、自分も
新年への生きがいをいだきつつ、この年の暮れを過ごしたいものだ」
年詰まる片目達磨のままつまる 季 己