壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

琵琶行の夜

2009年11月30日 19時47分02秒 | Weblog
        琵琶行の夜や三味線の音霰     芭 蕉

 大垣の近藤如行の家に宿ったときの吟で、座頭(剃髪の盲人)を呼んで三味線を弾かせ、旅のつれづれを慰めたものと思われる。
 『後の旅』には、この夜の雰囲気がよく伝えられている。すなわち、
       「死よ死なぬ浮身の果は秋の暮」
 について記したあとにつづけて、
       「霜寒き旅寝に蚊屋をきせ申し  如行」
 という句を出し、
       「翁をはじめてやどしける夜ふと申し出でければ」
 として、
       「古人かやうのよるの木がらし  芭蕉」
 の脇を置き、
       「かく有りて興じ給ひぬ」
 としたあとに、
       「そののち座頭など来て、貧家のつれづれを紛らしければ
        をかしがりて」
 とあって、「琵琶行」の句が出ている。

 「琵琶行」は、白楽天が江南讁居中、長江のほとりで、船中、琵琶を弾ずるのを聞いて、その感懐を述べた「琵琶行」の詩。
 「三味線の音霰」は、三味線の音が霰のように感じられるの意であるが、実際に霰が降っていてその音が三味線にまじって聞こえたのかも知れない。琵琶に対して三味線は俳諧的なのである。
 「霰」が季語で冬。

    「三味線の音の霰のような調子が、折からの霰の音にまじって、ひとしお
     あわれ深い。こうしてこの三味線の音を聞いていると、白楽天が旅愁と
     どめがたかったあの琵琶行の夜のような感じが胸に湧くことである」


      点滴のしづくぽつりと木菟(づく)啼けよ     季 己

雑炊

2009年11月29日 22時38分03秒 | Weblog
        雑炊に琵琶聴く軒の霰かな     芭 蕉

 「琵琶聴く軒の霰かな」だけでは、巧んだあとが感じられる。しかし、「雑炊(ざふすい)に」によって、生活の手ごたえといったものが生まれ、霰を琵琶ととりなすことさえ、侘びた孤独の心の色になってゆくのである。
 『野ざらし紀行』の際の、「琵琶行(びはかう)の夜や三味線の音霰」の別案とも考えられるが、この句は、挨拶的なものを去って、句境はいちじるしく境涯的なものとなり、己の生活を噛みしめるつぶやきに近いものとなっている。

 「雑炊」は、大根・葱などの野菜を刻み込んで味付けをして炊いたかゆ。わびしい食事である。今は、
        雑炊もみちのくぶりにあはれなり     青 邨
 の名句があるように、「雑炊」は冬の季語とするが、当時は季語として意識されていなかったようだ。
 「雑炊に」は、雑炊を食しているとその時に、というほどの意味。
 「琵琶聴く軒の霰」は、軒打つ霰の音の中に琵琶の音を感じるという意。

 季語は「霰」で冬。「霰」を琵琶の音に聴きなすところに、「琵琶行」がひびいている感じがあって、霰そのものの感じをやや情趣化しているところが目立つ。

    「ひとりわびしく雑炊をすすっていると、軒を霰がぱらぱらと打つ。よく
     はずむその音を聴いていると、琵琶を弾ずる音を聴いているような
     感じがする」


      雑炊に何か足らざるもののあり     季 己

善光寺

2009年11月28日 20時07分56秒 | Weblog
 陰暦十一月二十八日は、浄土真宗開祖の親鸞聖人の忌日である。この日の前後、七昼夜にわたり修する法要を報恩講(ほうおんこう)といい、御七夜(おしちや)、お霜月ともいう。また、親鸞忌、御正忌(ごしょうき)と詠んでもよい。

          善光寺
        月影や四門四宗も只一つ     芭 蕉

 仏教にはいろいろな宗派があり、諸々の教えが分かれて存在している。けれどもその底に、結局はこの澄んだ月のようにただ一つの真実があるだけだ、ということをいっているのであろう。解脱(げだつ)の心は、しばしば「真如の月」とたとえられる。
 松江重頼の『毛吹草』に、
        「月は一ツ影は三千世界哉     弘 永」
 という貞門の句があるが、こんな感じ方が、発想の源流にあるのかもしれない。

 「四門」は諸説あるが、おそらく善光寺四門といわれる南命山無量寺・北空山雲上寺・不捨山浄土寺・定額山善光寺を指すものと思う。
 また『広辞苑』には、東西南北の四つの門、発心・修行・菩提(ぼだい)・涅槃(ねはん)の四門とか、有門(うもん)・空門・亦有亦空門(やくうやくくうもん)・非有非空門の四門とか書いてある。
 「四宗」は、天台・真言・禅・律の四宗であろう。善光寺は、この四宗を兼学して宗名がないも同然だといわれている。現在は単立宗教法人で、天台宗の大勧進と浄土宗の大本願とによって管理されている。
 また、顕・密・禅・戒の四つを指すという説もある。
 さらに、「四宗」は「四洲」の誤りで、「弥陀の四洲」の意である、という説もあるが、軽々に“誤り”とすることには賛成できない。原文の表記にしたがい「四門四宗」のままで解したい。

 季語は「月影」で秋。月がすべてを無差別に明るく照らしているさまに想を発したもので、四門も四宗もそれを強調するために使っている。

    「善光寺の四門の寺々も、四宗兼学の坊々も、この月光の下に一様に照らされ
     て、いっさいの差別を越えた、真如の世界をまのあたりに見るおもいである」


      変人とうそぶきとほし親鸞忌     季 己     

神の旅

2009年11月27日 23時09分26秒 | Weblog
        都出でて神も旅寝の日数かな     芭 蕉

 人々に久しぶりに対面して、くつろいで久闊を叙しあった心のはずみが、この「神も旅寝の日数かな」によく出ている。
 「神の旅」という世上の風説にすがりつつ、それがその折の心境に渾然と融合している点を味わいたい。

 この句、『己が光』に、「翁つつがなく霜月初めの日、武蔵野の旧草に帰り申さる。めづらしくうれしくて、朝暮敲戸(かうこ)の面々に対して」と前書きを付して掲出されている。
 年代は、元禄四年(1691)。前書き、その他から推すと、十月末に沼津で成り、十一月初め江戸到着直後、あらためて門人に示したものと思われる。

 「神も旅寝の日数かな」というのは、(自分の旅寝の日数は)神無月に神も旅寝をされる、ちょうどその日数と同じだという意。
 芭蕉は、九月二十八日粟津の無名庵を出て、江戸に向かい、江戸到着は、曲水宛書簡によれば、十月二十九日、『己が光』などによれば、十一月一日ということになる。しばらくして、日本橋橘町彦右衛門方に仮住まいした。
 神無月(旧暦十月)は、近世の俗信に、諸国の神々が男女の縁結びを相談するために、出雲に神集いし、国々を留守にするので、神無月の名があるとされる。
 これに関連して、「神の旅」の季語があり、陰暦十月一日もしくは九月三十日を「神送り」といい、十月晦日を「神迎え」という。国々では「神の留守」であるが、出雲では「神在月(かみありづき)」という。
 季語は「神の旅」で冬。「神の旅」の「旅」を俳諧的に生かした発想。

    「都を出て、神無月の間中ずっと旅にあったが、それはあたかも神々もその
     鎮座する国々を出て、出雲に旅寝の日数を重ねるときにあたっており、こ
     の私も神と相通う旅寝を重ねたものだと、感慨を覚えることだ」


      三輪の山おもふ皇女(ひめみこ)神無月     季 己

女木沢

2009年11月26日 23時03分06秒 | Weblog
          女木沢 とうけい興行
        秋に添うて行かばや末は小松川     芭 蕉

 女木沢(をなぎざは)のとうけい亭での即興の挨拶句である。地名に秋をあしらったもので、当座の思いつきが生きて、まことに気のきいた発想となっている。

 実際、川の末のほうに小松なども目に入ってきたものであろう。『おくのほそ道』の「しをらしき名や小松吹く萩薄」が思い起こされる表現である。
 ただ「秋に添うて」は巧みではあるが、巧みさがかえっていくらか、句を弱めてもいるようである。

 「女木沢」は、小名木川(おなぎがわ)のこと。宇奈岐沢などともいい、芭蕉庵のあった隅田川の三股と行徳(ぎょうとく)とを結んでいた運河。
 「秋に添うて」は、秋に寄り添うてというので、秋色を賞しつつの意である。前書きに応じて、女木沢に沿うての意をこめていると思われる。『芭蕉句解』に「添の字やさし」と評している。
 「小松川」は、女木沢の東方である。
 即興風の発想が、そのまま挨拶となっている。

    「ものやさしい女木沢の秋に身を寄せ、その秋の景色を訪ねつつ、この川に
     沿って末は小松川までたどり歩いてゆこうよ」


      山査子の熟れて駄菓子屋閉ぢにけり     季 己

心裡描写

2009年11月25日 17時15分41秒 | Weblog
          信濃路を過ぐるに
        雪散るや穂屋の薄の刈り残し     芭 蕉

 前書きに「信濃路を過ぐるに」とあるが、芭蕉が信濃を冬のうちに旅したという資料は見あたらない。したがって、「雪散るや」というのは実際ではないとも考えられるわけである。
 そこで、虚構であると想像されたり、刈り残しの薄が雪のようだという比喩であるととったりするように、前書きとの調整には苦しまざるをえない作となっている。

 「行く春や鳥啼き魚の目は泪」が、『おくのほそ道』の門出のところに掲げられているが、事実としては旅の門出にあたって詠まれたのではなく、『おくのほそ道』執筆の際に作られたものである。
 それと同じように、この句も、「穂屋の祭」の句として、秋に信濃路を過ぎた時の『更科紀行』の旅の経験が心にあたためられ、それが契機となって、刈り残された薄がほうほうと山国の風に吹きみだれているところを想い描いたのではなかろうか。これは想像というよりも、刈り残しの薄を想い描いているうちに、雪が心裡に散りはじめたものであると思う。
 現代の写実風の詠み方からいうと、刈り残しの穂屋の薄の上に、現実に雪が散りかかる景ととりたくなるが、芭蕉の滲透型の発想を考えると、上記のように解したい。
 『撰集抄』に、「信濃路の ほやの薄に 雪ちりて……」というのがあるが、おそらくこれを踏まえた表現ではないかと思われる。

 上五の「や」は、疑問ととるか、詠嘆ととるべきか少々まよう。
 「穂屋(ほや)」は、七月二十七日の信州諏訪大明神の御射山(みさやま)祭に、薄の穂で作る神の御仮屋のことで、歌語である。この祭を「穂屋の祭」ともいう。御射山は、八ヶ岳と赤石山脈との山あいにあたり、今の富士見村のあたりである。
 『猿蓑』がこの句を冬に入れているので、季語は「雪」で冬。神事は七月二十七日であるから秋季。「薄」も秋であるが、穂屋にする薄の刈り残したものは秋か冬かになる。

    「諏訪の御射山祭の後とて、穂屋をつくる薄の刈り残しが、ほうほうと乱れ
     なびいている。そしてそのあたりに山国のこととて、まるで雪がちらついて
     いるように感ぜられる」


      姑娘のウエスト細し冬薔薇     季 己  

夜の声

2009年11月24日 22時45分43秒 | Weblog
        草枕犬もしぐるるか夜の声     芭 蕉

 「夜の声」は、物音一つしない時雨(しぐれ)の闇の底から、夜そのものの声のように鳴く声という心で、いかにもその境にかなった用語である。
 「しぐるるか」の「か」は疑問であるが、深い感動がひそめられている。わびしさの中に、やわらぎのある用語で、対象の中に滲透して把握されたたしかさが感じられる。
 「草枕」は、ふつう旅の枕詞として使われる語であるが、ここでは旅寝の意。
 「しぐれ」の句で冬季。

    「宿に旅寝していると、時雨が旅寝の心を寂しくさせる。あたりの闇は時雨
     のわびしく過ぎゆく音ばかりであるが、その中から犬の遠吠えが聞こえて
     くる。犬も、この時雨にあって、寂しさに堪えかねて夜の底にあのように
     鳴いているのであろうか」


      夜の大門ぬけて小さき熊手買ふ     季 己

都鳥

2009年11月23日 22時46分54秒 | Weblog
 在原業平の「名にしおはばいざこと問はむ……」の歌で知られる都鳥は、隅田川の名物とされていた。俗称都鳥は、いわば雅名で、正式名は百合鷗(ゆりかもめ)のことであるという。
 翼は淡い灰色で他は白。鷗よりやや小さく、海猫に似た声で「ミャオ」と啼く。千鳥の仲間に、くちばしと脚の紅い“みやこどり”というのがいるが、それとは違う。四月ごろ北国に帰る、優艶な旅鳥である。

        塩にしてもいざことづてん都鳥     芭 蕉

 『伊勢物語』の「名にしおはばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人は在りやなしやと」を踏まえた作。
 「塩にしても」とひきおろし、尋ねる意の「こと問はむ」を、言伝(ことづて)の意の「ことづてん」にもじった、古典の卑俗化という談林的手法によった発想である。延宝六年(1678)冬の作。

 「塩にしても」は、塩漬けにしてでもの意。
 「都鳥」が季語で冬であるが、季感がはたらかず、「都」という名称が発想の契機をなしている。

    「江戸から京へのみやげ話としては、名の縁もあることだから、業平ゆかりの、
     この隅田川の都鳥を塩漬けにしてなりと、ぜひ持ち帰り、伝えてもらいたい
     ものだ」

 参考までに、『伊勢物語』第九段の最後の部分を口語訳で示しておく。

 さらに都を遠ざかって、武蔵の国と下総(しもつふさ)の国との境に、たいそう大きな河がある。それを角田河(すみだがは=隅田川)という。その河のほとりにひとかたまりに坐って、「はるかに思いやれば、かぎりなく都を離れて遠くへ来たものだなあ」と、嘆きあっていると、渡し守が「はやく舟に乗ってくれ。日が暮れてしまう」とせかせる。これからさらに下総の国へ、舟に乗って渡ろうとするに、居合わせた人は皆、何とも言えずさびしく、京に残してきた人を思わぬではない。
 ちょうどその時、白い鳥で嘴(はし)と脚があかく、鴫の大きさぐらいなのが、水の上に泳ぎながら魚を食っている。京の都では見かけない鳥なので、誰も知らない。渡し守に尋ねたところ、「この鳥が都鳥でさ」と言うのを聞いて、
       名にしおはば いざこと問はむ 都鳥
         わが思ふ人は 在りやなしやと
        「都鳥という名を負い持つなら、さあ尋ねてみたい、都鳥よ。
         私が想う妻は都に無事でいるかどうかと……」
 と詠んだので、舟中の者がこぞって泣いてしまった。


      枝打ちの音を近くにゆりかもめ     季 己 

冬菜

2009年11月22日 22時47分41秒 | Weblog
 野菜の白さが目にしみる時期である。その新鮮さがかおってくるような、――そんな句を詠んでみたいと思うのだが。

 冬も青々と畑に育つ菜を総称して「冬菜」という。そのほとんどはアブラナ科の植物。東京の小松川で作り出された小松菜は油菜の一変種で、ひたしもの、あえもの、吸い物の実など、用途が広い。
 変人の地元、荒川(旧、三河島)にも三河島菜というのがあったが、今はない。
 長野の野沢菜、京都の酢茎菜、福島の信夫菜、広島の広島菜など、各地特有の冬菜として名高い。

        さしこもる葎の友か冬菜売     芭 蕉

 調べに興じたところもあるが、それが深く沈んで、独りつぶやくような独詠の調子になっている。
 動くもののない寂寥の中に、ぽつんと冬菜売に動く心が感じられ、冬菜売が芭蕉の心の色になっている。

 「葎(むぐら)の友」は、葎の宿における明け暮れの友の意。葎の宿は、葎の門(かど)ともいい、荒れた家や貧しい家のさま。
 「冬菜」が季語。この冬菜は、江戸小松川特産の小松菜か、といわれている。

    「訪う人とてない、冬ごもりの葎の宿なので、たまたま立ち寄った冬菜売が、
     たいそうなつかしい。これは、葎の宿にひとりこもる自分にとっての友とも
     いうべきであろうか」


      葱の香の不意に矢切の渡し舟     季 己  

胸中の画

2009年11月21日 20時50分12秒 | Weblog
          竹画賛
        木枯や竹に隠れてしづまりぬ     芭 蕉

 画賛とは思えない実感のこもった句である。おそらく画もよかったのであろうが、それだけではないと思う。
 画に対して芭蕉は、自分の過去の体験を呼び起こしているところがあり、むしろ、芭蕉の胸中にたくわえられたものが、画によってその流出口を与えられたと見るべきものである。

 この句、『鳥の道』に所出されているが、上五に異同があり、「木枯(こがらし)の」、「木枯は」という本もある。
 やはり、「木枯“は”」や、「木枯“の”」ではダメだと思う。それだと、木枯だけが小さく説明されているに過ぎなくなる。「木枯や」と言ってはじめて、木枯が耳底に消えさって、竹林の葉のさやぎのみが残るという時間的な経過をはらんだ深さが出てくる。この「や」には、聴き澄ましている一瞬の長さが、実に的確につかまれている、と感嘆させられる。
 この句は美しい句であるが、決して美しすぎるということのない句である。この句の調べが、「木枯や」とたかまり、「しづまりぬ」とおさえこまれ、芭蕉の静かな息づきをしっかり生かしているからである。

 「竹画賛」は、竹の画に加えた画賛の意で、その絵は、「寒厳疎竹の画であろう」と幸田露伴は書いている。
 「木枯や」は、冬の竹の画から木枯を呼び起こし、胸中の木枯と画中の竹とで、一つの世界をつくりだしているのである。
 「竹に隠れてしづまりぬ」は、画の趣にそういう気分のかようところがあったのであろう。実際の木枯が止んだのは、画中の竹に隠れたものであろう、と解しては考えすぎだと思う。
 季語は「木枯」で冬。季感がよくとらえられている。

    「木枯がごうごうと吹き荒れていたが、竹林に吹き籠って、今はひっそり
     としずまってしまった」


      波郷忌の手に並べゐる飲み薬     季 己

二人寝る夜ぞ

2009年11月20日 20時53分05秒 | Weblog
        寒けれど二人寝る夜ぞ頼もしき     芭 蕉

 『笈の小文』に、「三河の国保美(ほび)といふ処に、杜国(とこく)が忍びてありけるをとぶらはむと、まづ越人(えつじん)に消息(せうそこ)して、鳴海よりあとざまに二十五里尋ね帰りて、其の夜吉田に泊る」とあって、この句が出ている。
 また、『泊船集』ほかには、「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」とあり、『笈日記』には、「寒けれど二人旅ねはおもしろき」とある。

 「二人寝(ぬ)る夜ぞ」のほうが、「二人旅ね(寝)ぞ」よりは動的で、しっかり実感を把握した表現である。また、「頼もしき」のほうが、「おもしろき」よりははるかにたしかな把握だと思う。『笈の小文』の形が決定稿であろう。

 この句は、芭蕉が弟子の杜国を訪ねようとして、同じく弟子の越人と共に、吉田、今の豊橋に泊まった夜の吟である。貞享四年(1687)十一月十日の作。
 陰暦十一月十日といえば、寒気も厳しい。この「寒けれど」は、もちろんその寒気もあるが、身を置く境遇の寒さでもあっただろう。それだから「二人寝る夜ぞ頼もしき」と発想されたのだと思われる。

 「越人」は名古屋に住み、染物屋を営んだ人で、越路の出身であったので越人と名乗った。芭蕉の死後、支考・露川たちの妄動を怒って、『不猫蛇(ふみょうじゃ)』を著して論難したことは知られている。
 「杜国」は名古屋の人。米穀商。貞享二年八月、尾張藩に罪を得て、伊良湖岬に近い保美の里に身を隠した。名古屋の連衆のなかでは年少であり、才気もすぐれていたので、芭蕉に非常に愛された。
 芭蕉が貞享四年、保美の里に杜国を訪ねたとき、杜国に万菊丸と名乗らせ、吉野へも伴った。元禄三年、三十余歳で没。
 『嵯峨日記』には、夢に杜国を見た、という文がある。
 季語は「寒し」で冬。

    「夜の寒さはきびしいが、いままでの独り寝にひきかえ、こうして越人と
     二人での旅の一夜を寝ると、何となく心強い気持がすることだ」


      街寒し硬貨ことりと販売機     季 己

ひっくり返す

2009年11月19日 14時33分24秒 | Weblog
        秋 思(秋の思い)     劉㝢錫(りゅううしゃく)
     自古逢秋悲寂寥   古(いにしえ)より秋に逢うて寂寥を悲しむ
     我言秋日勝春朝   我は言う 秋日は春朝に勝れりと
     晴空一鶴排雲上   晴空一鶴 雲を排して上る
     便引詩情到碧空   便(すなわ)ち詩情を引いて碧空に到る

       人は昔から、秋ともなればさびしさをかこつが、
       私は言おう、秋の日は春の朝にまさっていると。
       晴れた空に、一羽の鶴が雲をおしわけてのぼってゆき、
       たちまち、詩情をひいて、碧くすみわたる空のかなたに飛んでゆく。
       これこそ秋ではないだろうか。

 秋といえば、悲秋の語が連想され、秋思といえば、旅情や別離のテーマが思い浮かんでくる。
 この詩は、そうした通念に対して、一理屈、批判をこころみ、新たな詩境を開こうとした作品である。
 作者にとって、秋の詩情はさわやかさにこそあるのである。

 詩句そのものは何の奇もない。
 だが、起・承二句では、ずばりと従来の季節感をひっくり返し、読者をハッとさせる。
 転・結二句は、その、ひっくり返した秋のイメージを、あざやかな一幅の絵にしてみせる。鶴が一羽、白雲をかきわけ、紺碧の大空のかなたに飛んでゆくとは、何とさわやかな光景ではないか。これが詩人のセンスというものだろう。一気に彼の理屈に乗せられ、彼の詩境に誘いこまれる気がしてくる。


      秋の雨 知床旅情くちずさみ     季 己   

三布蒲団

2009年11月18日 23時18分24秒 | Weblog
        行く秋や身に引きまとふ三布蒲団     芭 蕉

 行く秋の寂寥が、しみ出てくる句である。行く秋のどうにもまぎらわしようのない気分が、「身に引きまとふ三布蒲団」という、ものうい、他にしようのない動作によって具象化されてきて、それが、行く秋の季感と滲透して、動かしがたい表現となっている。

 「三布蒲団」というのは、三幅の蒲団のこと。「二布(ふたの)」、「四布(よの)」などに対して、三幅を「三布(みの)」という。
 一幅は、日本在来の反物の普通の幅のことで、並幅(小幅とも)といい、36センチ前後。敷蒲団は三布、掛蒲団は四布か五布が普通だったから、三布をかけると少し狭いわけである。
 「身に引きまとふ」は、すきがないように身体にぴったり引きつけてまとうの意。
 季語は「行く秋」で秋季。暮れてゆく秋の、身に沁みてくる寒さとさびしさが主だが、それだけでなく、秋の名残を惜しむ気持が底に流れているのがよい。
 ただし、「蒲団」も冬の季語であるが、「行く秋“や”」と切字があるので、こちらが主である。

    「秋も暮れようとして寒さも身に沁み、まぎらすすべもない寂寥が身に迫って
     くる。やむなく三布蒲団をしっかり引きまとっているばかりだ」


      行く秋のこぼれ日 鳩の瞳がきびし     季 己

散る紅葉

2009年11月17日 20時47分56秒 | Weblog
        尊がる涙や染めて散る紅葉     芭 蕉

 『笈日記』に、「元禄五年神無月はじめつかたならん、月の沢と聞え侍る明照寺に覉旅(きりょ)の心を澄まして」と前書きを付して掲出。また、脇句「一夜静まるはり笠の霜  李由」を添え、この脇句に関連して芭蕉・李由の師弟関係をめぐる逸話を付記している。

 この句は、昨日の句と同様に、李由への挨拶の心をこめて発想している。ただ、紅葉を、尊がる涙が染めたものととりなしたところには、はからいがあらわであって、この期の芭蕉の作としては駄作の部類に入るであろう。

 「尊がる」は、原文に「たふとかる」とあるが、『笠の影』には「たふとがる」と濁点を付して表記されている。「尊かる」かもしれないが、ここでは『笠の影』に従っておく。
 「尊がる涙」は、明照寺の参詣者が、仏恩の尊さを思ってこぼす涙をいう。
 「涙や染めて」の「や」は疑問の意。「涙が(紅葉を)染めて……か」の意と思う。「(散る紅葉が)涙を染めて……か」ではなかろう。
 芭蕉には、すでに「岩躑躅(つつじ)染むる泪(なみだ)やほととぎ朱(す)」や「麦の穂や泪に染めて啼く雲雀(ひばり)」の作がある。これは、いわゆる一つの型をなした発想なのである。
 「散る紅葉」が季語で冬。『俳諧御傘』には「“紅葉かつ散る”は秋なり、“散りそむる”は冬なり」などとあり、多少問題のある季語である。「紅葉散る」を『花火草』以下の歳時記には、一般に十月とする。
 ここでは純粋に紅葉の美を生かしたものではなく、涙の染めたものとする知的操作が加わって、句が弱くなっている。

    「秋深く、紅葉がはらはらとこの寺の庭に散っているが、これは参詣の
     人々が、仏恩の尊さのあまりこぼす涙が染めたものであろうか」


      くちびると十指にしびれ冬りんご     季 己

落葉

2009年11月16日 20時06分48秒 | Weblog
           元禄辛未十月明照寺李由子宿
          当寺、此の平田に地を移されてより、已に百
          歳に及ぶとかや。御堂奉加の辞に曰く、「竹
          樹密に、土石老いたり」と。誠に木立もの古
          りて、殊勝に覚え侍りければ、
        百歳の気色を庭の落葉かな     芭 蕉

 元禄辛未(しんび)十月、つまり元禄四年(1691)十月に、蕉門俳人の李由(りいう)が住職を務める明照寺(めんせうじ)に宿した際に詠まれたものである。
 明照寺の庭の古雅なさまをたたえ、もって李由への挨拶としたものである。寺の庭の趣そのものに即して発想しているところが目につく。また、この句における「を」は、散文には見られぬ重い働きを示しているところに注目したい。

 「明照寺」は、浄土真宗の光明遍照寺。土地では「メンショウジ」と呼びならわしている由。慶長四年(1599)平田の地に移ったという。
 「李由」は、河野通賢、当時の明照寺住職、律師。
 「奉加(ほうが)」は、仏堂や伽藍(がらん)造営のために財物を寄進することで、「奉加の辞」は、奉加を勧める辞である。
 「殊勝」は、ことにすぐれていること。
 「百歳」は、「モモトセ」と読み、「百年」とも表記する。
 「気色(けしき)」は、ありさま、ながめ、おもむきの意。「気色を」は、「気色を眼前に見せて」というほどの意。平田に移ってからの百年という歳月を、ありありと感じさせるところをいったものと思う。「気色であるのを、なおその上」という意味ではあるまい。
 季語は「落葉」で冬。落葉(おちば)そのものの味わいが、生かされている。

    「この寺の庭には、なんとまあ落葉が降りつもっていることだろう。木立・土石
     すべてがいよいよもの古り、いかにも百年の歳月の厚みを感じさせる有様であるよ」


      療養のはじめは銀杏落葉かな     季 己