壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

画に鳴け

2011年05月16日 21時19分43秒 | Weblog
          紫野に遊びて、ひよ鳥の妙手を思ふ
        時鳥画に鳴けひがし四郎次郎     蕪 村

 前書の「紫野」は、京都・大徳寺のこと。
 「ひよ鳥の妙手を思ふ」は、ヒヨドリの鳴き声を巧みに真似る者のいたことを思い出したとの意にも、花鳥画のひよどりを描く名手であった狩野元信を思い出したとの意にもとれる。
 しかし、句中では、ひよどりではなく正面から時鳥に呼びかけているところからすれば、紫野の大徳寺で、元信の時鳥の襖絵(ふすまえ)でも見て、同時にヒヨドリの声をさながらに生かしてみせる者のあったことをあわせて思い起こしたのであろう。
 「四郎次郎」は、元信の俗名。

 「四郎次郎」を、東の空が「白じろ」と明けかかることに掛けて洒落ているのである。機知から生まれた句であるが、このような材料によって、時鳥の「気勢」を作品中に具現しようとしたもくろみは、一応遂げられている。
 名画の霊気凝って時鳥となり暁天に鳴く――という想念が、「第二の現実」として、かなりの美しさと真実さとを与えている。

 季語は「時鳥(ほととぎす)」で夏。

    「霊妙の技に接すると、あっぱれ夜が明ける思いがする。時鳥よ、汝は
     たとえ画中のものであろうとも、汝を描いたのは天下の狩野元信四郎
     次郎だ。東の空が白じろと明けかかるとき、画中に生を得て、せめて
     一声だけでも鳴いておくれ」


      ほととぎす花びら茸をすすめられ     季 己