壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

新大橋

2009年01月31日 20時11分53秒 | Weblog
 広重が最晩年に描いた『名所江戸百景』の中に、「大はしあたけの夕立」というのがある。ゴッホにとくに影響を与えた作品として、よく知られている、あれだ。
 「大はし」は、「新大橋」のことで、架橋は元禄六年(1693)十二月、隅田川3番目の橋である。
 
 天正十八年(1590)、徳川家康は江戸に入り、城下の整備に乗り出した。その事業の一環として、北に向かう交通の整備のため、架橋事業が計画された。
 そうして、文禄三年(1594)に完成したのが「千住大橋」で、下流に「両国橋」ができるまで「大橋」と呼ばれていた。
 2番目の「両国橋」は当初、「大橋」と名付けられ、この橋に続く橋として、3番目の橋を「新大橋」と名付けられた。

          深川大橋半ばかかりける比(ころ)
        初雪やかけかかりたる橋の上     芭 蕉 

 「架けかかった大きな橋の上に、その架けかかったままの橋の形に初雪が置いて、まことに鮮やかなことである」

 芭蕉は、深川の草庵から、工事の様子を見ていたのであろう。架けかかった大橋は、橋板さえもまだ揃っていなかったものであろうが、その木の色も新しい上に初雪がかかったのである。まことに新鮮な感じを把握している。

          新両国の橋かかりければ
        みな出でて橋をいただく霜路かな     芭 蕉

 「待ちかねた新両国の橋がようやく竣工したので、誰も彼も出てきて、この霜の置いて美しくなった橋を、まるで押し戴くような気持で渡っていることである」 

 「新両国の橋」は、前記の深川大橋のことで、浜町と深川をつなぐ「新大橋」である。「橋をいただく霜路」というのは、橋が架かった感謝の心で、霜の置いた橋を押し戴くような気持ちで渡ったというのである。
 芭蕉は、工事中、毎日のように目にして待ちかねていただけに、感謝の気持ちも深かったことであろう。「みな出でて」と、喜ぶ人々の中に自分もとけ込んで喜んでいるのである。
 『芭蕉句選』に、「武江の新大橋はじめてかかりし時の吟なりと聞き侍る」と頭注して「有りがたやいただいて踏む橋の霜」の形を伝えるが、別案であろうか。
 新大橋の竣工は、前述のように元禄六年十二月で、六日から往還を許されたという。
 いずれの形にせよ、美しく置かれた霜が、感謝の気持ちを呼び起こしているのには変わりない。


      里すずめ何してあそぶ冬の雨     季 己            

春を待つ

2009年01月30日 20時33分24秒 | Weblog
        待春や氷にまじるちりあくた     智 月

 智月は、寛永十一年(1634)、山城の生まれという。若い頃に御所に奉公し、のち近江大津の伝馬役・問屋役の河合(川井とも)家に嫁し、貞享三年(1686)夫に死別後、尼となる。
 貞享末頃に芭蕉の門弟となり、元禄三、四年には、師の芭蕉をしばしばその亭に迎え、近江蕉門に女流として重きをなした。

 さて掲句、季語は「待春(まつはる)」と「氷」と二つあり、共に冬である。
 「待春」は、今では「たいしゅん」と音読みすることもあるが、「春を待つ」に同じく、いつまでも寒さが退かずに、春が待たれるのをいう。
 「ちりあくた」は「塵芥」。流れて来たちりやあくたが、冬になって水の減った小川にへばりついて、寒さの厳しい朝など氷が張って閉じ込められていた。
 それが、もう、春もすぐ間近で、日中など寒さもいくらかゆるみ、小川の氷も解けかかって、そこに塵芥が混じっているように見える。それにしても、春水四沢に満つるという春の訪れが、何となく心待たれることである。といった意であろう。
 多くの人の見逃しがちな眼前の寸景に、春を待ちわびる心を寄せたところなど、女性的な感覚といえよう。
 この作者には、
        鶯に手もと休めむ流し元(もと)
        麦藁の家してやらん雨蛙
 などのような女性らしい句がほかにもある。

        春近し雪にて拭ふ靴の泥     欣 一
        九十の端を忘れ春を待つ     みどり女 

 今日は終日雨。その雨の中を「両洋の眼・第20回記念展」を観に、日本橋三越へ行く。これについては別の機会に書こう。
 そして現在(22時45分)の室温は13度。もちろん暖房器具は一切ない。降る雨の音からも春の近いことが感じられる。これが郊外にでも出れば、空の色や光、野山のたたずまいなどから一層、春の近いことが知れよう。

 「春近し」は、「春の近い訪れを待つ心」、「春を待つ」も、「春の近い訪れを待つ心」だが、「春近し」よりも主観的で、待ちわびる気持が強い、とどの「歳時記」にもある。 


      日本橋とらやののれん春近し     季 己      

雪あそび

2009年01月29日 20時31分01秒 | Weblog
 今頃から二月初旬にかけてが、最も多く雪の降る季節であろう。

        雪見酒一とくちふくむほがひかな       蛇 笏
        大小の雪まろげ行きちがひけり        みづほ
        雪だるま星のおしゃべりぺちゃくちゃと    たかし
        朱の盆に載せて丹波の雪うさぎ        時 彦
        雪合戦わざと転ぶも恋ならめ         虚 子

 雪見・雪まろげ・雪だるま・雪うさぎ・雪合戦と、雪には色々な遊びが見られる。
 花見・月見と並んで雪を眺めて賞する風流は、かなり古くからあった。山の遠い江戸では、高い台地に登ったり、舟で周辺の雪を賞するなど、雪見は物見遊山の一つであった。
 ところで、荒川区で最も早く人々が暮らし始めた場所が、日暮里(にっぽり)地区であることはよく知られている。
 その日暮里の丘陵には、花見寺(修性院・青雲寺)・月見寺(本行寺)・雪見寺(浄光寺)と、雪月花の景勝地が揃っており、四季折々の草花を楽しみながら、神仏に参詣できる江戸有数の名所であった。

 雪まろげの“まろげ”は、丸めること。雪のかたまりをつくって、雪の上を転がしてゆくと、だんだん大きな雪のかたまりになる。雪遊びの一つで、それから“雪だるま”をつくることにもなる。
 雪だるまをつくる時、雪のかたまりを転がすと雪が付いて、見る見る大きくなるように、次から次へと目に見えてふえてゆくさまを、「雪だるま式」という。
 教育も“雪まろげ”をつくる段階が非常に大切で、これをしっかりつくってやれば、あとは“雪だるま式”に、子供たちは成長してゆく。

                久米朝臣広縄
        なでしこは 秋咲くものを 君が家の
          雪の巌に 咲けりけるかも (『萬葉集』巻十九)

 孝謙天皇の天平勝宝三年(751)正月三日に、内蔵忌寸縄麿(くらのいみきなわまろ)という人の家に、友人たちが集まって雪見の宴を催した。そのとき、庭前に雪を積み上げてこれに彫刻を施し、峨々たる岩の屹立したさまを造って、色々な造花をそれぞれに挿して楽しんだ。その時に詠まれたのが、広縄の歌である。
 これは、全国的な人気を集めている、札幌の雪祭りの先祖とも言えよう。

 もう一つ。村上天皇の応和三年(963)十二月二十日に、宮中で、飛鳥部常則に命じて、雪を積み上げて蓬莱の山を造らせたことが、『源氏物語』の注釈書である『河海抄』に見える。常則は、当代随一の絵描きで、画所の雑色が手伝っているから、その頃の雪山には、立派に芸術的価値が認められていたものと思われる。


      夕影は夢見るに似て雪うさぎ     季 己

寒梅

2009年01月28日 18時08分28秒 | Weblog
 ベランダの盆梅が、一輪開いた。
 今朝、雨戸を開けたときは気づかなかったが、夕方、雨戸を閉めるときに、はじめて気づいた。真白で可憐な一輪……。
 一月ももう末。日一日と日脚が伸びて、春もはや隣という感じがする。

        寒梅のあたりにて日の終りかな     稚 魚

 梅といえば春の季語であるが、寒梅は、早咲きの梅の一種で寒中すでに花を開くものをいう。

        寒紅梅にごりて息の出でくるも     節 子

 寒紅梅は八朔梅ともいい、寒中に咲く八重の紅梅で香りがない。

        あたたかき今年の冬よ冬至梅     風 生

 また、冬至梅は冬至のころから咲く白梅である。

        日だまりの谷の寺なり冬の梅     乙 字

 寒梅、寒紅梅、冬至梅などを総称して冬の梅という。

 さて、関東では熱海、関西では南部(みなべ)など、温暖な地方の梅林では、そろそろ盛りも過ぎたころだが、一般の民家の庭の梅は、日増しに蕾をふくらませていることだろう。

        早梅や深雪のあとの夜々の靄     龍 雨

 早梅(そうばい)は品種ではなく、冬の早咲きの梅の花をいう。風の当たらない温かい地などに、春にさきがけて開く梅である。

        寒梅や痛きばかりに月冴えて     草 城

 寒さを凌いでなどと形容されるように、寒中に花開く寒梅にこそ、その潔い風格が尊ばれることである。
 掲句の作者、日野草城は昭和31年(1956)1月29日に亡くなっている。

        霜雪も いまだ過ぎねば 思はぬに
          春日の里に 梅の花見つ

 『萬葉集』巻八に見えるこの歌は、ちょうど寒中の梅を詠んだものと思われる。


      寒梅や一期一会の志野茶碗     季 己

三十三才

2009年01月27日 20時13分23秒 | Weblog
 アイムソーリ・ヒゲソーリの麻生さんなら、「三十三才」を何と読むだろうか。聞いてみたい気がする。やはり「さんじゅうさんさい」と読むのだろうか。

        干笊の動いてゐるは三十三才     虚 子

 もちろん、「さんじゅうさんさい」という読みもあるが、この句の場合は、「みそさざい」と読む。
 ミソサザイは、ごく小形の鳥で勾玉のような体をしている。羽には焦茶色で小さい斑紋がある。冬から春にかけて、低い陰湿な草叢や人家付近に生活し、軒先や植込みをとび伝う。

        みそさざいちちといふても日が暮る     一 茶

 ホーホケキョと玉を転がすような美しい声にはならず、チチ、チチと遠慮がちに声を試しているのが冬の鶯。
 そうした鶯よりも早く馴れて、細い澄み透った声で、チチ、チチと短く囀るのが、こまっちゃくれたミソサザイである。
 許六(きょりく)の句に、「鶯に啼いて見せけりみそさざい」というのがある。

 日本で最も小さく可憐な小鳥は、キクイタダキといわれるが、それと同じくらい小柄な種類に属するミソサザイは、本当にこまっちゃくれたお節介焼きである。

        物あればすなはち隠るみそさざい     子 規

 すっかり人里に馴れて、チョンチョン、チョンチョン、土間に入り込んで来ては、何にでも隠れ、思いもかけぬ物陰から飛び出して来て驚かせる。

        たのしくなれば女も走るみそさざい     みづえ

 小さな虫や蜘蛛などを見つけて食べるのだが、仔細ありげにキョロキョロ辺りを見廻しながら、敏捷に飛び廻っているミソサザイは、何かおしゃまな小娘といった感じのするものである。

        みそさざいキョロキョロ何ぞ落したか     一 茶

 親のない子雀には親愛の情をこめて呼びかけた一茶も、ミソサザイの屈託の無さには、ちょっぴり皮肉も言ってみたくなったのであろうか。

        三十三才 瞳(め)にうつるもの皆暮色     青 圃
        
 めったには木の枝にも止まらず、生垣や植込みの間をかいくぐりかいくぐり、よくもまあ、こまめに立ち働くこと……。


      三十三才来るや黄瀬戸の窯の跡     季 己

檜隈

2009年01月26日 22時35分21秒 | Weblog
                  作者不詳        
        さひのくま 檜隈川に 馬とめて
          馬に水飼へ 吾よそに見む (『萬葉集』巻十二)

 「さひのくま 檜隈(ひのくま)」は、「みよしのの吉野」、「まくまのの熊野」と同じように、檜隈に接頭語“さ”をつけた畳語(じょうご)式の枕詞である。その枕詞が、かかるべき地名に取って代わって使われることもあり、「さひのくま」も、檜隈に代わって使われている。

 それにしても、おそろしく調子のいい歌である。「さひのくま 檜隈川」という畳語式の出だしも、調子で言っているところがある。
 檜隈川は、現在、橿原神宮前から吉野に向かう電車が沿うて行く川である。
 この地方は、蘇我氏の勢力の中心で、古くから高度の技術文化を持った帰化人が大量に住みついた。古代においては、もっとも人口稠密の集落で、今の明日香村檜前(ひのくま)が檜隈郷の中心である。
 藤原京からすると、南方の繁華な軽の市(かるのいち)に向かって、当時二十五間以上もあったと言われる軽の大路が貫き、それはさらに檜隈を経て、紀伊国へ通じている。
 だから、この街道筋には、おのずと客商売の家などもあったと思われる。この歌には、どことなく檜隈ぶりともいうべき特色を持っていて、いくらか水商売じみた駅女の発散させる、ひなびた艶っぽさが漂っている。

 「馬に水飼へ」を、ただ「男の朝帰り」と解するのでは、ぴったりしないように思う。そう解すると、「檜隈川に馬とめて」が、女の家を立ち去って、あまり遠くない途中でまた馬をとめ、それを遠くから眺めるというところに、やや納得のいかない部分が残る。
 「馬とめて」は、やはり街道筋で馬に水飼う(水を与える)情景で、しばし休息をとって立ち去る他郷の男に対する檜隈乙女の心情を思いやったものではなかろうか。男は何度もこの街道を往還して、顔なじみであったかもしれない。

 「吾よそに見む」というのは、私はよそながら見ていよう、ということ。
 「そこのすてきなお方。檜隈川に馬を止めて、馬に水をおやりなさいな。よそながらあなたを見ていようぞ」の意で、明るく、宴席でも歌われたらしいところが見える。


      檜隈のゆかり枯野の古墳群     季 己 

凍蝶

2009年01月25日 20時46分29秒 | Weblog
 凍てついた朝、家の周囲を掃いていると、真白な蝶が、地面に落ちているのを見かけることがある。
 「ああ、かわいそうに。せっかくこれまで生き延びてきたものを、いよいよこの寒さに凍ってしまったのか」と、箒にかけて掃き寄せようとすると、力なくほろほろと舞い立って、一メートルほど先へ落ちてしまう。

        凍蝶の上ると見えて落ちにけり     梅 子

 冬の蝶が、じっと凍ったようにして動かないのが凍蝶(いてちょう)である。実際に死んでいる場合もあるが……。
 凍蝶にはもちろん、高い木の枝まで舞い上がる力はない。地面に立とうとする六つの脚も弱々しく、合わせた四枚の翅もゆらゆら傾いて、また、ふわりと横になってしまう。

        冬蝶の静かにたたむもろ羽かな     うしほ

 初冬の、まだ暖かい日など、色移りした菊の花などを求めて、飛んでゆく蝶をよく見かけた。けれども、珍しく生き残った寒中の蝶には、ほとんど飛ぶ力もなく、日溜りの木の幹に、身動きもせず縋りついていたり、日当たりのよい生垣の茂みに身をひそませているのを、見かけたりもする。

        凍蝶に指ふるるまでちかづきぬ     多佳子

 弁慶の立ち往生ではないが、じっと動かずにとまっている蝶を、そっとつついてみると、もうそれは凍え死んだもぬけの殻で、はらりと地面に落ちることもある。


      凍蝶の箒ふれねば身じろがず     季 己

竜の玉

2009年01月24日 22時46分03秒 | Weblog
        竜の玉深く蔵すといふことを     虚 子

 竜の髯は、ユリ科の常緑多年草で、20センチメートルくらいの細長い葉を叢生、それを髯に見立てた名で、蛇の髯(じゃのひげ)ともいう。
 もともと野や山に自生している草だが、築地や生垣の下草として植えたり、つくばいの手水鉢の廻りや、軒の雨垂れの落ちる所などに植え込まれている。拙宅では、石の「わらべ地蔵」の脇に生えている。いま、これが美しい碧色の実をつけているが、これは実でなく種だという。

 ユリ科といっても、竜の髯はごく地味な目立たない草で、初夏に淡紫色の小花を、込み合った葉陰に、ひっそりと咲かせているだけで、いっこうに人目にはつかない。

        深々と沈みて碧(あを)し竜の玉     喜 舟

 しかし、常緑の竜の髯は、辺りが冬枯れの白茶けた頃になると、深々とした濃い緑を茂らせて、かえってその存在を目立たせて来る。
 その込み合った細い緑の葉の中に、吸い込まれるような魅力を持った碧い玉。南天の実くらいの小ささながら、千尋の海の深さにも等しい、神秘さを湛えているのが、竜の玉である。
 竜の玉の碧さは、磨き上げたサファイアにも喩えられるであろうか。いやいや、そんな浅はかなものではない。その艶やかな肌は、翡翠の玉といえるだろうか。いや、もっと純粋な美しさである。

        亡師ひとり老師ひとりや竜の玉     波 郷

 初冬の頃の淡いコバルト色から、この頃の紺碧の深さまで、自然は、手塩にかけてこの小さな玉を磨き上げてきたのである。まるで先生が、生徒一人ひとりを磨き上げるように。
 だから、あの伝説的で神秘な動物、竜の抱く玉と呼ばれることとなったのであろう。

        なまぬるき夕日をそこに竜の玉     稚 魚

 竜の玉は、ところによっては子供たちが「はずみ玉」などといって、これをもてあそんだりしている。
 竹鉄砲に入れて、ポンと飛ばしたり、皮をむいて芯を板の間ではずませたり、用途は山の子供がよく知っている。
 はずみ玉という名があるように、この半透明な芯は、じっさいよく弾む。


      竜の玉 旅の一夜は星をみて     季 己

飛梅

2009年01月23日 22時42分25秒 | Weblog
        飛梅やかろがろしくも神の春     守 武

 飛梅(とびうめ)は、菅原道真の伝説にまつわる梅の木で、大宰府安楽寺の梅がそれだと言い伝えられている。その伝説とはこうだ。
 道真が大宰府に左遷されて京の邸を出るとき、平生愛した梅の木に向かって、
        東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花
          あるじなしとて 春な忘れそ
 と詠じた。すると、その梅の木が、のちに道真のあとを慕って大宰府に飛んで行き、そこに生えて花を咲かせた、というのだ。

 守武のこの句は、『守武千句』巻頭百韻の発句だが、守武がこの千句に最初に着手した日付が、天文五年(1536)正月二十五日であり、二十五日が連歌の神と尊ばれた天満宮(道真)の月次例祭日であることを考えれば、「飛梅」は、彼がこの史上最初の俳諧千句をなすに当たって、天神に祈る気持をこめて詠みこんだものであることが推測される。

 「かろがろしくも」は、飛梅が軽々と飛ぶ意に掛けて、軽はずみの意を表している。つまり、神変を現じて飛んだ尊い梅を、あえて軽はずみだと言ってのけるところに、俳諧味を持たせたのである。おそらく、前代未聞の俳諧千句などに、しゃしゃり出る自分の軽率さを卑下し、苦笑する心を秘めているのだろう。

 つぎには「軽い」から連想される縁語の「紙」を出すと見せて、これを同音異義の「神」にひねり(掛詞の機知)、「神の春」(紙の貼る)と結ぶ。
 「神の春」は、神社の春の意で、「今朝の春」、「花の春」などの季語と同じく、新春を寿ぐ常套語である。

 句意としては、飛梅が軽々と飛んで、社頭の春を寿いでいる、といったところであろう。しかし、叙景とか嘱目とかの句ではない。主眼は、神聖な飛梅を軽率と茶化す心、あるいは、自身の軽率さに対する苦笑いにある。
 縁語や掛詞による機知のおかしみも、この時代には、俳諧的滑稽の大切な要素であった。

        今生に父母なく子なく初天神     あ や

 わが身につまされる句である。幸い母は健在であるが……。
 初天神は、一月二十五日、新年初めの天満宮の縁日のことで、大宰府・京都北野・大阪天神・東京亀戸などがことに有名である。
 大阪の天満宮では、北新地より芸妓連の宝恵駕籠(ほいかご)による練り込みが見られ、東京の亀戸天神では、「鷽替神事(うそかえしんじ)」が、一月二十四、二十五日に行なわれる。

        鷽替の鷽の小ささ守護(まもり)とす     素 子

 鷽は幸せを招くとされる鳥で、これをかたどった木彫りの鷽が、この二日間だけ授与される。前年の鷽(嘘)を返納し、新しい鷽と取り(鳥)替えることで、昨年の悪いことが嘘になり、開運や合格・出世が得られるのだという。守武の句同様、言葉遊びのようで楽しい。
 この縁起物の鷽は、高さ4センチから21センチまで、11種類の大きさがあり、価格は500円から7000円まである。
 小さな物までよく出来ており、素朴で愛らしい。十人ほどの神職が、木曽檜を手作りで彫り、着色して仕上げているとのこと。両日で3万個ほど授与され、なくなりしだい終了。


      丑歳の牛てらてらと 初天神     季 己

冬の海

2009年01月22日 21時49分55秒 | Weblog
 敬愛する石田波郷の句に、こんなのがある。

        大寒やなだれて胸にひびく曲     波 郷

 波郷の「胸にひびく曲」とは、一体どんな曲なのか聞いてみたい気がする。

 この時節、「胸にひびく」というか、切なくなる曲の一つに、北原白秋 作詞、中山晋平 作曲の『砂山』がある。

        海は荒海、向うは佐渡よ。
        すずめ啼け啼け、もう日はくれた。
        みんな呼べ呼べ、お星さま出たぞ。

        暮れりゃ砂山、汐鳴りばかり。
        すずめちりぢり、また風荒れる。
        みんなちりぢり、もう誰も見えぬ。

 懐かしいこの童謡を歌うと、胸が切なくなる。特に、ゆったりと歌うと……。
 と同時に、日本海の沖の潮鳴りが、ドーン・ドドーンと響いてくるような気がする。(いま「潮鳴り」と書いたが、本来は、「潮」は朝しお、「汐」は夕しおのことである。現在では一般に「潮」と書く。)

 現在、曲調が異なる二つの『砂山』が世に知られている。
 大正11年発表の中山晋平作曲のものは、童謡というより民謡に近い響きを持った曲だ。また、昭和元年に作られた山田耕筰作曲のものは、歌曲といった面持ちがする。どちらも名曲で甲乙つけがたいが、人気の点では、中山の方が一歩リードしているとのこと。
 私自身は、どちらも好きだが、山田耕筰の方をゆったりと歌うと、切なくなってしまう。

        冬浜に老婆ちぢまりゆきて消ゆ     三 鬼

 冬の北の海は、暗澹として荒涼たる眺めの中にある。
 清少納言の『枕草子』に、「すさまじきもの」という段がある。父の元輔について、周防の国まで瀬戸内海を旅した少女時代の経験はあっても、北の冬の海を知らない彼女は、それを数え上げてはいない。
 もし、紫式部が「すさまじきもの」を数えたならば、父の為時が、越前守になった時、敦賀まで一緒に旅した彼女は、きっと、冬の海のすさまじさを上げたことであろう。

        真黒き冬の海あり家の間(あい)     虚 子

 暗い雲が低く垂れ込めた水平線の彼方から、真っ黒い波のうねりが、飢え切った狼の群のように、次から次へと押し寄せては、氷のような白い牙をむき出して、磯辺の岩に噛みついている。
 
        浪引けば沖高く冬の海凹(へこ)む     友次郎

 ひゅうひゅうと唸る北風。ごうごうと耳の底に迫ってくる海鳴り。打ち上げられた藁屑や木切れが、拾う人もなく、無残に散らばり、揚げ舟さえが、脅え切ったような姿を砂浜に曝している。

 言い知れぬ孤独さに、打ちひしがれて越前の海辺に立っていると、北風に吹き払われた雀の群が、さあーっと高く舞い上がって、集落の方へ消えて行く。

        冬海や落花のごとく鷗浮く     草田男

 いくらか風も凪いで、薄日の差す日には、千鳥や鷗が、波に浮いて餌を求め、日溜りに翼を休めているのを見かけると、わずかに人心地を取り戻す気がする。


      冬の汐 男島女島を隔てけり     季 己

初大師

2009年01月21日 18時02分19秒 | Weblog
 今にも雪がちらつきそうな一日だった今日、1月21日は初大師、弘法大師の初縁日である。

        初大師降りしと見ればやみし雪     真砂女

 弘法大師は、真言宗の開祖で空海のこと。高野山を開き、承和二年(835)三月二十一日示寂。忌日にちなみ毎月二十一日を縁日とする。
 “大師”号を贈られた僧はたくさんいるが、ただ単に「お大師さん」といったら、弘法大師空海を指す。

        初大師東寺に雪のなかりけり     羽 公

 東寺の塔は、「京都へ来た」という思いを、切実に感じさせる塔である。
 少し高い所に登ると、ある時は近く、ある時は遠く、東寺の塔が、京都の街の屋根の波を越えて、天高くそびえるのが見える。

 京都の人は、東寺のことを「弘法さん」と呼んで親しんできた。
 年初めの「初弘法」、年末の「終い弘法」の二十一日には、終日の人出で、広い境内も狭いほどになる。
 東寺が民衆に支えられてきたのは、弘法大師への信仰である。熱き思いである。
 境内西北あたりの一画を西院と称し、ここに大師をまつる大師堂がある。康暦二年(1380)の再建という。前面は拝所になるが、後方から眺めると桧皮葺の屋根は低く流れて優雅で、白壁と蔀戸(しとみど)が清らかである。
 この堂は、弘法大師が今もここにおわすという心持によって、住宅風に造られている。心の安まる建物だ。
 むかし、東寺の坊に泊まって、夜明け前の大師堂に詣でたことがある。肌寒い暁の闇の中につぎつぎと信者の人影が見え、拝所には幾列にも献灯の蠟燭の灯がゆらめいて、信仰の灯の光が、こんなにも生き生きと美しいものであることを、心が引締まるほどに感じた。

 ――東寺は、桓武天皇の平安京造営のとき、この新京の中のただ二つの寺として、西寺と対称的の位置に、同じ構成で建てられた国家を守る寺であった。当時、南から京の正面に向かう人々は、羅城門の偉容を中央に、朱雀大路を挟んで左右に各数町はなれて、東西両寺の堂塔の建つ雄大な眺めに驚きの目を見張ったに違いない。
 東寺は、千二百年近くの今日まで、その地を変えず、また建物は再建を重ねてきたが、創建当時を思わせる伽藍を擁して、法灯を保ってきた。西寺も羅城門も廃絶して八百年余りと比べて、何という違いであろうか。

 創建の東寺の造営は、弘仁四年(813)頃にだいたい出来上がったようである。初めは特に真言宗の寺ではなかったが、やがて真言宗僧五十人が常住することになり、弘法大師空海が別当に任じられ、天長二年(825)に教王護国寺と新たに寺名をつけ、ここに、弘法大師を第一代とする真言宗の東寺が発足した。
 こうして真言宗の都における本拠となり、その信仰の力で現在まで続いてきたのである。平安京当初の史跡として最も大切な寺である。

 境内の東南の隅にそびえる五重塔は、正保元年(1644)の再建で、高さ約55.7メートル、全国で一番高い塔である。
 講堂の内部に入ると、仏壇を大きく構え、そこに二十一体の仏像が、整然たる配置で祀られている。中央に五仏、向かって右に五菩薩、左に五大明王とそれぞれのグループがあり、四天王・梵天・帝釈天を配し、これらが渾然として真言密教の根本道場としての構成を、創立時のままに伝え、しかも大部分が弘法大師当時のすぐれた遺像であることは、何にも増して尊い。


      初大師 山をおもへば心澄み     季 己

二十日正月

2009年01月20日 22時34分55秒 | Weblog
 季節はずれの暖かさの昨日とは打って変わって、大寒の今日は、暦どおりの寒い一日であった。
 また、今日は二十日正月といい、小正月の十四日から数えて七日目に当たり、正月儀礼の納めとする日でもある。

        正月も二十日になりて雑煮かな     嵐 雪

 近畿以西では、正月料理の残りである肴の骨で料理を作ったことから骨(ほね)正月という。
 元旦からの三が日、そして七草粥を祝う七日正月、十四日夕から十五、十六日にかけて祝われる小豆粥の小正月、そのお終いが二十日の骨正月ということだ。

        ものがたき骨正月の老母かな     虚 子
        二番餅二十日正月祝ひけり      八重桜

 床の間に飾った鏡餅とは違って、家庭の主婦たちが、鏡台に供えて置いたお餅を開いてお祝いをするのが、初顔(はつかお)を祝う語呂に合せた“二十日正月”というわけである。

        鰤の首尾祝ひ納むる二十日かな     蝶 衣
        長崎の骨正月や餅の黴          柳 之

 それを骨正月と言うのは、関東の新巻鮭や塩引き鮭と違って、関西のお正月にはなくてはならない塩鰤の食べ納め。残り物の頭や骨を牛蒡や大根、昆布などと炊き込んだ糟汁のお雑煮が、この日の主役となっているからである。鰤の頭を食べることから頭(かしら)正月とも言う。
 あくまでも節約主義の関西人、残り物の始末をきっちりつけて、お正月のお祝い気分を締めくくろうという魂胆かもしれない。

        乞食の骨正月や霙(みぞれ)降る     菰 堂

 餅に代わって団子を食べるところから団子正月・二十日団子と呼ぶ地方もある。また、麦正月・乞食正月・奴正月・灸(やいと)正月など、異称が多い。


      二十日とて言問だんご 家づとに     季 己

寒雀

2009年01月19日 21時08分26秒 | Weblog
 明るい朝の日差しが、障子いっぱいに差し込んでいる。
 さっと小鳥の影が横切ると、チチチチ、チチチチと、ひとしきり賑やかな雀の声がして、玄関脇の御影石へ、餌を拾いに来る。前日に神棚や仏壇に供えた米やご飯を、毎朝、撒いておくからだ。

        とび下りて弾みやまずよ寒雀     茅 舎

 冬になると餌が少なくなるためか、用心深い雀も人家付近に集まってくる。屋根や軒、あるいは枯れ枝に来る姿は、厳しい寒気の中で、誰もが目にしているものだ。寒気の中、羽毛に空気を取り入れ、羽をふくらませている愛らしい姿を、ふくら雀という。

        光悦の墓前にふくら雀かな     澄 雄

 枯葉も落ちつくした裸木に、忙しく枝移りして、冬籠りの虫を探し出しては啄ばんでゆく。
 和毛(にこげ)に丸々とふくらんだ胸のあたりが、言いようもなく可愛く、見るからに暖かな気がするのも、冬の朝の楽しみの一つである。

        寒雀身を細うして闘へり     普 羅

 秋の取入れ時には、稲穂を啄ばむ“いたずら者”として憎まれもするが、食べ物の乏しい冬には、人里近くに群がって、こぼれた餌や冬籠りの虫をあさる雀には、何の罪科(つみとが)もない。
 第二次大戦後、野鳥の捕獲が禁止されたが、雀はその対象外となったため、焼き鳥として賞味されている。特に、伏見稲荷の周辺の茶屋の名物にもなっている。

        天の国いよいよ遠し寒雀     三 鬼

 寒雀に限らず、人類の友として全く善意そのものの小鳥たちを、霞網という腹黒い企みや、空気銃・猟銃などという恐ろしい凶器を持って、待ち構えている人間がいるとは、なんとも情けなく腹立たしい。

        しみじみと牛肉は在り寒すずめ     耕 衣

 寒雀・寒鶫(つぐみ)、せめてもの寒さ凌ぎに神様から授かった、皮下脂肪を蓄えるという、生命保全の手段すら、一時的な食欲満足のために、その命を奪う人間とは、何と極悪非道な存在なのであろう。
 それとも気づかず、寒雀たちは、チチチチチと囀りながら、無心に餌を拾っている。

 明日の大寒を前にして、今日は季節はずれの暖かさ。東京は四月上旬の気温だった。日本橋のデパートでは、半袖姿の女性を何人か見かけた。真冬はダウンジャケットの“着たきり雀”の、この身が恥ずかしかった。
 

      寒すずめ読経のさなか翔ちにけり     季 己

三十三間堂

2009年01月18日 22時44分30秒 | Weblog
 京都東山の三十三間堂で18日、伝統の通し矢にちなむ新春恒例の「大的(おおまと)全国大会」が開かれ、二千人近い振袖に袴姿の新成人が集い、弓引き初めがあった。直径1メートルの大的を、60メートル先から何本の矢を通せるか競いあった。

 ――鴨川の東、今熊野の山々を背景とする三十三間堂のあたりは、また景勝の地として、平安時代の中頃に法住寺が建てられたが、その跡に、後白河上皇は法住寺御所を営んで住まわれ、その御所の域内に蓮華王院という寺を、長寛二年(1164)に建てられた。この蓮華王院の本堂が三十三間堂である。
 しかし、創建の三十三間堂は、建長元年(1249)、市中の大火が鴨川を越えて飛び火し、惜しくも焼失してしまった。
 直ちに再建にとりかかり、十七年後の文永三年(1266)に落慶供養が行なわれた。これが今の三十三間堂である。鎌倉時代の再建ではあるが、建物も仏像も元の通りに復興したので、今もわれわれは、創建当時と同じ姿を見ることができるのである。

 実に長いお堂だ。背面の西側で見通すと、その長いことがよくわかる。背面では扉が少ないのでいささか重苦しいが、正面はすべて扉が開かれるので、明快でのびのびした王朝時代の雰囲気がある。
 三十三間堂の名は、内陣正面の柱間(はしらま)の数が三十三あるのでいうが、外観は両脇の外陣(げじん)各一間が加わって三十五の柱間となる。実際の大きさは、南北118.2メートル、東西16.4メートル。

 内部に入ると、中央内陣を広くとって、大きい丈六の千手観音坐像を本尊として祀り、左右の内陣には、それぞれ十段の階段に五十体ずつの千手観音立像、合わせて一千体が並ぶ。
 一隅に立って見渡すのが好きだ。金色のほのかに輝くこの大群像は、寂として静かな中にも、重なり合って波の寄せるように、人を圧倒する量的な力を秘めている。一千体の中には、建長の火災を免れた像も百以上あるが、大部分は当時の仏師を総動員して新しく造ったものという。

 このような大規模な千体堂の建立(こんりゅう)は、誰にでも出来るものではないが、千体の仏像を祀ることは、熱烈な信仰を数量で実現しようとするものであった。それが、藤原時代末期の人々の信仰であり、三十三間堂はそれを代表する豪華な信仰遺物である。
 世に、「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、観音は三十三に化身するとされるから、本尊と脇仏の一千一体をこの数に計算したもので、ここにも数量的信仰の思想がうかがわれる。

 背面の縁側は、三十五間見通しになっているが、この場所を利用して、江戸時代に諸国武士の大矢数(通し矢)が競われた。
 北端に的を置いて、南端から射通し、一昼夜をかけて的中した矢の数を競うもので、貞享三年(1686)の紀州藩士、和佐大八郎の総矢13053本、通し矢8133本が最高記録になっている。


      寒桜あたりありあり淡きかな     季 己

ウソ

2009年01月17日 21時06分51秒 | Weblog
 大学入試センター試験が今日から始まった。54万人が受験し、そのうち79パーセントが現役だという。いよいよ、入学試験シーズンの到来である。

        鷽替に楠の夜空は雪こぼす     朱 鳥

 入学試験というと、学問の神様として信仰を集めている天満宮を連想する。
 1月7日に福岡県の太宰府天満宮、1月24、25日に東京の亀戸天神でも、鷽替(うそかえ)の神事が行なわれる。
 木で作った鷽に昨年の罪穢を託して送り捨て、代わりに今年の幸運を招く鷽を取り替えあう。今は、社前で買った鷽を社務所で交換する。
 亀戸天神では、木曽檜で作られた大小11種の鷽の御守が三万五千体ほど準備され、多くの人出で賑わう。鷽替は、凶事がウソになり、吉事に取り替える、という意味がある。
 東京の湯島天神でも1月25日の初天神から、開運うそ(大700円、小500円)が授与される。例年、一週間ほどで無くなるので、お早めにどうぞ。
 これらの他、全国の天満宮では、正月の行事として、鷽替の神事が行なわれる。

 ところで、このウソというのは、どんな鳥なのであろうか。

        鷽の来て雪こぼしをり雪の晴     澄 雄

 ウソは、雀よりもやや大きく、文鳥に似た可愛い小鳥だ。くちばしが太く黒く短い。背中は青みがかった灰色、頭と尾は黒く、腹の方は背中と同じ灰色にうすくかすかな紅色がかって、ほのぼのとした美しさを持っている。

        照鷽や赤松しるき神の山     白 潮

 ただし、雌には、この紅色がないので、美しい雄の方を、特に照鷽(てりうそ)といって、晴を呼ぶといわれ、雌は雨鷽(あまうそ)といって、雨を呼ぶといわれている。
  西行法師の『山家集』にも、

        桃園の 花にまがへる 照鷽の
          群れ立つ折は 散る心地する

 と見えている。さすがは自然詩人の西行、美しい表現をしたものである。

        鷽鳴くや山頂きに真昼の日     遷 子

 さて、ウソの声は澄み透って美しく、口笛に似ている。このウソの声を真似て、口笛を吹くことから、口笛のことを、ウソブキと表現するようになった。
 また、この鳥が夢中で囀っている時には、枝にとまった二本の脚を、代わる代わる上げながら鳴くので、ちょうど、人間が琴を弾く手さばきに似ているところから、琴弾き鳥と呼ばれるようにもなり、その声と姿の美しさから「鷽姫(うそひめ)とも呼ばれている。


      竹喬の樹間の茜梅さぐる     季 己