心敬は、疎句を重んじています。しかし、それにかかわらず、心を無にして、いや、無にしているということさえ意識せずに詠んだのです。いや「詠む」というより、「つぶやき」といった方が正しいと思います……
あけ烏師は、「俳句は作るものじゃないんだなあ、唱(とな)うもの、つぶやきなんだよ」と、よくおっしゃっていました。この段も、あけ烏師に「俳句は心敬」と言わせる、重要な段ではないかと思います。
俳句においては、親句は「一物仕立て」の句、疎句は「取合わせ」の句と言えましょう。
しろがねの日の渡りゐる枯野かな あけ烏
三椏の枝をころがる霰かな 〃
春の海透けて水深二尺ほど 〃
菜の花の行方に鳥居見えにけり 〃
以上の四句は、一句の内容が誰にでもすぐにわかります。そして散文に近い形をしていますので親句です。これに対して、
一生は束の間野蒜摘みにけり あけ烏
炉塞ぎや雀にもある風切り羽 〃
きちきちの飛びぬ鉄道記念の日 〃
さうか三島忌か千枚漬の石 〃
この四句は、一句の内容がすぐにはわかりません。そして、二つのものを取り合わせていますが、二つのものの関係がすぐにはわかりません。もちろん、ベテランの方にはおわかりでしょうが。したがって、この四句は疎句です。
俳句の詠み方は、「一物仕立て」と「取合わせ」の二つしかありません。
「一物仕立て」は、散文に近いので、初心者にとっては詠みやすいのですが、ほとんどが報告や説明になりがちです。
また、そのものの本質、命をつかみ取らなければならないので、この点を考えると、非常に詠みにくく、類句・類想におちいりやすいことを心してください。
「取合わせ」の句は、何と何を取り合わせるか、その取り合わせ方は無数で、その二つのものの関係が疎であるほど、深い味わいのある句が詠めます。けれども、失敗すると、訳のわからぬとんでもない句になってしまいます。
いずれにしても、俳人である以上は、「一物仕立て」の句も「取合わせ」の句も、徹底的に学び、何の意識することなく、無心で詠めるよう、いや、「つぶやき」が出るよう、お互い精進したいものです。
かたつむり三尺ほどの高みより 季 己
あけ烏師は、「俳句は作るものじゃないんだなあ、唱(とな)うもの、つぶやきなんだよ」と、よくおっしゃっていました。この段も、あけ烏師に「俳句は心敬」と言わせる、重要な段ではないかと思います。
俳句においては、親句は「一物仕立て」の句、疎句は「取合わせ」の句と言えましょう。
しろがねの日の渡りゐる枯野かな あけ烏
三椏の枝をころがる霰かな 〃
春の海透けて水深二尺ほど 〃
菜の花の行方に鳥居見えにけり 〃
以上の四句は、一句の内容が誰にでもすぐにわかります。そして散文に近い形をしていますので親句です。これに対して、
一生は束の間野蒜摘みにけり あけ烏
炉塞ぎや雀にもある風切り羽 〃
きちきちの飛びぬ鉄道記念の日 〃
さうか三島忌か千枚漬の石 〃
この四句は、一句の内容がすぐにはわかりません。そして、二つのものを取り合わせていますが、二つのものの関係がすぐにはわかりません。もちろん、ベテランの方にはおわかりでしょうが。したがって、この四句は疎句です。
俳句の詠み方は、「一物仕立て」と「取合わせ」の二つしかありません。
「一物仕立て」は、散文に近いので、初心者にとっては詠みやすいのですが、ほとんどが報告や説明になりがちです。
また、そのものの本質、命をつかみ取らなければならないので、この点を考えると、非常に詠みにくく、類句・類想におちいりやすいことを心してください。
「取合わせ」の句は、何と何を取り合わせるか、その取り合わせ方は無数で、その二つのものの関係が疎であるほど、深い味わいのある句が詠めます。けれども、失敗すると、訳のわからぬとんでもない句になってしまいます。
いずれにしても、俳人である以上は、「一物仕立て」の句も「取合わせ」の句も、徹底的に学び、何の意識することなく、無心で詠めるよう、いや、「つぶやき」が出るよう、お互い精進したいものです。
かたつむり三尺ほどの高みより 季 己