思えば、創価の教えは、その時、その場バッタリの、軽い、無責任な教法である。「新時代」とか言って、場当たり的な、継ぎはぎだらけの、付け焼き刃的教えである。
そんなカラクリが判ってみれば、単純に間違っていた、と自分は反省できるが、問題は、いまだに否応なしに創価を今現在も信じ切っている人々がいる事を考えると、笑っても居られない。
「そんな簡単な事、なんで分からないんだー」と相手を責めるのも良くない。日如上人猊下様も折伏はケンカじゃない、と仰っている通り、相手は道理が分からぬ、乳離れしないキカン坊の子供と同じであり、自分の子供を宝物と考えれば、なんで分からないんだ、と怒鳴らず、子供の機嫌を取ってでも、子供に分かって欲しいと、人の親ならば思うはずだろう。
私も、数年前までは、その創価員と全く同じ立場にあったのである。今は少しは日蓮正宗のにの字を学び、大人ぶってても、以前はそんな危なっかしい調子の風情の子であったのだ。
だから、心を尽くし、真心で、慈悲、慈愛の溢れた言葉で、相手の機微に触れ合わなければならぬ。相手が間違っている所は「間違っています」とはっきり言い、教え、正しい仏法・正法へと教導して行かねばならぬ。
私ども、日蓮正宗信徒は仏の使いである。この、末法悪世の荒凡夫たちを一人も余さず如何に救い切るか、創価を救い切る、日蓮正宗法華講員の課題である。
今朝の福島県郡山市日蓮正宗無量山寿海寺にて、御住職様の御説法を通して、私なりに考えた事である。
以上。よしなに。wainai