シュトルムの『みずうみ』が、わが国で最初に翻訳されたのは、いつ、誰によってであるかについて、『日本中国学会報』第44集(1992年10月)に、清水賢一郎氏が「明治の『みずうみ』、民国の『茵夢湖』─日中両国におけるシュトルムの受容」という論文を書いておられるので、それによって、『みずうみ』のわが国における最初期の翻訳について紹介しておきたいと思う。
上記の清水氏の論文によると、わが国における最初の『みずうみ』の翻訳は、三浦白水による部分訳であったという。
1.明治38(1905)年
三浦白水訳『夢の湖』(明治38(1905)年8月1日発行の雑誌『神泉』創刊号所収)。ただし、全訳ではなく、「降誕祭」「帰郷」「思はぬ文」の3章のみの訳。
したがって、「幼なじみで相思相愛の男女二人が、母親の言いつけに従って他に嫁がされたために起こった悲恋物語だけであ」って、「初めて日本に紹介された『みずうみ』は、決して牧歌的叙情、感傷と甘さ、哀愁と諦念といったものではなく、極めて現実的で生々しい作品として像を結んでいたと想像される」(清水氏)。
次に、大正3年に、同じく三浦白水(吉兵衛)によって全訳が出された。
2.大正3(1914)年
三浦白水訳『湖畔』(大正3(1914)年6月)独逸叢書の1冊。独和対訳方式で、巻末に詳細な「註解」を付す。
次に出たのが、大正10年の牧山正彦の訳によるもの。
3.大正10(1921)年
牧山正彦訳『インメン湖』(新潮社、大正10(1921)年8月13日発行の、ゴッドフリイド・ケルレル作『村のロメオとユリア』の付録として)
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以上、シュトルムの『みずうみ』の、わが国における最初期の翻訳について、清水賢一郎氏の論文によってご紹介しました。
詳しくは、直接「明治の『みずうみ』、民国の『茵夢湖』─日中両国におけるシュトルムの受容」(『日本中国学会報』第44集(1992年10月1日発行)所収)にあたっていただきたい。
残念ながら、私はこの3冊のいずれをも実際には目にしていません。
三浦氏、牧山氏が、“Noch kein Licht !” をどう訳されているか、知りたいものです。
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三浦白水(吉兵衛)について
三浦白水(みうら・はくすい)は、本名が吉兵衛なので、三浦吉兵衛として経歴を紹介します。
三浦吉兵衛(みうら・きちべえ)1877-1939=初め、白水と号した。明治10年2月18日、宮城県桃生郡小野村に三浦功の長男として生まれる。小野尋常小学校に入学、3年時に古川尋常小学校に転校。そこで吉野作造と同級になり、以後二人は生涯の友となった。宮城県尋常中学校、第二高等学校を経て、同33年、東京帝国大学に入学(独逸文学科)。36年、東京帝国大学を卒業。山口高等学校教授となる。37年、第七高等学校造士館教授。40年、第五高等学校教授。45年から大正15年まで、第一高等学校教授。大正15年、第一高等学校を退職、以後同校講師として勤務した。昭和14年12月31日、東京小石川の自宅で逝去。享年62。
明治38年の『夢の湖』発表当時は、大学卒業後間もない鹿児島の第七高等学校造士館教授時代、大正3年の『湖畔』刊行当時は、第一高等学校教授の任にあった。
※ 清水氏の論文には「明治38年、東京帝国大学文科を卒業」「『夢の湖』の発表当時は、大学卒業後間もない熊本五高教授時代」とあるのですが、大学卒業は明治36年、『夢の湖』の発表当時は鹿児島の七高におられたときであったとするのが正しいと思われますので、そのように記載しました。
なお、小学校の入学状況や、東京帝国大学の卒業年、『夢の湖』発表当時の在職校、第一高等学校の勤務期間等については、吉野作造記念館、東京大学総合図書館、山口大学総合図書館の係の方に確認して頂き、たいへんお世話になりました。記して謝意を表します。(2009年12月9日)
※ 三浦白水(吉兵衛)の没年月日を、昭和14年12月21日とするものがありますが、上に引いた朝日新聞の記事によれば、没年月日は昭和14年12月31日が正しいということになります。(2009年11月27日)
参考までに、『朝日新聞縮刷版』によって、昭和15年1月1日の東京朝日新聞の死亡記事を引用しておきます。
三浦元一高教授 元一高教授三浦吉兵衛氏は予て肺炎で療養中旧臘卅一日午後六時死去した享年六十三、告別式は四日午後一時から二時まで小石川区駕籠町一四六の自宅で執行する、氏は宮城県人、東大独文科卒業後山口、七高、五高、一高各高等学校の教授となりドイツ文学及びドイツ語学会の大先輩だつた
三浦吉兵衛は、吉野作造とは小学校時代同級生だったそうで、『吉野作造記念館』というサイトの「吉野作造こぼれ話」の「第9話 古川小学校の親友たち」に、次のように紹介されています。(残念ながら現在は公開されていないそうです。2022年10月2日)
14歳まで古川に住んでいた吉野にとって、古川の思い出は小学校と深く結びついています。当時の古川尋常小学校(今の古川第一小学校)で吉野と仲が良かったのは、後にこの小学校の第14代校長となった清野金太郎でした。二人は雑誌の手作りに夢中でした。吉野が古川を出てからも二人は手紙のやり取りを続け、明治35年には吉野を介して、東京の牧師を古川小学校の教員たちの聖書研究会へ呼んでいます。
小学校時代から成績はいつもトップだった吉野ですが、作文についてはその上を行く同級生が二人いました。小学生向け雑誌への投書で見事1等賞を取った谷地森きわと三浦吉兵衛は、校長先生からみんなの前で賞品を受け取りました。投書魔の吉野がこの応募に参加しなかったはずはないのですが、自身の回想の中では参加したかどうかよく分からないなどと書いています。しかし教室のみんなから羨望の視線を浴びながら賞品を受け取る二人を見て、悔しい思いをしたようです。
その後大学まで共に歩んだ三浦を吉野はライバルとして意識し、三浦が珍しい本を読んでいると、負けずに本を集めました。 また、物知りの三浦に対抗しようと読書に精を出し、古川で初めて本屋ができると、毎日のように学校帰りに通いつめました。吉野が本好きになったのは、このころだと思われます。
晩年には古本集めを趣味とした吉野ですが、その陰には幼いころの友人たちとの切磋琢磨の思い出があったのです。
古川小学校は、現在の宮城県大崎市立古川第一小学校です。
吉野作造(よしのさくぞう)=1878-1933(明治11-昭和8)政治学者・思想家。宮城県の生まれ。東大卒。1906(明治39)袁世凱に招かれ北洋法政専門学堂で教え、’09東大助教授、欧米留学後同教授。大正の初め以来論壇にも登場、16(大正5)「中央公論」の「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」をはじめ、諸論説は大正デモクラシーに理論的基礎を提供、普通選挙論、枢密院・貴族院・軍部改革論を主張。’24 朝日新聞社に入社、政治評論などに活躍、筆禍で退社。のち明治文化研究会を創立、明治の政治・思想・文化を研究、「明治文化全集」を編纂刊行。この間東大新人会・社会民衆党結成に尽力。(『角川日本史辞典』第二版、昭和41年12月20日初版発行、昭和49年12月25日第二版初版発行による)
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夏目漱石と『みずうみ』
清水氏によれば、当時の新体詩にどちらかというと否定的だった夏目漱石は、『夢の湖』の中に出てくる詩を取り上げて、次のように言っているそうです(明治38年8月15日『新潮』)。
然しこんなのはよい、例へば『夢の湖』といふ小説中に挿まれた一節の詩だね。
美はしき我顔ばせも
今日のみぞたゞ今日のみぞ
物皆は変り果てなめ
明日こそは嗚呼明日こそは。
わがものと君を思ふも
束の間ぞ嗚呼いつまでぞ
君にわかれ身はたゞひとり
死に果てんあはれいづこに。
同じ雑誌の中でも、是などはよほどうまいと思ふ。要するに今少しく意味のある、蘊蓄のある、しつかりした人が作家にほしいのだ。
ということは、漱石も『夢の湖』を読んだということになるわけですが、ただ『夢の湖』は作品全体ではなく、3章のみの訳なので、果たして漱石がシュトルムの『みずうみ』の全訳を読んだかどうかはここでは分かりません。
因みに、この文章(談話)は、昭和42年4月28日発行の岩波版『漱石全集』第16巻 別冊 所収の「水まくら」(『新潮』明治38年8月15日に発表)の中に「新体詩」という文章(談話)があって、そこに出ています(全集、483~486頁)。(2009年10月27日)
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