老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

電話のかけ方

2010-07-18 17:44:00 | インポート
昨夜、8時過ぎに電話が鳴った。別の部屋で仕事をしていたので、家内が出るだろうと、そのままにしていた。
8回、……10回ぐらい鳴っても、まだ鳴り続けている。あれっ、家内はどうしたのだ、電話の近くにいるはずだが、と慌てて電話のある部屋に駆け込んだら、ちょうど家内が電話に出たところだった。しかし、出る直前に、電話は切れてしまった。
「出ると思って、出なかったんだ」と言ったら、お風呂に入っていたのだという。それなら、一声かけてくれればよかったのに、と言ったのだが、たいていはメールでやりとりするのが普通の昨今、夜、電話がかかってくることはめったにないので、つい声をかけないでしまったのであろう。誰から来た電話なのか、その夜はもうかかって来なかった。

となると、妙に気になるもので、いったい誰だったのだろう。今頃かけてくるのは、彼か? 彼女か? まあ、急ぎの用ならまたかけてくるだろうからと、こちらから心当たりの相手に電話することはしなかった。

不思議なことに、こういうことがよくあるのだ。電話に出たとたん、というか、出る直前に電話が切れるのである。
電話が鳴る。誰か近くにいる人が出るだろう、と思ってそのままにしていると、いつまでたっても誰も出ない。電話は鳴り続けている。……おや、誰もいないのか?と、慌てて電話に走り寄ると、とたんに電話が切れるのである。場合によっては、受話器を取ったとたんに切れる、ということも多い。──そして、たいていは、それっきりである。

昔、電話のかけ方で、こういうことを聞いた覚えがある。
電話は8回から10回ほど呼び出し音が鳴っても相手が出ないときは、一旦切って、もう一度かけ直してみなさい。2度目も出なかったら、相手は留守だ、というのである。

たしかに、そうしてくれれば、出たとたんに切れて、「あれ、誰からだったのだろう」と思っていた人にとっては、たいへん助かることになるのだが……。

電話のかけ方の教本には、その辺のことはどう出ているであろうか。




あめんぼのような蜘蛛のその後(3)

2010-07-17 13:41:52 | インポート
洗面所の天井にいた、あめんぼのような蜘蛛が、いつのまにか、いなくなってしまった。そのことを書いておかねばならない。

あのあと、3匹目の蜘蛛が洗面台の脇に現れた。洗面台と壁の隙間に巣をかけているのかどうかは分からなかったが、そんなところに巣を張られては困るので、手で払いのけたら、その蜘蛛はどこかへ姿を消してしまった。
蜘蛛は、相変わらず天井の隅と中間に1匹ずつ巣を張っていたが、暫くして、隅にいた蜘蛛がいなくなってしまった。餌がかからないので、諦めてよそへ移ってしまったのであろうか。すると、2,3日して中間にいた蜘蛛が、隅に移ってそこに落ち着いた。
つまり、最初に1匹の蜘蛛が現れたときと、全く同じ状態に戻ったのである。
いなくなった蜘蛛はどこへ行ったのか、近くの別の部屋の天井を見ても、姿は見当たらなかった。どこからか、家の外へでも出たのであろうか。

そして、それから1週間ぐらいたって、天井の隅にいた蜘蛛も、どこかへ行ってしまったのである。洗面所の天井の隅という、蜘蛛にとっては一見快適そうな場所ではあるのだが、やはり、あそこでは、餌になる虫は飛んで来ないのであろう。
我々人間は、蚊や虫がいなくてせいせいしているが、蜘蛛たちにしてみれば、こんな筈ではなかった、と自然環境の変化を嘆いていることであろう。蜘蛛の世界にも神がいるとすれば、蜘蛛の神は蜘蛛たちの将来をどう見図らっておられるのであろうか。

我が家には、たまに蚊が飛んでくるのではあるが、それくらいでは蜘蛛の食事には不足なのであろう。生き物たちには、暮らしにくい世の中になってしまったことだ。




七夕

2010-07-07 23:32:00 | インポート
今日は7月7日、五節句のひとつの七夕だった。
この日の夜、牽牛星と織女星とが天の川を渡って年に一度の再会をするという伝説があるが、折角の七夕も、梅雨の時節のことだから、空は曇っていて、夜も星空などは望むべくもない。我が家などは、夜は雨になった。

いったい、本来の七夕は旧暦での話だろうから、日本で言えば、梅雨が明けて星空が見えるころの行事だったのだろうと思う。──そうなのだ、旧暦7月というのは、季節で言えば秋の初めの月、初秋であり、七夕は星の美しい秋の行事であったのだ。今年の旧暦の七夕は、新暦の8月16日になるから、そのころはきっと、星空が綺麗に見えているのではあるまいか。

新暦が採用されたときに、こういう季節的な行事は旧暦によって行う、と決めればよかったのに、と思うのだが、そうするのは今からでも遅くはあるまい。その意味では、例年7月7日の月遅れである8月7日を中日として、8月6日から8日の3日間にわたって行われる仙台の七夕祭りは、旧暦の七夕よりはいくらか早いのではあるが、旧暦7月7日の七夕をそのまま新暦の7月7日に移して行事を行っている地方の無神経さに比べれば、より適した時期の選定の仕方である、と言えるだろう。

ところで、手元のある辞書には、七夕とは、7月7日の夜、織女星にあやかって女児の手芸の上達を祈った祭りだ、とあるが、これも細かくいうといろいろあるのだろう、と思う。中国での本来の七夕、日本に渡って来てしばらく経ったころの七夕、そして日本化して変化を遂げていった七夕と、時代によって七夕の祭りもいろいろなのだろうと思われる。

現在は、女児に限らず、また子どもに限らず、短冊に願い事を書いて笹の葉につるし、七夕の歌をうたって、という行事になっているようだが、それも、幼稚園や小学校、あるいは養老施設などで行われるか、商店会などが宣伝を兼ねて飾り付けを行ったりするくらいになっていて、一般家庭で行うところとしては、小さな子どものいる、ごく一部の家庭に限られるのであろう。

月に人間が降り立ったり、人工衛星が宇宙空間を飛び交っているような時代では、七夕の夢が薄らいでしまうのも、やむを得ないことと思われる。