老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

憲法は核兵器使用を禁止していない?

2016-03-28 11:29:27 | インポート

新聞報道によれば、平成28年3月18日の参議院予算委員会で、民主党の白真勲氏から、核兵器の使用が憲法に違反するかどうかを問われた内閣法制局長官横畠裕介氏は、「武器の使用はわが国を防衛するための必要最小限度のものに限られるが、憲法上あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているとは考えていない」と答えたそうである。
横畠裕介氏がどういう経歴の人かは知らないが、こういう人が政治の中枢にあって国を動かしていると考えると、国民もうかうかしてはいられない、という気がする。

だいたい憲法がどういう精神で作られているかを考えれば、核兵器の使用が憲法に違反するかどうかという問題は、あらためて言うまでもなく自明のことではないか。法律には禁止すべきことがすべて書いてあるわけではあるまい。法律に書いてなければなんでもできると、この長官は考えて今までやって来たのであろうか。

法律と国の安全の問題とを、どうとらえるか。国の安全を守るためには、法律は無視して当然である、という考えが成り立つのであろうか。
もし、ある人が、「国の安全が脅かされる場合は、法律を無視してでもそれに対処すべきだ。法律を守ろうとして国が滅んでしまったら、元も子もないではないか。国あっての法律である。だから、緊急の場合は、法律を無視して当然だ。つまり、国の安全は、すべての法律(そこには当然憲法も含まれる)に優先する」と言ったとしよう。その意見をどう考えるか。

もし、そういう事態が起こったとしたら、それは法律が不備であったということではないのか。どういう事態が起きてもそれに対応できる法律が整備されていなければならないと思う。つまり、緊急の事態においても、法律に基づいて行動できるようになっていなければならない。それが法治国家というものではないのか。
もし法律に反しての行動が是認されるとしたら、独裁者の出現を防ぐことはできないであろう。理窟はなんとでもつけられるからである。

内閣法制局長官横畠裕介氏の見解がそれほど問題にされていないようなのは、それが当然のことだと是認されているからなのか、それとも問題にもならないと呆れて無視されているからなのか、あるいは何を言っても仕方がないと諦めているからなのか、不思議な現象である。

それにしても、折角わが国が武力による紛争のない世界を希求して平和憲法を持ったのに、周辺諸国がその理想的な憲法のそのままの形での保持を許さないと考えられるような状況を作り出していることは、なんとも残念なことである。

 


国民歌謡「白百合」

2016-03-14 16:50:00 | インポート

子どものころ覚えていた歌に、「白百合」という国民歌謡がある。
その「白百合」という国民歌謡が放送されたのは昭和13年の11月21日というから、4歳のときのことだ。その年の3月に、私は父の勤めの関係で一家で台湾に来ていた。
覚えていたとは言っても、覚えていたのはそのメロディーで、歌詞は1番だけを次のように覚えていたに過ぎない。

  夏は逝けども 戦場に
  白百合の花 咲き匂ふ
  清き白衣(びゃくえ)の ………
  ………

調べてみると、作詞は西条八十、作曲は大中寅二である。作曲の大中寅二は、昭和11年の国民歌謡「椰子の実」の作曲が認められて、ぜひ「白百合」の作曲もと依頼されて作ったものだという。正しい1番の歌詞は、次のようであった。

  夏は逝けども 戦場に
  白百合の花 匂ふなり
  清き白衣の 赤十字
  姿優しく 匂ふなり

この「白百合」は、昭和13年に放送されたときは高島屋女子合唱団の演奏によるものだったようだが、翌年14年4月に、加古三枝子と東京音楽学校合唱団の歌でコロンビアからレコードが発売された。

雑喉潤氏が、別冊ステラ『ラジオ深夜便』5号(1997年夏号。NHKサービスセンター、平成9年6月1日発行)に、「なつかしの「国民歌謡」」という文章を書いておられ、その中で「白百合」について、「「白百合」は従軍看護婦のけなげさ、やさしさを歌って、メロディーもやさしく美しい」と記しておられる。

雑喉氏は、また、「この曲をテーマにラジオドラマが出来て、小学校3年生だったわたくしは、ドラマのバックに流れる「白百合」のメロディーに耳を傾けて感激した」と書いておられるのだが、この「白百合」のラジオドラマについては、全く記憶にない。
あるいは、この「白百合」のメロディーが私の記憶に残っているのは、ラジオドラマによってこの「白百合」のメロディーを繰り返し聞いたせいかとも思うが、今となっては確かめようがない。

国民歌謡「白百合」の美しく、どこかもの悲しいメロディーは、子どものころからずっと頭に残っている。


〔参考〕
※ 国民歌謡「白百合」の歌詞は4番まであり、次のサイトでそれを見ることができます。
 → 『陸・海軍礼式歌』

※ 日本放送協会、昭和13年10月31日発行の「ラヂオテキスト『國民歌謠第三十六輯』「新鐵道唱歌(直江津ー金沢)」「白百合」の表紙の画像は、「東書WEBショップ」の『ラジオ放送の音楽~國民歌謡からラジオ歌謡へ~』というサイトの「第3回 日中戦争と國民歌謡」というページで見ることができます。
 → 『ラジオ放送の音楽~國民歌謡からラジオ歌謡へ~』「第3回 日中戦争と國民歌謡」

※ 国立国会図書館に、国民歌謡「白百合」の戦前のレコード音源があり、「国立国会図書館および歴史的音源配信提供参加館の管内で」利用することができるそうです。
 → 国民歌謡「白百合」の戦前のレコード音源

※ YouTubeでも加古三枝子の「白百合」を聞くことができますが、音源がどこから来ているのか不明なのが残念です。もしかして、昭和14年に出されたレコードのものでしょうか。
 → 「白百合」加古三枝子

  


下級審の裁判官の判断

2016-03-06 14:13:19 | インポート
認知症の老人が徘徊して駅構内に入り列車にはねられた事故をめぐってJR東海が家族に損害賠償を求めた裁判で、平成28年3月1日、最高裁が1、2審の賠償命令を破棄しJR東海の請求を棄却した。
最高裁の判断によれば、1、2審の二人の裁判官は適切な判断を下していなかったことになる。なぜ、二人の裁判官は最高裁が否定した、家族に対する損害賠償を命じる判断をしたのであろうか。
このことについて、法律の素人の立場から意見を述べてみたいと思う。

結論から言えば、下級審の裁判官は法律の条文に捉われたがために、「法律が人のため、人を守るために作られたものである」という事実を失念していたのであろうと思われる。
法律の条文を文字通りに解釈して適法に判断を下そうとすると、1、2審の裁判官が下した判断になるのであろうと思われる。つまり、二人とも適法の判決を下したのであり、なんら誤りを犯したことにはならないのであろう。

しかし、である。そこに抜け落ちた大切なものがあるのではないか。それが今言った、法律は人のため、人を守るために作られたものであるという事実である。
そのことを忘れずに判決を下したならば、最高裁の判決のように、家族に賠償を求めるという判決にはならなかったはずだと思うのである。

老人の介護に当たっていた、これも老齢で要介護度1の妻は、老人が勝手に外出すれば気づくように出入口にセンサー付きのチャイムを設置するなど配慮をしており、老人の徘徊になんらの対策も講じていなかったというわけではない。しかもその老人の徘徊は、十数年前に2、3度あったという程度のものだそうである。その妻が、たまたまうたた寝をしている間に夫の老人が外出して事故を起こしたからといって、その責任を問えるだろうか。

こうした事情を考慮すれば、この老人の場合、介護に当たっていた家族にその責任を問うのは酷だと言えるのではないか。

下級審の裁判官の判断について云々するには、本当はその判決文を読んで判断しなければならないのだが、ここでは、それを読まずに新聞報道をもとに意見を述べたことをお断りしておきたい。