九州で地震の被害が深刻である。今までの地震とは様相を異にした、本震のあとは余震が次第に収まっていくという形の地震ではない、なかなか終息しようとしない地震である。
自然は悪意を持って活動を行っているのかと言えば、当然そういうことはない。自然は自然のままに、ただ動きたいように動いているだけのことである。人間が陸地の上に生活の場を得ている、その陸地が、もともと動いて、ある場合には火山を噴出させたり、地割れを起こしたり、崖崩れを起こしたりする、そういう性質を持っている、というだけのことである。だから、人間以外の動物は、そういう自然のもたらす災害を、素直に(?)受け入れているのである。
しかし、人間はそういうわけにはいかない。どうすれば自然の災害を防げるかを考えないわけにはいかない。なぜなら、それが人間だからである。
ある意味では、自然でさえもある力によって動かされている、と言うべきかもしれない。その力はなにか、といえば、それは単なる自然の法則である、と考えられるのだが、そこに人知を超えたあるものの存在を考えるとなると、我々には理解不能の世界に入り込んでしまうことになる。
自然を動かしているものが単なる自然の法則だと考えるのでなく、そこにあるものの意志が働いている、と考えるとすれば、それはもはや人知を超えた存在ということになって、その存在を人間は認知できないと思われる。
つまり、宗教の世界へ入り込むことになるであろう。
大地は動いている。その上で生活している人間、特に地震帯の上に生きている我々は、大地の活動に対してどう対処すべきか、難題を突き付けられている。
それにしても、今は九州の地震活動が一日も早く収まって平静に戻ってくれることを、心から願うばかりである。
自然は悪意を持って活動を行っているのかと言えば、当然そういうことはない。自然は自然のままに、ただ動きたいように動いているだけのことである。人間が陸地の上に生活の場を得ている、その陸地が、もともと動いて、ある場合には火山を噴出させたり、地割れを起こしたり、崖崩れを起こしたりする、そういう性質を持っている、というだけのことである。だから、人間以外の動物は、そういう自然のもたらす災害を、素直に(?)受け入れているのである。
しかし、人間はそういうわけにはいかない。どうすれば自然の災害を防げるかを考えないわけにはいかない。なぜなら、それが人間だからである。
ある意味では、自然でさえもある力によって動かされている、と言うべきかもしれない。その力はなにか、といえば、それは単なる自然の法則である、と考えられるのだが、そこに人知を超えたあるものの存在を考えるとなると、我々には理解不能の世界に入り込んでしまうことになる。
自然を動かしているものが単なる自然の法則だと考えるのでなく、そこにあるものの意志が働いている、と考えるとすれば、それはもはや人知を超えた存在ということになって、その存在を人間は認知できないと思われる。
つまり、宗教の世界へ入り込むことになるであろう。
大地は動いている。その上で生活している人間、特に地震帯の上に生きている我々は、大地の活動に対してどう対処すべきか、難題を突き付けられている。
それにしても、今は九州の地震活動が一日も早く収まって平静に戻ってくれることを、心から願うばかりである。