老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

『あたらしい憲法のはなし』(文部省)を知っていますか?

2015-06-01 21:38:00 | インポート

日本国憲法は、戦後、昭和21年11月3日に、それまでの大日本帝国憲法に代わって公布され、昭和22年5月3日に施行された。5月3日が憲法記念日であるのは、それに由来する。

新憲法が施行された年の昭和22年の8月に、当時の文部省が教科書『あたらしい憲法のはなし』を発行している。それを学んだ人は、どのくらいいるのだろうか。

『あたらしい憲法のはなし』には、新しい憲法がどんな憲法であるのかを、その年から始まった新制中学の1年生を対象に分かりやすく解説してある。

第二章 第九条の「戦争の放棄」については、次のように書いてある。

まず、憲法の条文を見てみよう。

「第二章 戰爭の放棄 
第九條  日本國民は、正義と秩序を基調とする國際平和を誠實に希求し、國權の發動たる戰爭と、武力による威嚇又は武力の行使は、國際紛爭を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戰力は、これを保持しない。國の交戰權は、これを認めない。」  

これについての『あたらしい憲法のはなし』の解説。

「そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」
  
つまり、新憲法では、第九条で二つのことを決めた、と言っている。
その一つは、「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということ」。
二つ目は、「よその國と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということ」。この二つである。

これを読めば、わが国がかつての戦争の反省から、今後、国際間の紛争を平和的に解決して、決して武力によって自分の言い分を通そうとはしない、そのために、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と決めた、ということが分かる。

決して武力によって国際紛争を解決しない、そのために戦力を保持しない、という文脈からは、戦力を保持すれば、武力によって解決を図ろうとするおそれがあるから、戦力を保持しないのだ、と言っていることが読み取れるであろう。

憲法の前文にある「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」た日本国民は、決して二度と戦争を起こさないために戦力を放棄する、というのである。

しかし、現実のわが国には、戦力があるではないか。これはいったいどういうことなのか。しかも、自衛のためならば戦うことは当然の権利だ、ということになっている。

もしかしたら、私たちは憲法を改正せずに、憲法の禁じたことを行って来たのではないだろうか?
自衛のためなら戦力を保持するのは当然で、憲法もそこまでは禁じていない、と憲法を「解釈」し、軍隊ではない、自衛隊だ、と言い換えて戦力を保持して来たのは、果たして正しいことだったのだろうか? 

「みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」と、『あたらしい憲法のはなし』は言うけれども、まことに不幸なことに、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持」せずに、「われらの安全と生存を保持しようと決意した」わが国にとって、周辺の情勢は自衛のための戦力を持たざるを得ない状況になって来ている、と私も思う。

もし、周辺の状況から見て自衛のための戦力の保持はどうしても必要だ、と言うのなら、憲法はそのままで、「解釈によって」自衛のための戦力は持てるのだ、とするのではなく、憲法を改正するのが当然ではないのか。

今まで「集団的自衛権」は、権利はあっても使うことはできない、と言って来た政府が、これこれの場合は「集団的自衛権」も行使できるのだ、と言い出した。しかも、憲法はそのままでである。

もう一度、憲法制定当時の精神に立ち戻って、憲法を読み直すべきではないだろうか。戦力を保持すれば国際紛争を解決するときに武力を使うことになるかもしれない、そうしないために戦力はもたない(「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたない」)、という憲法の精神からすれば、自衛のために戦力の保持が必要だというのなら、現行の憲法のままで自衛のための戦力を持つのでなく、正々堂々と憲法を改正して再軍備すべきであろう。

国民は、現行憲法で戦力を持たない道を選ぶか(現実には戦力が既に存在するが)、憲法を改正して自衛のために再軍備する道を選ぶか、そのどちらかの選択をすべきなのであって、それを避けて「解釈」でなんでもできるという、姑息な、誤った手段をとるべきではないであろう。
ただし、将来のわが国の平和と安全をどういう形で守っていくかを考えないで、単純にその選択をすることはできない。

わが国は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと」したのであったが、そのことが容易には実現できない状況に今わが国は置かれている、と考えられるからである。
「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて」、憲法前文の掲げる「崇高な理想と目的を達成することを誓」ったのではあるが、周辺及び世界の情勢はそれを許さない状況になって来ているとも言えるからである。

私たち国民は、現在大きな岐路に立たされているというべきである。将来、平成の今を振り返ったとき、私たちがどういう選択をしたかは、わが国の進路を大きく左右する結果をもたらしていることが考えられるからである。


※  『あたらしい憲法のはなし』は、青空文庫で読む(見る)ことができます。
  → 青空文庫 → 『あたらしい憲法のはなし』