老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

携帯メールの怪

2010-08-23 12:06:27 | インポート
昨日、友人と、携帯のメールで、この暑さはどうしたことか、クーラーは入れているのか、などとやりとりしていて、ふと未開封のメールがあることに気づいて開いてみると、「RE:RE:RE:RE:RE:昨日の童話に」という題のもとに、「……すぐれた詞ですね」といった内容のことが短く書かれていた。

実は、その日の前日、メール相手のその友人に会って、宮沢賢治の童話「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」のプリントをあげていたので、それについてのコメントを送ってくれたのだろうと、こちらは、「奇妙と言えば奇妙な童話(?)ですね」と返信した。
すると、折り返しその友人から、「昨日の童話? 思い出せません」という返事があった。あれれ? 今送ってくれたメールに返信したのになんだろう、と思って、受信箱を調べてみると、どうしたことか、受信したはずの「昨日の童話に」のメールが見当たらないのである。

不思議に思って、もう一度友人に返信したメールを開いてみると、確かに「RE:RE:RE:RE:RE:RE:昨日の童話に」という題で返信しているのである。ということは、「RE:RE:RE:RE:RE:昨日の童話に」というメールを受信したことは確かなのである。しかし、なぜか、受信したはずのメールが姿を消してしまっているのである。
念のためもう一度友人に確認してみると、そういう題でメールを送った覚えもないし、こちらに送信した履歴も残っていない、というのである。
確かに、この暑さはただごとじゃないな、と当日の気温のことを話題にしてメールのやりとりをしているときに、突然、賢治の童話についてメールを送る、というのも、考えてみれば妙な話である。

受信したメールがどういう文面だったかは、メール自体が消えてしまっているので、はっきりしないが、作品の内容を評価する言葉が書いてあって、最後に「詞」という漢字が使ってあったことだけは、はっきり覚えている。この「詞」はちょっと変わった使い方だなあ、と思ったので、記憶に残っているのである。

これはいったい、どういうことであろうか。もしかしたら、昨日、自分の作品「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」のことを取り上げていた二人の男を見かけて、賢治が懐かしさのあまり、ついあの世からメールを送ってくれたのででもあろうか。



今日は旧暦の七夕

2010-08-16 07:45:00 | インポート
今日8月16日(月)は、旧暦の7月7日、つまり旧暦の七夕にあたります。
7月は旧暦では秋の初めの月なので、俳句では「七夕」は秋の季語となっているようです。秋の澄んだ空が、星祭りにふさわしいのでしょう。
  はし近く坐る女や星の空  高浜虚子

さて、今日は彦星と織女星とが一年に一度だけ出会うという日ですが、果たして今夜は星が見られるでしょうか。空が晴れてほしいものです。

      * * * * * * * *

昨夜は、上空のあちらこちらに薄雲がかかり、西北の空には稲光がして、星はところどころにちらほら見えるだけといった、七夕としては寂しい空模様でした。
このところ連日猛暑の日が続いて、昨日も日中は35度を超すこの夏最高の暑さでしたから、星たちも七夕どころではなかったかも知れません。爽やかな風が涼しく吹き過ぎる夜空に星がキラキラ冴えわたる、といった秋の七夕の風情は、残念ながら望むべくもありませんでした。 (8月17日、旧7月8日記す)



65回目の終戦記念日

2010-08-15 11:44:32 | インポート
今日8月15日は、戦後65回目の終戦記念日にあたる。

昭和20年当時、私は国民学校の5年生で、台湾新竹州の田舎、坪林というところにいた。普段はそこからバスで30分ほどの新埔国民学校に通っていたのだが、恐らく4月ごろからだと思うが、近くに疎開して来ていた新竹市の国民学校の仲間に入れてもらって、山の中の林の中などで、授業を受けたことがあった。しかし、8月15日は夏休み中であったろうから、学校に行ってはいなかった。

父が地元民のための国民学校の校長をしていたので、私たち一家は学校の裏山の中腹を切り崩して造った一軒家の校長官舎に住んでいた。
学校は、その年の1月に沖縄から移住してきた陸軍の野戦病院に接収されていて、木造平屋建ての校舎の一部には、傷ついた兵隊さんや病気の兵隊さんたちが収容されていた。
あとで分かったことだが、その部隊は昭和19年7月に満州から沖縄に移動し、半年ほど沖縄にいて、翌年の終戦の年の1月に、台湾に移って来た部隊であった。4月には米軍の沖縄上陸があったから、場合によっては沖縄戦に巻き込まれていた可能性があったと思われる。

我が家の客間は部隊長の宿舎に当てられていて、時々、当番兵が部隊長の世話に我が家を訪れることがあった。
終戦の日、埼玉県出身の加藤上等兵が来て、残念だ、と悔し涙を流していた姿が忘れられない。
沖縄が米軍の手に落ちた時、「案外、早かったな」とつぶやいていた部隊長の、終戦の日の記憶は、まるでない。
戦況から見て、兵隊さんたちは誰もがこの戦さに勝ち味はないとは思っていたであろうが、実際にいざ負けたとなると、その思いは複雑なものがあったであろう。

あれから、もう65年が経った。戦後の混乱の時期を経て、現在の日本があるが、こういう形の復興が望ましかったのかどうか、今一度じっくり振り返ってみる必要があるかもしれない。