老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

「過訪」という訪問の仕方

2016-11-29 16:59:24 | インポート
江戸時代の無名の漢詩人・野内浮石という人の詩を見ていたら、詩の題に「小口森君見過訪」(小口の森君、過訪せらる)とあるのが目にとまった。
「過訪」とは何のことだろうと辞書を引いてみたら、どういうわけか手元の漢和辞典には出ていないで、『広辞苑』に、「通りすがりに人の家を訪問すること」と出ていた。

「通りかかったものだから、ちょっと寄ってみたよ」といって友人宅を訪れる訪問の仕方は、なかなかいいものだと思うのだが、電話や携帯、スマホなどの通信手段が普及した今となっては、そうした突然の訪問は常識はずれとされかねないであろう。

科学が発達して生活が便利になるのはいいことだが、こうした趣のある訪問の仕方が失われてしまうのは寂しい気がする。



放送における試合結果の伝達方法について

2016-11-23 08:32:00 | インポート
スポーツ試合の結果を伝えるのに、NHKのラジオでは、以前は、必ず数字の多いほうを先にして、6対3、5対2などと放送していた。
例えば、野球の試合結果を伝えるのに、日本はどうだったかを伝える場合、
「日本対アメリカは、日本が6対3で勝ちました」
「日本対アメリカは、日本が4対2で敗れました」
という具合にである。
問題は、「日本が4対2で敗れました」という言い方である。

ある特定のチームを意識せずに、単に対戦したチームのどちらが勝ったかを言う場合、例えば韓国対アメリカの試合結果を伝える場合は、
「第一試合の韓国対アメリカは、5対2でアメリカが勝ちました」
「第一試合の韓国対アメリカは、韓国が2対1で勝ちました」
というように、勝ったチームが主語になるので、得点の多いほうが先になってもおかしくはない。

しかし、特定のあるチームを主語として言う場合は、その特定のチーム〇〇が勝った場合は「〇〇が6対3で勝ちました」でいいのだが、その特定のチームが負けた場合に、「〇〇が6対3で敗れました」と言うのは好ましくないのではないか、そういう場合は、新聞などが書いているように、「〇〇が3対6で敗れました」と、主語になるチームの得点を先にして放送すべきではないか、と思っていた。

まさか、日本のチームが対戦した試合結果を放送するのに、たとえば「日本が3対2で」という言い方をして、「さて、日本は勝ったのでしょうか、それとも負けたのでしょうか」と、試合に日本が勝ったのか、あるいは負けたのか、どちらだろうと、聴取者をワクワクさせるつもりで、わざとそういう言い方をしていたわけではあるまい。

もし、「日本が3対2で」というところで放送が途切れた場合、聴取者は日本が勝ったのか負けたのか、結果が分からないままになってしまうことになる。
これを、主語になるチームの得点を先に言う言い方に決めてあれば、「日本が3対2で」と言えば日本が勝ったことが分かるし、「日本が2対3で」と言えば、残念ながら日本が負けたことが分かるのである。

情報を、できるだけ早く、かつ正確に伝えることを目指すべき放送としては、得点を言う場合、主語のチームの得点を先に言う言い方をすべきである、ということを書き送った。
こうした声が数多く寄せられたのであろう、いつの間にか、NHKラジオの試合結果の放送は、主語となるチームの得点を先に言う言い方に変わって来た。

だから今は、放送で「日本が7対3で」と聞いた段階で、「ああ、日本が勝った!」と分かるのである。




カッシーノという街

2016-11-21 15:46:00 | インポート

もう随分前のことになるが、イタリアのカッシーノという街に数日間泊まったことがある。
この街は、ベネディクト修道会を始めたベネディクトゥス(480年頃~547頃)がヨーロッパにおける最初の修道院として建てたモンテ・カッシーノ修道院があることで知られている。
また、第二次世界大戦当時、ドイツ軍が守備していたカッシーノの街が連合軍の攻撃によって完全に破壊された「モンテ・カッシーノの戦い」でも知られている。

モンテとはイタリア語で山のことで、モンテ・カッシーノとは、カッシーノ山ということである。モンテ・カッシーノ修道院は市街地近郊の山の上に建てられている修道院なので、戦後復旧された修道院の建物が街からすぐ近くによく見える。
地元の学校を訪れたとき、廊下には戦争で破壊された街の写真と現在の復興した街の写真とが並べて掲示されていて、戦争の惨禍や平和の大切さを生徒に教えていたのが印象的だった。

『広辞苑』には、このカッシーノが、暫くの間「カッシノ」と表記されていた。例えば、第五版までのものには、「モンテ‐カッシノ」という項目があり、「ベネディクトゥス」の項にも、彼が「モンテ‐カッシノ修道院を創立」したとある。
これは多分Cassinoの英語読みを採用したのだろうと思われるが、作曲家Rossiniがロッシニでなくロッシーニと読まれているように、Cassinoはカッシーノと読むべきだし、現地でもカッシノではなくカッシーノと言っていた、と辞書の編集部に書き送った。なかなか「カッシーノ」とはならなかったが、第六版になってやっとカッシーノと表記されたので安堵した。

次に、『広辞苑』(第六版)から関連項目を引用させていただきます。

モンテ‐カッシーノ【Monte Cassino】イタリア中部、ローマとナポリとの中間
       にある標高500㍍の山。ベネディクトゥスが創建した修道院の
       所在地。
ベネディクトゥス【Benedictus】ベネディクト修道会の創立者。イタリア中部、
       ヌルシア生れ。モンテ‐カッシーノ修道院を創立。その戒律は長
       くヨーロッパの定住型修道生活の原点となった。ヌルシアのベ
       ネディクトゥス。(480頃-547頃)
ベネディクト修道会【─修道会】(Ordo Sancti Benedicti)ベネディクトゥスの
       修道規則を守る修道会。清貧・貞潔・従順を誓い、専ら祈りと労
       働に従事、中世において学問と文化の保存・普及に貢献。

    * * * * *

参考:フリー百科事典『ウィキペディア』の項目から
        → モンテ・カッシーノ
        → モンテ・カッシーノの戦い
        → ヌルシアのベネディクトゥス



「聖路加」の読み方

2016-11-20 21:24:00 | インポート
日野原重明先生が名誉院長を務めておられることで知られる聖路加国際病院は、正しくは「セイルカ」国際病院だが、これを「セイロカ」国際病院と言う人がいる。
少し前のことだが、NHKのニュースでもある時「セイロカ」と読んでいたので、一般には「セイロカ」と言われていても、放送では正しく「セイルカ」と読むべきではないか、と言い送ったことがある。今は、「セイルカ」に統一しているのではないかと思う。

「セイロカ」という言い方は、世間ではごく普通のことと見えて、戦後間もなく、昭和22年6月に封切られた東宝映画『音楽五人男』の主題歌、サトウハチロー作詞・古関裕而作曲の「夢淡き東京」の歌詞に、「柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日 …… かすむは春の青空か あの屋根はかがやく聖路加か はるかに朝の虹も出た ……」とあって、ここに出てくる「聖路加」を藤山一郎が「かがやくセイロカか」と歌っている。

もともと「路加」は、新約聖書の「ルカによる福音書」(「ルカ伝」)の訳語として「路加」と表記したものであろうが、訳した人はなぜ「ルカ」の「ル」に漢音の「ル」の漢字を用いず、紛らわしく漢音「ロ」、呉音「ル」の「路」の漢字を当てたのであろうか。

「聖路加」の読みは、そう目くじらを立てずどちらに読んでもよさそうなものだが、やはり本来の意味を考えれば、「セイルカ」と読むべきであろうと思う。



番組の途中の交通情報

2016-11-12 16:46:47 | インポート
今朝は久しぶりにNHK第一放送の「ラジオ文芸館」を聞いた。
竹西寛子の「五十鈴川の鴨」を、中條誠子アナウンサーが朗読していた。

番組の終わり近く、女客が主人公の男にしみじみと話をしている途中に、突然、交通情報が割り込んだ。そのため、折角の話がだいなしになってしまった。
交通情報が終わって元の放送が再開されても、一部が途切れたままだから、聞いているほうは頭の中で欠けた部分を補いながら話の続きを聞くということになり、しんみりした話がごたごたしてしまった。

交通情報が必要な人がいることは認める。だから、情報を入れるなと言うのではない。前から言っているように、その交通情報が必要でない人が元の放送を続けて聞けるように工夫すべきだ、と言うのである。
つまり、元の放送をカットして新たな情報を流すのでなく、元の放送を低く流して、その上に新たな情報を入れればいいのである。現在の技術なら、それぐらいのことはできるはずである。我々凡人には一度に七つの声を聞き分けることはできなくても、二つの声ぐらいなら聞き分けられるはずである。新たな情報が必要な人はそれを受け取り、その情報が不要な人は、元の番組を聞き続ければいいのである。

──ということを前々から主張しているのだが、一向に改善が見られず、いつも放送を中断して交通情報などを流しているので、甚だ迷惑している。
断っておくが、緊急の情報、例えば大きな地震の情報などの場合は、元の放送を中断しても已むをえない。これは言うまでもないことである。
本来同時には一つの情報しか流せないというラジオの欠点を、なんとか補う工夫ができないものであろうか。