老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

衣手(ころもで)の ひたしの国

2013-06-06 12:25:00 | インポート
水戸市立第一中学校の校歌は、金田一京助氏の作詞、高木東六氏の作曲によるものである。
その1番の歌詞は、次のようになっている。

那珂の水 とこしへに澄み/筑波山(つくばやま) 黛色(たいしょく)深し/衣手(ころもで)の ひたしの国は/日の縦(たて)の うましふるさと

ここで注目されるのは、普通「ひたちの国(常陸国)」と言っている名前が、「ひたしの国」となっている点である。寡聞にして「ひたしの国」という言い方は聞いたことがないが、金田一京助氏がそう書かれたのには、当然それなりの理由があるものと思われる。

「衣手(ころもで)の」といえば、『常陸風土記』の「衣袖漬国」が思い浮かぶ。風土記のこの部分を少し引いてみると、常陸国を常陸と名づけた理由として、まず、船を用いずに陸路だけで行き来できる所なので、「直通(ひたみち)」という意味合いから「ひたち」と名づけた、という説を挙げたその次に、

倭武命(やまとたけるのみこと)が東国征討に行かれて新治郡を通ったときに、国造(くにのみやつこ)を遣わして新たに井戸を掘らせたが、すばらしく清い、いい水が出たので、輿(こし)を停(とど)めて水を愛(め)で手を洗われた。そのとき、倭武命の着物の袖が泉の水に垂れて、袖が濡れてしまった。そこで、袖を漬(ひた)すという意味合いで、それを常陸の国の名前とした。

という説が挙げてある。日本古典文学大系の『風土記』(秋本吉郎・校注)から原文を引用すると、

或曰  倭武天皇 巡狩東夷之国 幸過新治之県 所遣国造毘;那良珠命 新令堀井 流泉浄澄 尤有好愛 時停乗輿 翫水洗手 御衣之袖 垂泉而沾 便依漬袖之義 以為此国之名 風俗諺云 筑波岳黒雲挂 衣袖漬国是矣 
(引用者注:「新令堀井」の「堀」は原文のママです。古典文学大系本の脚注に、「正しくは掘であるが、堀は掘に通用」とあります。)

〔訓読文〕
或るひといへらく、倭武(やまとたける)の天皇(すめらみこと)、東(あづま)の夷(えみし)の国を巡狩(めぐりみそな)はして、新治(にひばり)の県(あがた)を幸過(すぎいでま)ししに、国造(くにのみやつこ)毘;那良珠命(ひならすのみこと)を遣はして、新(あらた)に井を堀(ほ)らしむるに、流泉(いづみ)浄(きよ)く澄み、尤(いと)好愛(めづら)しかりき。時に、乗輿(みこし)を停(とど)めて、水を翫(め)で、み手を洗ひたまひしに、御衣(みけし)の袖、泉に垂(た)りて沾(ひ)ぢぬ。便(すなは)ち、袖を漬(ひた)す義(こころ)によりて、此の国の名と為(な)せり。風俗(くにぶり)の諺(ことわざ)に、筑波岳(つくはね)に黒雲挂(かか)り、衣袖(ころもで)漬(ひたち)の国といふは是(これ)なり。

この「衣袖漬国」を普通は、大系本がそうであるように、「ころもで ひたちのくに」と読んでいるが、古典大系の頭注に「漬にヒタツ・ヒタチの訓例はないが、国名のヒタチにあてたものとすべきか」とあるように、「漬」を「ひたち」と読むことに、疑問がないわけではないのかもしれない。
もしかしたら、金田一京助氏は、この部分は、「依漬袖之義(袖を漬(ひた)す義(こころ)によりて)」からの自然の流れで、「ころもでの ひたしのくに」と素直に読むべきだ、とお考えになられたのかもしれない。そして、それがここに掲げた校歌の歌詞「衣手(ころもで)の ひたしの国」になったのだろうか。
なにか、「ひたしの国」について書かれた金田一京助氏の文章があるのかもしれないが、よく分からない。

以上、「ころもでの ひたしの国」という、ちょっと変わった読みについて、触れてみた。

  → 水戸市立第一中学校校歌

(補記)
『金田一京助全集 第6巻』の「北奥地名考」に、「我が上代にはタ行がサ行に通じてひたち(常陸)の国を言い掛けてヒタシの国とも言ったりした」とあるそうです。そうしてみると、「ひたしの国」について、直接触れて書かれた文章があるのかもしれません。(2013年6月6日記)

(補記の2)
『金田一京助全集 第6巻 アイヌ語 II 』(三省堂、1993年6月1日第1刷発行)を見てきました。
「北奥地名考 ―奥羽の地名から観た本州エゾ語の研究―」の第1節 緒言に、

「国語のサ行音は、古代に於てはタ行に通い、寧ろ古代のシは〔t〕だったようにさえ思われる」。「だから疾風(はやち)のチと嵐(あらし)のシと、同じ「風」という語が両様になっていたり、常陸の国を、衣手のひたしの国と引掛けて洒落れたり、タ行の発音だった韻鏡の精・照・穿等の字母に属する諸字はみな我が国にサ行になっている等のことがあるのである」

とあります(同書、162頁)。また、この少し後に、

「我が上代にはタ行がサ行に通じてひたち(常陸)の国を言い掛けてヒタシの国とも言ったりした」

とあります(同書、164頁)。

つまり金田一博士は、常陸国は本来「ヒタチのくに」であるが、上代にはタ行がサ行に通じて用いられたので、場合によっては「ヒタチの国」を「ヒタシの国」と洒落れて言うこともあった、とお考えなのであろうと思われます。
ということは、博士は常陸国風土記に出ている「衣袖漬国」を「ころもでのヒタシのくに」と読んでおられる、ということであり、校歌の歌詞に「衣手(ころもで)のひたしの国」とお書きになったのは、〈常陸国風土記に「衣袖(ころもで)の漬(ひた)しの国」と出ている、あの常陸(ひたち)の国〉という意味でのことであろう、と思われます。

なお、『金田一京助全集 第2巻 国語学 I 』(三省堂、1992年7月1日第1刷発行)所収の「国語音韻論」第3章「音韻変化」第4節「音韻交替」「(甲)位置の近似から起る音韻交替 (ハ)舌内音と舌内音との交替」の「『〔t〕〔s〕の交替』(音韻相通、其七)」にも、

破裂音と摩擦音との差であるが、等しく舌内の音で一味相通うところがある。即ち、国語に於ては、〔t〕〔s〕が相通ずる。国語に於て〔t〕が〔s〕と相通ずるということは、サ行とタ行とが相通ずるということである。然るにタ行の子音は、〔t〕〔t〕〔ts〕であり、サ行の子音は、〔s〕〔〕である。この五つが相通じるということになるから、二三が六通の相通関係を認めることになる。
  〔s〕〔t〕  の相通
  〔s〕〔ts〕 の相通
  〔s〕〔t〕 の相通
  〔〕〔t〕  の相通
  〔〕〔ts〕 の相通  
  〔〕〔t〕 の相通
さて、サ行とタ行の通いは後世よりも古い所に溯る程多い。
  ひた(常陸)―衣手のひたの国
  八雲たつ出雲八重垣―八雲出雲の子等 

                           
とあります(同書、432頁)。

 (2013年11月15日付記。12月3日、一部書き足した上で、手直ししました。)



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2 コメント

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Unknown (さつき)
2013-09-21 00:46:06
はじめまして。
「パラオ・ペリリュー島」検索→「小さな資料室」→こちらのブログ、という流れで拝読しました。
記事の内容はもちろん、読み仮名も丁寧につけてくださったり、何かと嬉しいブログを見つけた気分です。
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Unknown (M.Asakaze)
2015-05-07 13:55:03
さつき 様

「小さな資料室」やブログをお読みいただき、その上コメントまで頂き、誠にありがとうございます。

コメントを頂いていたことに気づかずにいて、今日になって初めて気がついた次第で、我ながらその迂闊さに呆れています。どうも申し訳ありませんでした。
ブログの仕組みに疎いものですから、何かと皆様に失礼を重ねています。

これに懲りずに、これからもどうぞよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

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