老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

NHKの受信料額の変更について

2014-04-24 16:11:00 | インポート
平成26年4月から消費税率が8%に引き上げられたことに伴い、NHKの受信料額が変更された。
それはいいのだが、NHKが前払いをしていた料金の差額を徴収するということをテレビやラジオで盛んに言っているのは、おかしいのではないかと思う。だいたい、前払いをしているものは、料金が新しくなっても変更しないというのが常識というものだろう。
僅かな料金を取り立てることで、そうでなくても最近あまりいい感じを持たれていないNHKが、視聴者(聴取者)に不満を持たれ、反感を買うことになるのは、どう見ても得策とは思えない。
それはNHKにも理屈はあるだろう、消費税法でそう決まったのだからしかたがない、と。しかし、視聴者(聴取者)にしてみれば、それは屁理屈にしか思えないのだ。なぜ、そう決まる前に、NHKはきちんと主張しなかったのか。社会的な常識として、前払いの受信料は追加徴収をしないことにしましょう、と強く主張すれば、それが通らないということはあるまい。誰が考えてもおかしなことをやっていて、「皆様の受信料で番組が作られています」と言っても、それはそっちの勝手だろう、と思われてしまうのが関の山だろう。

──と、大人げなく(年寄りらしくもなく?)、いささか頭に血の上ったもの言いをしてしまったが、やはりひとこと言っておかなければ気が済まぬので、ここに書き記した次第である。



STAP細胞の騒動について

2014-04-13 14:58:00 | インポート
イギリスの科学誌『nature』に掲載されたSTAP細胞の論文についての今回の騒動は不可解なことが多く、よく分からないことが多いが、自分なりに理解した範囲で、感想を述べてみたい。

まず、論文の執筆者の姿勢についてであるが、経験豊富な研究者が執筆者に名前を連ねていながら、なぜ普通は考えられないようなミスの目立つ形で論文が発表されてしまったのであろうか。これは、ひとりユニットリーダーの小保方氏だけでなく、論文執筆者全員が真剣に反省しなければならないことであろう。
『nature』編集部から、過去何百年の生物細胞学の歴史を愚弄していると酷評され、当初は掲載を拒否されたほどの、普通では考えられない事実についての論文であればなおのこと、間違いがないかを慎重に検討し確認したうえでなければ、発表すべきではなかったであろう。
それが、このような形で発表され、発表されたあとで疑義が生じて騒ぎになってから、自分はそのことについては確認していないというコメントを述べて、論文は杜撰なものだから撤回すべきだ、などと言い出す執筆者がいるとは、無責任極まりない話である。

次に、理化学研究所の姿勢であるが、これまた不可解極まるものである。
身内の研究員の論文であるにも拘わらず、自分達は全く責任がないかのように論文執筆者を非難し、「捏造だ」「改竄だ」などと罵倒してやまない。いったい、理研の最高責任者である理事長は、自らの管理責任を放棄し若い研究員を未熟だと一方的に断罪する理研の姿勢をどう考えているのであろうか。
小保方氏が、掲載すべき画像を取り違えたとして、新たな画像を『nature』にも送り調査委員会にも提出したと言っているのだから、本人が「『捏造』には当たらない」と主張するのも当然である。STAP細胞の画像が存在しないのに、あたかも存在するかのように主張しているのなら、「捏造」と言ってもよい。しかし、本人はSTAP細胞の画像はあると言っているのであり、それを新たに示しているというのであるから、「捏造」という言葉を安易に使うべきではあるまい。STAP細胞が実在しないことが明確になって、つまり、STAP細胞が再現できないということが明確になってはじめて、その主張は誤りだ、と判定されるのであり、その場合も「捏造」という言葉が適切であるかどうかは疑問が残るであろう。

また、画像の切り貼りの問題にしても、重要な証拠である画像に手を加えて切り貼りするという行為は通常では考えられないことだが、もし改竄の意図があってそれを行うのであれば、切り貼りの跡が残らないように巧妙に処理するであろう。画像の写真から、これは切り貼りしてあるのではないかということが見て取れるというのであれば、写真を見やすくするために行ったということが考えられ(それは、勿論してはならないことではあるが)、そのことからも「改竄」の意図がなかったことが推察できるのではないだろうか。

たとえが適切ではないかもしれないが、一人の小学生が常識ではとても本当だとは考えられない、ある科学的な発見をしたとしよう。彼又は彼女がそのことを論文に書いて、こういう事実が存在する、と主張した場合、その論文に不備があるからといって、彼又は彼女が事実を「捏造」したことにはならないであろう。なぜなら、彼又は彼女は事実を偽っているわけではないのだから。そうであるのに、論文に不備が多いし、いろいろ疑わしいと思われる操作が見受けられるからといって、論文自体を否定してしまう、つまり、事実そのものを否定してしまうことは、正しいやり方とは言えないであろう。
事実を確認してみたが確認できなかった、そして本人も確認できなかった事実を認めた、という場合に、初めて、彼又は彼女が勘違いをしていたのか、又は意図的に他を欺こうとしていたのかによって、「誤り」か「捏造」かが決まるのであり、論文そのものだけを見て、「捏造」と認定することは誤りであると言うべきである。
もし、その小学生の発見した事実が極めて貴重なものであった場合、論文だけでその事実を否定することは、正しくないばかりでなく、貴重な人類の宝をみすみす失う結果になることは、改めて言うまでもないであろう。

それでは、理研としてこの事態にどう対処すればよいのか。
できるだけ早く論文執筆者の主張を十分よく聴取したうえで再現実験を行い、STAP細胞の存在の有無、つまり、論文執筆者の主張する事実が存在するか否かを、確認すべきである。
その結果によって、結論は正しかったが論文に甚だしい不備があったのか、あるいは執筆者たちの勘違いによる誤りであったのか、最悪の場合、虚偽の論文であったのかを判定することになるであろう。

今回の騒動は、はからずも理研の管理能力のなさを暴露することになり、科学者(研究者)がこうした事態に適切に対応することの難しさを考えさせられた。すぐれた科学者だからといって必ずしもすぐれた管理者ではあり得ないという事実を示す結果に至ったことを、甚だ残念に思うものである。