老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

「……てほしい」の「ほ」は仮名書きに <朝日新聞への要望>

2008-07-10 20:12:00 | インポート
「……てほしい」の「ほ」は仮名書きに

 朝日新聞では、「……てほしい」の表記は「……てほしい」「……て欲しい」のどちらでもよい、という方針をとっておられるようで、実際に紙面にはその両方の表記が見受けられます。

 『朝日新聞用語の手引』(1997年発行、1999年第2刷発行)には、「連体詞、感動詞、助動詞、助詞、補助動詞、形式名詞などは、原則として平仮名で書く」として、「(5)補助動詞・補助形容詞 【例】…である(…でない) …していく  …している …しておく …してみる …になってくる」と例があげてありますが、その次に<注>として、「「手に取って見る」「友達が遊びに来る」「……して欲しい」「……かも知れない」など、本来の意味に使う場合は、漢字書きでよい」としてあります。

 しかし、私は次の理由で、「……てほしい」の「ほ」は仮名書きに統一してほしいと思います。

 まず、「……てほしい」の「ほしい」は、形容詞の本来の用法とは異なり、補助形容詞としての用法であること。次に、「ほ」を漢字で書いても字画の節約には全くならないこと(画数は、4画から11画に増えてしまいます。漢字にすることによって、字数を減らせるのならまだしも、字数は同じで、画数だけが増えてしまうのです!)。そして3番目に、小中高生が新聞で学習する機会が増えてきたこのごろ、新聞によって小中高生にこの区別をはっきり教えることは、教育上からもたいへん望ましいと考えられること。

 具体例で見てみると、「お菓子がほしい」と「その本を見せてほしい」の二つの「ほしい」は、前者が形容詞本来の用法であるのに対して、後者は補助形容詞としての用法です。「お菓子がほしい」を「お菓子が欲しい」と漢字で書いてもいいでしょうが、「見せてほしい」の「ほしい」は、補助形容詞なので仮名書きにすることが望ましい、ということです。

 この両者を区別することは、小さなことのようでいて、実はことばに対する意識を育む大切なことだと思うのです。『朝日新聞用語の手引』が、折角、補助動詞・補助形容詞は仮名書きにする、としながら、「……してほしい」の「ほしい」(補助形容詞)は本来の意味だから漢字をあててよいとしたのは、ことばのはたらき・語の性格を無視したものというべきでしょう。

 『手引』に<「手に取って見る」(中略)など、本来の意味に使う場合は、漢字書きでよい>としてあるのは、「手に取って見る」の場合は「漢字書きでよい」のではなく、「漢字書きにする」とすべきでしょう。なぜなら、「手に取ってみる」と、「手に取って見る」とは、明らかに意味するところが違うのですから。

 その、「手に取ってみる」と「手に取って見る」の関係とちょうど同じ関係が、「その本を見せてほしい」と「その本を見せて欲しい」の間にあることは、明らかだと思います。だとすると、「その本を見せて欲しい」という書き方は、「その本を見せて(何かが)欲しい」というニュアンスをもった言い方だ、ということになるでしょう。ですから、「その本を見せて欲しい」という書き方は好ましくない、──つまり、「……てほしい」の「ほ」は仮名書きにすべきだ、と思うのです。

 中学校や高等学校で、国語の先生が補助動詞や補助形容詞について教えて、「私たちの書く文章では、補助動詞や補助形容詞は仮名書きにし
ます」と指導しても、「先生、朝日新聞には『……て欲しい』と書いてありますよ」と生徒たちが言った場合、先生はどう答えればよいのでしょうか。逆に言えば、学校でいくら「……てほしい」の「ほ」は仮名で書きなさいと指導しても、新聞がそれを妨げている、ということになりませんか。

 朝日新聞の社説ではこれがどうなっているかと注意して見ているのですが、さすがに新聞の顔ともいうべき社説には、「……て欲しい」は使っていないようです
 日本を代表する新聞である朝日新聞の紙面において、「……てほしい」の「ほ」は仮名書きに統一してほしい、と強く要望します。

(これを書いた日付を入れておくべきでした。残念ながら今でもこの要望が必要な状態が続いているようです。2019年7月30日)

付記:(1)このことについては、既に朝日新聞社に連絡済みです。
   (2)上の文中に「さすがに新聞の顔ともいうべき社説には、「……て欲しい」は使っていないようです」と書きましたが、意外にも2020年5月21日(木)の社説に、「一人ひとりの努力の過程や成長を、多面的・総合的に判断する選抜方法を考えて欲しい」と、「
……て欲しい」が出ていました。(社説「部活の試練 喪失感を乗り越えて」の文中)
 社説の冒頭に「学校で部活動に取り組んできた多くの高校生や中学生は、心沈む思いだろう」と書いてあります。多くの高校生・中学生がこの社説を読んで、「
……て欲しい」と書いてもいいのだ、と思うでしょう。それは甚だ困ったことです。この社説を書いた記者は、おそらく補助形容詞のことを知らなかったのでしょう。それなら、校閲部がきちんと「……てほしい」と直してほしかったと思います。新聞の社会的責任を考えて、この表記の基準を早く改めてほしいと思います。(2020年6月6日記)
   (3)残念ながら、2020年8月21日(金)の社説にも、また「~て欲しい」が出ていました。「朝日新聞の顔」ともいうべき社説に「て欲しい」が出ることは私には驚きなのですが。(2020年8月23日記)



信無ければ立たず(『論語』)

2008-07-09 08:59:00 | インポート
 『論語』を読んでみましょう。(いずれも「顔淵第12」から。)


○子貢問政。子曰。足食。足兵。民信之矣。子貢曰。必不得已而去。
  於斯三者何先。曰。去兵。必不得已而去。於斯ニ者何先。曰。去
  食。自古皆有死。民無信不立。


   子貢、政(まつりごと)を問ふ。子曰く、食を足らはし、兵を足らはし、
   民に之を信ぜしむ。子貢曰く、必ず已(や)むを得ずして去らば、  
   斯(こ)の三者に於て何(いづ)れを先にせん。曰く、兵を去らん。  
   子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯(こ)の二者に於て何(い
   づ)れを先にせん。曰く、食を去らん。古(いにしへ)より皆死有り。
   民、信無ければ立たず。

     注: 子貢……孔子の門人。
       民信之……「民に之を信ぜしむ」(人民に信用されることだ。
           宮崎市定著『論語の新研究』)と読んだが、「民、之を
           信にす」(人民はこれを導き教えて信義あらしめる。
           諸橋轍次著『掌中 論語の講義』)、「民、之を信ず」
            (人民が信頼の心をもつこと。吉川幸次郎著『論語・
           下』新訂中国古典選)という訓み方もある。
             
            


○季康子問政於孔子。孔子對曰。政者正也。子帥以正。孰敢不正。  

  季康子、政(まつりごと)を孔子に問ふ。孔子對(こた)へて曰く、
  政(せい)は正なり。子、帥(ひき)ゐるに正を以てすれば、孰(た
  れ)か敢て正しからざらん。

    注: 季康子……魯の国の政治家。


☆ 二つとも、政治にとって何が一番大切であるかを説いています。
  人の上に立って政治を担当する人たちには、しっかりとこのことを
  肝に銘じてもらわなければなりません。
  そしてそのことを確認した上で、ここで孔子が言おうとしていること
  は、単に政治の世界においてばかりでなく、われわれが世に生き
  ていく上での最も基本的な倫理である、ということを認識する必要
  があるでしょう。

  日本人が、いつから人を欺いてまで自己の利益をむさぼるように
  なったのか。それは教育の問題というより、人の上に立つ者の在
  り方、子どもに生き方を示す大人の在りかたに問題があるという
  べきではないでしょうか。

  孔子がこのことを取り上げてコメントしたということは、孔子の時代
  にも、このように注意する必要があったということです。人間は昔
  から、少なくとも人間的には、一向に進歩していないということな
  のでしょう。進歩したのは、果たして本当の意味で進歩といえる
  かどうかわからない自然科学の分野だけ、ということでしょうか。

  釈迦や孔子、キリストといった、聖人といわれる人たちがはるか
  昔の世に出て、その後一向に現れないことも、そして戦争が一
  向になくならないばかりか、一層残酷な殺戮兵器を開発して平
  然としている人たちが絶えないということなどを思いやってみて
  も、果たして人間が昔に比べて進歩しているのかどうか疑問を
  抱かざるを得ません。

  ということで、結局はタイトルどおり、年寄りの愚痴になってしま
  いましたが、漱石がいうように、だからといって人でなしの国に
  引っ越すわけにもいかないとすれば、少しずつでも住みよい世
  の中にするために、一人ひとりが努力していくしかないでしょう。
  
  >民、信無ければ立たず。

  >政(せい)は正なり。子、帥(ひき)ゐるに正を以てすれば、
    孰(たれ)か敢て正しからざらん。



  ※ 『論語』の本文・訓読文は、宮崎市定著『論語の新研究』(岩波
   書店、1974年発行)によりました。ただし、仮名づかいを変え、
   一部訓み方を変えたところがあります。
   「信無ければ立たず」が伝統的な訓みかと思いますが、文法的に
   言えば、「信無くば立たず」(信無くんば立たず)という訓みのほう   
   が正確であると思われます。「信無ければ立たず」は「無けれ」が
   已然形なので、「無けれ+ば」が確定条件になっていますが、ここ
   は「無く(未然形)+ば」の仮定条件がふさわしいと思われるからで
   す。