老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

最高裁はなにをしているのか

2014-03-31 13:55:00 | インポート
袴田事件で死刑が確定した元被告の、裁判のやりなおしを求めた第2次再審請求で、静岡地裁の村山浩昭裁判長は、再審開始を決定するとともに、死刑の執行と拘置の執行停止も決定し、袴田元被告は48年ぶりに拘置所から釈放された。
村山裁判長は、判決で、「袴田元被告は、捜査機関により捏造された疑いのある証拠で有罪とされ、極めて長期間死刑の恐怖の下で身柄を拘束されてきた。無罪の蓋然性が相当程度あることが明らかになった現在、これ以上拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する」とまで言っている。

被告は、一審・二審での判決が承服できない場合、最高裁に上告することができることになっている。昔、ある映画で、無実の罪を訴える被告が二審でも有罪とされ、「まだ、最高裁がある!」と叫ぶ場面があった。たとえ一審・二審での裁判で仮に誤った判決が下された場合でも、最高裁なら真実を明らかにしてくれるという信頼が一般に持たれている。
しかし、袴田事件を見てみると、最高裁は二度もこの事件を審理する機会を持ちながら真実を見抜くことができず、無実の被告を50年近くも牢獄に閉じ込める判決を支持した可能性があることになる。

「まだ、最高裁がある!」という叫びは、空しいものでしかないのであろうか。被告にとっての最後の砦であるはずの最高裁はなにをしているのか、という思いを禁じ得ない。



集団自衛権の行使について

2014-03-30 17:08:00 | インポート
安倍首相が、憲法を改正せず、憲法の解釈を変えるだけで、集団的自衛権の行使が可能だと言っている。一時は、国会で議論することなく、閣議決定だけでそれをやってしまおうと考えていたようだ。
日本国憲法は、そんなに自由な解釈を許すものなのだろうか。

昭和23年2月7日・文部省発行の『あたらしい憲法のはなし』には、こう書いてある。

「こんどの憲法では、日本の国が、けっして二度と戦争をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。「放棄」とは、「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
もう一つは、よその国と争いごとがおこったとき、けっして戦争によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。……」

 → 国立国会図書館デジタルコレクション → 『あたらしい憲法のはなし』

前年に公布され、昭和22年5月3日から施行された現・『日本国憲法』 が、日本はこれから「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたない」、「陸軍も海軍も空軍もない」、とも読めるし、自分の国を守ってくれる同盟国の軍隊が敵から攻撃された場合は相手の国と戦うこともできる、とも読めるとしたら、憲法とは一体何なのか、ということにならないだろうか。

ここで断わっておくが、自衛権や集団的自衛権の行使を認めない、と言っているのではない。自分の国を守るために、もしわが国を攻撃しようとする国があるとしたら(そのような国はない、と思いたいが)、それを撃退することができるのは当然のことだし、日本を守ろうとしている同盟国の軍隊が敵から攻撃された場合に、日本がそれを援護し、ある範囲で敵を撃退することも、当然のことだと思う。

ただ、同じ憲法の条文が、「兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戦争をするためのものは、いっさいもたない」という解釈もできるし、同盟国の軍隊が敵から攻撃された場合に日本がそれを援護し敵を撃退することもできる、つまり、敵と戦うこともできる、という解釈もできる、というのでは、おかしいではないか、というのである。

だから、集団的自衛権の行使を可能にするためには、きちんと憲法を改正したうえで、正々堂々とそれを行うべきだ、というのである。


それにしても、世界中の国々が、戦争のための軍備にお金をかけるのでなく、そのお金を民政に生かしたら、人々の暮らしはどんなによくなるだろうか、と思うのだが、いつまでたってもそういう世の中にならないのは、まことに残念というしかない。