老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の

2015-09-25 23:12:43 | インポート
長塚節の「鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の遠くきこえて秋たけにけり」という歌を刻した歌碑は、常総市杉山にある。節生前の歌友で書家の岡麓の揮毫によって、万葉仮名で書かれている。

鬼怒川越夜不計天
和當數水棹能遠久
幾己衣亭秋堂介耳
氣利     節
         麓書 

この歌は、明治41年秋、節が29歳のときに詠んだ「秋雑詠」8首の中の1首である。

   秋雑詠
葉鶏頭(かまつか)の八尺(やさか)のあけの燃ゆる時庭の夕はいや大なり
ひさ方の天を一樹に仰ぎ見る銀杏(ちち)の実ぬらし秋雨ぞふる
秋雨のいたくしふれば水の上に玉うきみだり見つつともしも
こほろぎの籠(こも)れる穴は雨ふらば落葉の戸もてとざせるらしき
鬼怒川は空をうつせば二ざまに秋の空見つつ渡りけるかも
鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の遠くきこえて秋たけにけり
稲刈りて淋しく晴るる秋の野に黄菊はあまた眼をひらきたり
鵯のひびく樹の間ゆ横ざまに見れども青き秋の空よろし
 (『長塚節全集』第3巻、春陽堂・昭和4年11月26日発行による。)

ところで、この「鬼怒川を」の歌の「水棹」をどう読むかについては、意見が二つに分かれている。
一つは「みなさお」と読み、他は「みずさお」と読む。

あいにく、「みなさお」も「みずさお」も、なかなか辞書に出て来ない。
手元の国語辞典では、わずかに小学館の『日本国語大辞典』にだけ、「みずさお」が出ていた。

みずさお〔水棹〕 (名)水底を突いて舟を進ませるための棹。みさお。

『広辞苑』には、「みずさお」「みなさお」は出ていないが、「みさお」が出ている。

みさお〔水棹〕 (古くはミザヲとも) 水中に差して船を進め、また、苫(とま)を掛けるのにも用いる棹。みなれざお。拾遺「みつ瀬川渡る─もなかりけり」

とある。

講談社版の日本現代文学全集26『伊藤左千夫・長塚節』には、上記のルビの中で「籠(こも)れる」のルビがない代わりに、「大(おほい)なり」「一樹(ひとき)」「鬼怒川(きぬがは)」「二(ふた)ざまに」「水棹(みなさを)」「鵯(ひえどり)」とルビがついている。
ここでは、「水棹」に「みなさを」とルビがついているのが注目される。このルビは、編者(伊藤整・亀井勝一郎・中村光夫・平野謙・山本健吉)によるものと思われる。(「鵯(ひえどり)」は「鵯(ひよどり)」の異称、と辞書にあるが、なぜ一般的な「ひよどり」にしなかったのか、何か理由があるのであろうか。)

節自身は「水棹」をどう読んでいたのであろうか。
作者としては、この言葉の読みはごく当り前だと思って特にルビをつけなかったのであろうが、やはり後の時代の我々としては、はっきり読み方を示しておいてほしかった、と思うのである。



常総市の洪水災害について思うこと

2015-09-24 21:16:00 | インポート
鬼怒川を夜ふけてわたす水棹の遠くきこえて秋たけにけり

よく知られた長塚節の歌である。
その鬼怒川が、このたびの豪雨によって堤防が決壊し、洪水によって多くの被害が出た。2週間たった9月24日現在、避難者がまだ900人ほどいるという。流されてしまった家や床上まで水につかった家、水をかぶった稻など、どうしようもない状況に途方に暮れている人も多いことだろう。

常総市には、「常総市洪水ハザードマップ」というのができていて、一端堤防が決壊したらどういう状況になるかは、前以て分かっていたはずである。
しかし、まさか堤防が決壊するとは誰もが思っていなかったであろうから、いざ堤防が切れたとなると、みんなが慌てふためいて、あたふたしたのは致し方がない。洪水ハザードマップができていたのだから、それなりの対策をしておくべきだった、と後からなら誰でも言えるが、実際にはそれは難しいことである。
福島の原子力発電所の事故にしても、なぜそれなりの対策をしておかなかったのかと、後からは言えるが、前以てみんなが対策をすべきだと考えるまでに強く警告していた人は、いなかったのではないか。残念ながら、人間はいつも後悔しながら生きる生き物なのである。

だから、一部の地域にしか避難警報を出さなかったとか、鬼怒川の西岸に避難するように伝えたのはおかしいとか、いろいろ市の対応に問題があったことは確かであろうが、いざとなると、物事はそう簡単にはうまく運ばないものなのである。小さな自治体にとって、今回の災害はあまりにも大き過ぎるものであったから、対応に不備があったとしても、ある程度は止むを得ないとすべきである。

もちろん、だからそれでいいというわけではない。今後は今回の反省の上に立って、それなりの対策を考えておくようにすべきであるのは当然である。
しかし、こうした自然災害に対しては、一地方の自治体だけが対策を考えるのでなく、県が総合的、広域的に対策を検討し、各地域を指導すべきなのである。今回の鬼怒川堤防の決壊にしても、その危険があるかどうかの判断とその対策については、県が検討しておくべき課題でもあったのである。

ところで、一時、行方不明者が25人いる、ということが伝えられ、これは大変な災害だと思ったが、ある時、突然一気に、全員の安全が確認できた、という報道がなされた。普通は、そんなことが起こり得るとは思えない。
実はこの「行方不明者」とは、調べても所在や安否が確認できなかった人のことではなく、単にまだ安全が確認できていない人のことであったのだ。つまり、行方不明者が25人出た、という場合の「行方不明者」とは、調査をしても所在や安否が確認できない人のことではなく、所在の調査が行われず、安否が確認できていない人、安否未確認者のことであったのだ。なぜ、これを行方不明者と言ったのであろうか。
だから、調べてみたら、所在や安否が確認できた、ということで、「行方不明者」が一気にゼロになってしまったのである。

その際、安否未確認者の氏名の公表について、市ではそれが個人情報だからと氏名を公表しなかった。そのために、安否の確認が遅れたという。
これについては、こうした生命の安否の確認をする際は氏名の個人情報は公表できることになっている、と報じられた。これらも、当然前以て確認しておくべき事柄であったと言えるだろう。

ともあれ、人間は事に対して前以て完全に備えをしておくことは難しいものである。だから、反省をしながら、少しずつ前進していくしかない、というのが私の考えである。



安保関連法案審議の混乱について

2015-09-23 09:21:00 | インポート
今回、安保関連法が成立したことについては、「日本は「戦争ができる国」になったのだ。米国の戦争に巻き込まれる可能性は高い」として法案に反対の立場を表明した人がいる一方で、「平時から有事に至るまで切れ目のない安全保障の体制を整備し、日本を守る抑止力を高める」として評価する人もいる。

この法案については、これが憲法に違反しているか否か、という問題と、法案の中味に問題があるのではないか、という問題が、二つごっちゃになって、法案審議を混乱させていたように思う。

まず、法案自体が憲法に違反する内容のものであれば、当然法案を撤回すべきである。ところが、多くの憲法学者がこの法案は憲法違反だと言う中で、政府は法案は憲法に違反しないという立場をとって、採決を強行した。
つまり、まずはこの法案は憲法に違反するものなのか違反しないものなのか、という問題があった。

次に、この法案は必要か必要ないか、という問題がある。必要だという人は、この法案によってこそ、国の安全と国民の生命が守れるのだ、と言い、必要ないと言う人は、この法案は日本が戦争に巻き込まれる危険があり、戦争によって人の命を奪い、また奪われるおそれがある、つまり、今迄の不戦の誓いを放棄するものだ、と主張する。

したがって、これらの意見をまとめてみると、この法案に対する立場は次の四つになる。

1.法案は憲法に違反しており、かつ法案自体不必要なものである。即刻、廃案にすべきである。
2.法案は憲法に違反しているが、法案自体は必要なものである。したがって、憲法を改正して、法案を成立させるべきである。
3.法案は憲法に違反しておらず、法案は必要なものである。したがって即刻、成立をはかるべきである。
4.法案は憲法に違反していないが、法案自体その必要性がない。

これによれば、この法案がわが国にとって必要だ、と認めている人の中には、
(1)憲法に違反していないのだから、直ぐにも成立をはかるべきだ。
という人と、
(2)憲法に違反しているので、憲法を改正して、きちんと筋を通して成立をはかるべきだ。
という考えの、二種類の人たちがいたことになる。
そして、一方には、この法案によって日本の平和憲法が破壊されてしまう、日本が戦争をする国になってしまう、という危惧をいだいて、強く法案に反対する人たちがいたのである。

国民の多くが、集団的自衛権を行使できるようにするこの法案は憲法に違反していると考え、この法案によって日本が戦争に巻き込まれるおそれが大きい、と考えて法案に反対していたにもかかわらず、平成27年9月19日未明、この法案は成立してしまった(とされている)。

自民党と連立を組んでいる公明党も、「平時から有事に至るまで切れ目のない安全保障の体制を整備し、日本を守る抑止力を高める」として、この法成立を評価したというが、この法案の必要性を認めるのはいいとして、なぜ筋を通して、正々堂々と憲法を改正してこの法案を成立させなかったのか。

自民党と公明党が、多くの憲法学者が違憲だとするこの法案をかたくなに憲法の範囲内だと主張して法案の成立を急いだのは、不可解である。

「しっかりした安全保障体制がなければ、国家・国民を守れず、憲法も守れない」と言った人もいるが、その意見には、安全保障のためなら憲法を無視してもよい、という考えがあるのではないか。

多数を取れば憲法を無視することだって何だってできる、となったら、国の秩序は成り立たなくなるであろう。
憲法がわが国の置かれている現状に合わなくなっている、というのなら、憲法を改正して事を進めるのが筋である。憲法を改正するのが困難だから、憲法を自分たちの都合のよいように解釈することによって、憲法の禁じていることを推し進めようとすることは、許されることではない。

今回成立したとされるこの法が憲法に違反するかしないかは、その具体的事例について最高裁判所が判断することになるのであろうが、その意味で、最高裁判所の任務は非常に重い、と言わなければならない。







鉄道情報や気象情報などの情報を本来の放送を中断して流すことについて(NHKへの要望)

2015-09-15 11:39:00 | インポート
ラジオ放送は、原則として音声はある一つのものを流すのであって、そこに別の内容のものをかぶせることはできない。その点で、テレビが画面の一部に別情報を流せるのと違って、はなはだ不便である。ある番組を放送しているときに別の情報を流そうとすれば、今放送している内容を一時中断して、別の情報を流すしかないのである。
しかし、果たしてそうであろうか。そこに工夫する余地はないであろうか。

日曜の朝、「著者に聞きたい本のツボ」という番組で、佐野洋子さんの『わたしの息子はサルだった』を取り上げて、著者の息子さんが話をしていた。そのとき、ある話題の途中で、山の手線の電車が止まっていたが復旧したとかいう鉄道情報が入って、もとの放送が途切れてしまった。鉄道情報が終わったときには、もとの話題も終わっていて、その話題がどうなったのかは分からずじまいであった。

山の手線の電車が復旧したという情報は、たしかに多くの人たちにとって必要な情報ではあろうが、その放送を聞いているすべての人にとって必要な情報というわけではない。本来の放送が中断して、その話題がどうなってしまったかが分からなくなっていらいらさせられた人も、少なくないと思われる。この前などは、番組の終わりのころにある情報が入って、その情報が終わったらもとの本来の放送も終わっていて、結局話がどうなってしまったのかが分からないままになってしまったことがあった。

科学技術がこれほど進歩した現代に、ラジオ放送が開始された時代と同じように、一つの番組には一つの情報しか流せないということを続けていてよいものであろうか。
というのは、本来の放送の中で別の情報を入れたい場合に、本来の放送を中断して別の情報を入れるのではなく、もとの放送を低く流して、その上に別の情報をかぶせて放送することができるのではないか、と思うのだ。

一つの放送に七つの情報を同時に流されては、聖徳太子ではない我々は混乱してそれらの情報を聞き分けることはできなくなるが、たった二つの情報であれば、新たに流された情報が必要な人はそちらを主として聞き取るであろうし、その情報が必要でないと判断した人は、本来の放送を聴き続けることができるであろう。
その場合、新たに流そうとする情報が緊急かつ重大なものである場合は、本来の放送を中断して流すのも、もちろん止むを得ない。それは言うまでもないことである。

本来の放送の音声と、その上にかぶせる情報の音声を、それぞれどの程度の大きさにすれば二つの内容を同時に聞き分けることができるかは、実験してみれば容易に分かるであろうと思う。

NHKには、そのことを工夫して、それが一部の人たちにとって必要な情報である場合は、本放送を低く流してその上に新たな情報をかぶせるという方法を、ぜひ実現してもらいたいものである。



安全保障関連法案と憲法と国防の在り方

2015-09-14 20:18:00 | インポート
現在、政府が成立を急いでいる安全保障関連法案は、多くの憲法学者が、憲法違反だと言っている。
しかし、政府は今までの憲法解釈を変更しても、なお憲法に違反しない、と言い張っている。国の安全と国民の命を守るためなら、憲法を無視しても構わない、と言わんばかりの態度である。これは、おかしいではないか。
国の安全と国民の命を守るために必要な処置をとる必要があることは、言うまでもないことである。しかし、それが憲法の認める範囲を超えるというのなら、憲法を改正してその処置をとるべきであって、いかに必要な法律といえども、憲法を無視して制定することは許されない。

わが国は、どのようにして自分の国を守るべきであるのか、甚だ難しい立場に立たされている。
我々日本国民は、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のであったが、それが甚だ困難な状況になってきているからである。
自分の国を自分で守るのは当然であるが、核を否定して核を持たないとするわが国が、自分の力だけで国を守ることは、現実的に不可能である。
では、核を持つ特定の国にわが国の防衛を依存することでいいのか。わが国は自分の国をどういう形で守るのが最もいいのか、そのことを皆で真剣に考えたことがあったであろうか。
それは大変難しい問題であるが、しかし、そのことをいつまでもいい加減にしておくことは許されない。

拉致被害者問題、北方領土問題、竹島・尖閣諸島問題など、どうにもならない状態で時間ばかりがいたずらに過ぎて行ってしまう。そして、沖縄の基地問題。
我々はどのような形で国を守ろうとするのか。頭の痛い問題が山積している。