老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

「節分違へ(節分違え・せちぶんたがえ)」について

2010-02-05 19:08:00 | インポート

平安時代から鎌倉・室町にかけて行われた風習に、「方違へ(方違え)」というものがある。
それについて、手元の古語辞典には、次のようにある。

かたたがへ(方違へ):(名詞)「かたたがひ」とも。陰陽道(おんようどう)で、外出する際、天一神(なかがみ)・太白神(ひとよめぐり)・金神(こんじん)などのいる方角をさけること。行く方角がこれに当たると災いを受けると信じ、前夜別の方角の家(「方違へ所」)に泊まり、そこから方角を変えて目的地に行く。=忌み違へ。「─にいきたるに、あるじせぬ所(=ゴチソウヲシテクレナイ家)」 

[学習]天一神(なかがみ)と方塞(かたふた)がり──天一神は己酉(つちのととり)の日から6日間、丑寅(うしとら・北東)の隅に滞在し、次に卯(ウ・東)に5日間というように、丑寅、辰巳(たつみ・南東)、未申(ひつじさる・南西)、戌亥(いぬい・北西)の4隅に各6日間、卯、午(うま・南)、酉(とり・西)、子(ね・北)の四方に各5日間滞在するとされる。それに当たる方角が「方塞がり」ということになる。そして、癸巳(みずのとみ)の日に天上に行き、天上に16日間滞在するので、この間はどの方角にも自由に行けることになる。
   (以上、『旺文社古語辞典』第8版による。)

このことは、伊勢貞丈(さだたけ)著の『貞丈雑記(ていじょうざっき)』巻16の次の説明がよく引用される。
「方違と云たとへば明日東の方へ行かんとおもふに東の方其年の金神に当る歟又は臨時に天一神太白神などに当り其方へ行は凶(あ)しと云時は前日の宵に出て人の方へ行て一夜とまりて明日其所より行けば方角凶(あ)しからず扨(さて)志たる方へ行也方角を引たがへて行く故方違と云也 物いまひにてする事也

つまり、どこかへ出かけようとするとき、その方角が悪い(その方角に悪い神が滞在している)場合、その方角を避けて別の方角の家へ行き、そこで一泊して、翌日目的地へ向かうというやり方である。そうすれば、悪い神のいる方角へ向かうことが避けられる。方角を違(たが)えて目的地へ向かうことから、「方違へ(方違え)」というのである。

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方違へ(方違え)についての説明はこのぐらいにして、さて本題の「節分違へ(節分違え・せちぶんたがえ)」に入ることにしよう。
2月3日は、節分であった。節分とは、季節の移り変わる時、すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日をいう。特に立春の前日を指して言うことが多いが、本来は1年に4回あるわけである。
この節分の夜に、方違えをする習慣があったという。ここで再び、辞書で「節分違へ(節分違え)」を引いておこう。

せちぶんたがへ(節分違へ):(名詞)節分の日に行う「方違(かたたが)へ」。平安時代、節分に「方違へ」をする風習があった。「─などして夜ふかく帰る」<枕草子・節分違などして> (『旺文社古語辞典』第8版)

せちぶんたがえ(節分違え):平安時代、節分に行なった方違(かたたがえ)。枕草子298「─などして夜ふかく帰る、寒きこといとわりなく」 (『広辞苑』第6版)

つまり、節分の夜にも、方違へ(方違え)をおこなったというのだが、はて、前記の「方違へ(方違え)」の説明では、どこかへ出かけようとした時に、その方角が悪い場合に「方違へ(方違え)」をおこなったというのだ。しかし、節分の夜は、特にどこかへ出かけようとしなくても、「方違へ(方違え)」をおこなったという。一体、なんのために家を空けなければならないのだろうか。そしてどこへ行って泊まればいいのだろうか。
そのへんの説明が、どの辞書を見ても書いてない。

方違へ(方違え)の研究書として有名なのは、Bernard FRANK “KATA-IMI ET KATA-TAGAE” Etude sur les Interdits de derection à l'époque Heian (『日仏会館学報』新第5巻第2-4号、日仏会館・昭和33年7月25日発行)である。これは、後に斎藤広信氏によって日本語訳が出版された(ベルナール・フランク著、斎藤広信訳『方忌みと方違え─平安時代の方角禁忌に関する研究─』、岩波書店・1989年1月26日第1刷発行)。

この本のことは、小西甚一先生の高校生向け参考書『フレッシュでわかりよい 古文の読解』(旺文社・昭和37年6月5日初版発行)で教えていただいた。先生はそこに、こう書いておられる。

方違のしかたは、たいへんやっかいで、研究もあまり行き届いていなかったが、近ごろ、ベルナール・フランクという若いフランスの学者が、たいへん精密な調べを一冊の本にまとめて出版した。フランス語で書いてあるので、日本の学界ではあまり知られていないけれど、すばらしい業績である。くわしくはフランス語を勉強してからフランクさんの本をおよみなさいだが、日本の高校生なら、まあ「直接に不吉な方向へ行かないこと、あるいは自分の家が不吉な方向にあたっていればよそで泊ること」ぐらいに憶えておけば十分だろう。
  (注) ベルナール・フランク=綴りはBernard Frank, 書名は Kata-imi et kata-tagae, Etude sur les Interdits de derection à l'époque Heian.   (同書、53頁) 

しかし、残念ながら、フランク氏のこの本を見ても、小生の読み取り方が悪いのか、「節分違へ(節分違え)」についての事情がよくのみこめない。

節分の夜、どうして家を離れなければならないのか、どの方角から見て我が家の方角が悪いことになるのか、節分の夜、「方違へ(方違え)」をしなければならないのはどういう人たちなのか、──どなたかお分かりの方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。



「春立つ日」はなぜ「立春」なのか

2010-02-04 20:02:00 | インポート

二十四節季の一つ「立春」は、「春立つ日」と言われる。
古今集の冒頭にとられた在原元方の歌の詞書に、「ふるとしに春たちける日よめる」とあり、次の紀貫之の歌の詞書にも、「春たちける日よめる」とある。
春が立つのならば、「春立」(主語+述語)となるはずなのに、なぜ「立春」(他動詞+目的語)なのだろうか、というのが、<「春立つ日」はなぜ「立春」なのか>の意味するところである。

「春立」ならば、「春が立つ」であるが、「立春」では「春を立てる」となってしまうではないか。
これは立春ばかりでなく、当然のことながら、立夏、立秋、立冬、すべてに言えることである。

これについては、大修館書店のホームページの「漢字文化資料館」にある「漢字Q&Aコーナー」でお尋ねしたら、Q0457で、「「春が立つ」ならば漢字の順序として「春立」でないといけないのではないですか?」という質問の形で、回答をいただいた。
詳しくはそちらを見ていただきたいが、簡単にいうと次のようになる。

中国古代の人々の感覚では、人間界の諸々の諸政策ばかりでなく、星辰の運行から季節の巡行に至るまで、すべては王の支配に委ねられているものであった。だから、季節も勝手にやってくるものではなく、王が「この日から春だ」「この日から夏だ」……と宣言するものであったのである。つまり、「立春」とは「春が立つ」のではなく、王が「春を立てる」という意味合いで解釈すべき言葉なのである。

大修館書店HP「漢字文化資料館」 → 「漢字Q&A」(旧版) → Q0457

「立」という動詞の、特別の用法ではないだろうかと思っていたが、そうではなく、世界観に関わる問題であったわけである。その「立春」を、後世の人々は自分たちの理解に合わせて、「春が向こうからやって来て、立つ(春になる)」と解釈したのだろう。

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古今集から、春のはじめの歌をいくつか。

   ふるとしに春たちける日よめる     在原元方
 年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはんことしとやいはん

   春たちける日よめる            紀 貫 之
 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん

   二条のきさきの春のはじめの御うた  
 雪のうちに春はきにけり鶯のこほれる涙いまやとくらん

   雪の木にふりかゝれるをよめる     素性法師
 春たてば花とや見らむ白雪のかゝれる枝にうぐひすの鳴く

                       
   春のはじめのうた           みぶのたゞみね 
 春きぬと人はいへども鶯の鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ


(注)古今集の歌は、岩波文庫『古今和歌集』(佐伯梅友校注、1981年)によりました。





今日は立春

2010-02-04 12:36:00 | インポート
今日、2月4日は立春。古今集の2番目の歌、紀貫之の「春たちける日よめる」という詞書の次の歌が思い起こされます。

袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん
(暑い夏の日に、山の井で袖が濡れるという状態で手にすくった水が、冬の寒さで凍っていたのを、立春の今日の風が、今頃はとかしているだろうか。)

一首のうちに三つの季節を詠み込んだ歌として知られています。高校の古典文法では、この「らん(らむ)」が、<現在推量の助動詞>で、現在目に見えていない所で行われている事実について、「今頃は……しているだろう」と推量する意を表す、その例としてよく挙げられたりします。

この歌が古今集の2番目の歌だとしたら、古今集冒頭の歌は何かということになりますが、それは在原元方の「ふるとしに春たちける日よめる」という次の歌です。

年の内に春はきにけりひととせをこぞとやいはんことしとやいはん
(旧年のうちに立春になってしまった。同じ一年を去年と言ったものだろうか、ことしと言ったものだろうか。)

いかにも子規が毛嫌いしそうな、古今集の理屈っぽい一面を示す典型的な歌です。

ところで、今日2月4日は、旧暦では12月21日ですから、今日も「ふるとしに春たちける日」ということになるわけです。とすれば、旧暦だと、元方にならって、「はて、今日は去年と言ったものか、いや、もう立春になったのだから、今年と言ったほうがいいのだろうか」と、まごつくところでしょうか。

「暦の上では春とはいいながら」などというように、手紙などでは、季節は明らかに冬なのに、立春以降は「春寒」「余寒」などと書いて、春になったとするようです。それは、立秋を過ぎたら、「暑中見舞い」が「残暑見舞い」になるのと同じでしょう。
しかし、1月1日から2月3日までは、立春になっていないのですから、「暦の上ではまだ冬」なのに、1月1日になれば、「賀春」と書いたり「新春」と書いたりしているのですから、ややこしい話です。

水戸の観梅は、例年2月20日から始まりますから、その頃はもう早春になっているのでしょう。
月単位で大雑把に分ければ、どうなるのでしょうか。手元の『俳句歳時記・春』(富安風生他編、平凡社・昭和34年初版)には、「3~5月(春)、6~8月(夏)、9~11月(秋)、12~2月(冬)」となっています。
私の感じでは、2月は早春、5月は「さつき」で、もう初夏ではないか、という気がするのですが、どんなものでしょうか。

ちなみに、この歳時記には、
「それぞれの季節のあらわれ方は、場所によって著しく違い、北海道と九州では大変な違いがある。日下部正雄氏の研究によれば、この本朝七十二気候(注)は、だいたい大阪付近の動植物季節に一致しているという」
とあります。
(注:「本朝七十二気候」とは、天保のころ、高井蘭山が、中国の二十四節気七十二候を改良してつくったもので、現在の暦に記載されている「節気」(立春、雨水、啓蟄、春分、……)はこれによったものだそうです。同書、3頁)



石鹸の泡と肌

2010-02-02 18:00:00 | インポート
もう随分昔のことになるが、こんなことがあった。

今でもやっているかと思うが、NHKのラジオで健康相談というのをやっていて、その日は皮膚科の相談の日であったのだろう、ある若い人──多分大学生だったと思う──が、こんな相談をしていた。

「石鹸を顔につけてひげを剃っている友人が、剃り終わって顔を洗い拭うときに、石鹸の泡を一部拭い忘れてそのままにしてしまうことがよくある。そんなことをして、大丈夫なんですか? 皮膚に悪くはありませんか?」
というのである。

それに対する答えは、たぶん、「きれいに拭い去ったほうが勿論いいけれども、石鹸の泡が少しぐらい残ったぐらいで、皮膚が炎症を起こすこともないから、そう気にすることはないでしょう」というような回答だったと思う。
係の人も、こういう質問、相談を取り上げるかどうか、迷ったのではないかと思うが、ともかくそういう相談があった。

相談をした人は、おそらく、きちんとした性格の人で、身の回りは清潔整頓の模範といっていい生活をしているのであろう。石鹸で顔を洗うときは、石鹸分が少しも残らないように、丹念に洗い濯ぎ、洗い終わったあとは清潔なタオルで水分を拭い去る。
考えてみると、もしかしたら彼は、そのようなことで随分時間をとられていて、肝腎の勉強時間が少なくなっていたのではないだろうか。──と、そんなことも心配になってくる。

世の中には、はなはだ大雑把な性格の人もいるが、中にはそういう些細なことが気になる人もいるのである。
彼はその後、どういう人生を送ったであろうか、と時々思うことがある。