老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(3)

2009-10-26 10:55:00 | インポート

シュトルムの『みずうみ』が、わが国で最初に翻訳されたのは、いつ、誰によってであるかについて、『日本中国学会報』第44集(1992年10月)に、清水賢一郎氏が「明治の『みずうみ』、民国の『茵夢湖』─日中両国におけるシュトルムの受容」という論文を書いておられるので、それによって、『みずうみ』のわが国における最初期の翻訳について紹介しておきたいと思う。

上記の清水氏の論文によると、わが国における最初の『みずうみ』の翻訳は、三浦白水による部分訳であったという。

1.明治38(1905)年
三浦白水訳『夢の湖』(明治38(1905)年8月1日発行の雑誌『神泉』創刊号所収)。ただし、全訳ではなく、「降誕祭」「帰郷」「思はぬ文」の3章のみの訳。

したがって、「幼なじみで相思相愛の男女二人が、母親の言いつけに従って他に嫁がされたために起こった悲恋物語だけであ」って、「初めて日本に紹介された『みずうみ』は、決して牧歌的叙情、感傷と甘さ、哀愁と諦念といったものではなく、極めて現実的で生々しい作品として像を結んでいたと想像される」(清水氏)。

次に、大正3年に、同じく三浦白水(吉兵衛)によって全訳が出された。

2.大正3(1914)年
三浦白水訳『湖畔』(大正3(1914)年6月)独逸叢書の1冊。独和対訳方式で、巻末に詳細な「註解」を付す。

次に出たのが、大正10年の牧山正彦の訳によるもの。

3.大正10(1921)年
牧山正彦訳『インメン湖』(新潮社、大正
10(1921)年8月13日発行の、ゴッドフリイド・ケルレル作『村のロメオとユリア』の付録として)

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以上、シュトルムの『みずうみ』の、わが国における最初期の翻訳について、清水賢一郎氏の論文によってご紹介しました。
詳しくは、直接「明治の『みずうみ』、民国の『茵夢湖』─日中両国におけるシュトルムの受容」(『日本中国学会報』第44集(1992年10月1日発行)所収)にあたっていただきたい。

残念ながら、私はこの3冊のいずれをも実際には目にしていません。
三浦氏、牧山氏が、“Noch kein Licht !” をどう訳されているか、知りたいものです。

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三浦白水(吉兵衛)について

三浦白水(みうら・はくすい)は、本名が吉兵衛なので、三浦吉兵衛として経歴を紹介します。

三浦吉兵衛(みうら・きちべえ)1877-1939=初め、白水と号した。明治10年2月18日、宮城県桃生郡小野村に三浦功の長男として生まれる。小野尋常小学校に入学、3年時に古川尋常小学校に転校。そこで吉野作造と同級になり、以後二人は生涯の友となった。宮城県尋常中学校、第二高等学校を経て、同33年、東京帝国大学に入学(独逸文学科)。36年、東京帝国大学を卒業。山口高等学校教授となる。37年、第七高等学校造士館教授。40年、第五高等学校教授。45年から大正15年まで、第一高等学校教授。大正15年、第一高等学校を退職、以後同校講師として勤務した。昭和14年12月31日、東京小石川の自宅で逝去。享年62。
明治38年の『夢の湖』発表当時は、大学卒業後間もない鹿児島の第七高等学校造士館教授時代、大正3年の『湖畔』刊行当時は、第一高等学校教授の任にあった。

※ 清水氏の論文には「明治38年、東京帝国大学文科を卒業」「『夢の湖』の発表当時は、大学卒業後間もない熊本五高教授時代」とあるのですが、大学卒業は明治36年、『夢の湖』の発表当時は鹿児島の七高におられたときであったとするのが正しいと思われますので、そのように記載しました。
 なお、小学校の入学状況や、東京帝国大学の卒業年、『夢の湖』発表当時の在職校、第一高等学校の勤務期間等については、吉野作造記念館、東京大学総合図書館、山口大学総合図書館の係の方に確認して頂き、たいへんお世話になりました。記して謝意を表します。(2009年12月9日)

※ 三浦白水(吉兵衛)の没年月日を、昭和14年12月21日とするものがありますが、上に引いた朝日新聞の記事によれば、没年月日は昭和14年12月31日が正しいということになります。(2009年11月27日)
                                      
参考までに、『朝日新聞縮刷版』によって、昭和15年1月1日の東京朝日新聞の死亡記事を引用しておきます。
 三浦元一高教授 元一高教授三浦吉兵衛氏は予て肺炎で療養中旧臘卅一日午後六時死去した享年六十三、告別式は四日午後一時から二時まで小石川区駕籠町一四六の自宅で執行する、氏は宮城県人、東大独文科卒業後山口、七高、五高、一高各高等学校の教授となりドイツ文学及びドイツ語学会の大先輩だつた

 三浦吉兵衛は、吉野作造とは小学校時代同級生だったそうで、『吉野作造記念館』というサイトの「吉野作造こぼれ話」の「第9話 古川小学校の親友たち」に、次のように紹介されています。(残念ながら現在は公開されていないそうです。2022年10月2日)

 14歳まで古川に住んでいた吉野にとって、古川の思い出は小学校と深く結びついています。当時の古川尋常小学校(今の古川第一小学校)で吉野と仲が良かったのは、後にこの小学校の第14代校長となった清野金太郎でした。二人は雑誌の手作りに夢中でした。吉野が古川を出てからも二人は手紙のやり取りを続け、明治35年には吉野を介して、東京の牧師を古川小学校の教員たちの聖書研究会へ呼んでいます。
 小学校時代から成績はいつもトップだった吉野ですが、作文についてはその上を行く同級生が二人いました。小学生向け雑誌への投書で見事1等賞を取った谷地森きわと三浦吉兵衛は、校長先生からみんなの前で賞品を受け取りました。投書魔の吉野がこの応募に参加しなかったはずはないのですが、自身の回想の中では参加したかどうかよく分からないなどと書いています。しかし教室のみんなから羨望の視線を浴びながら賞品を受け取る二人を見て、悔しい思いをしたようです。

 その後大学まで共に歩んだ三浦を吉野はライバルとして意識し、三浦が珍しい本を読んでいると、負けずに本を集めました。 また、物知りの三浦に対抗しようと読書に精を出し、古川で初めて本屋ができると、毎日のように学校帰りに通いつめました。吉野が本好きになったのは、このころだと思われます。
 晩年には古本集めを趣味とした吉野ですが、その陰には幼いころの友人たちとの切磋琢磨の思い出があったのです。


古川小学校は、現在の宮城県大崎市立古川第一小学校です。

吉野作造(よしのさくぞう)=1878-1933(明治11-昭和8)政治学者・思想家。宮城県の生まれ。東大卒。1906(明治39)袁世凱に招かれ北洋法政専門学堂で教え、’09東大助教授、欧米留学後同教授。大正の初め以来論壇にも登場、16(大正5)「中央公論」の「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」をはじめ、諸論説は大正デモクラシーに理論的基礎を提供、普通選挙論、枢密院・貴族院・軍部改革論を主張。’24 朝日新聞社に入社、政治評論などに活躍、筆禍で退社。のち明治文化研究会を創立、明治の政治・思想・文化を研究、「明治文化全集」を編纂刊行。この間東大新人会・社会民衆党結成に尽力。(『角川日本史辞典』第二版、昭和41年12月20日初版発行、昭和49年12月25日第二版初版発行による)
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夏目漱石と『みずうみ』

清水氏によれば、当時の新体詩にどちらかというと否定的だった夏目漱石は、『夢の湖』の中に出てくる詩を取り上げて、次のように言っているそうです(明治38年8月15日『新潮』)。

然しこんなのはよい、例へば『夢の湖』といふ小説中に挿まれた一節の詩だね。
   美はしき我顔ばせも
   今日のみぞたゞ今日のみぞ
   物皆は変り果てなめ
   明日こそは嗚呼明日こそは。
   わがものと君を思ふも
   束の間ぞ嗚呼いつまでぞ
   君にわかれ身はたゞひとり
   死に果てんあはれいづこに。
同じ雑誌の中でも、是などはよほどうまいと思ふ。要するに今少しく意味のある、蘊蓄のある、しつかりした人が作家にほしいのだ。


ということは、漱石も『夢の湖』を読んだということになるわけですが、ただ『夢の湖』は作品全体ではなく、3章のみの訳なので、果たして漱石がシュトルムの『みずうみ』の全訳を読んだかどうかはここでは分かりません。

因みに、この文章(談話)は、昭和42年4月28日発行の岩波版『漱石全集』第16巻 別冊 所収の「水まくら」(『新潮』明治38年8月15日に発表)の中に「新体詩」という文章(談話)があって、そこに出ています(全集、483~486頁)。(2009年10月27日)  



インタビュー後のあいさつ(あいづち)

2009-10-15 09:55:00 | インポート
テレビやラジオでインタビューを見たり聞いたりしていると、インタビューの最後に、インタビュアーが、「ありがとうございました」と、お礼を言う。
それに対して、インタビューされた人がなんと答えるかは、人によってさまざまで、面白い。

昔の日本人は、そういう場合、たいてい「失礼しました」と答えていたように思う。
ところが、いつのころからか、「ありがとうございました」と言われて「ありがとうございました」と返す人が出てきた。これは、おそらく、西洋人がインタビューの最後に、“Thank you!”と言われて“Thank you!”と返していることから来た現象だろうと、私は想像している。
この場合、西洋人は、どういうつもりで“Thank you!”と返しているのか分からないが、日本人が「ありがとうございました」と返しているのを聞いていると、最近はだいぶ慣れてきたが、初めのころは、さてはこの人は、このインタビューで謝礼を貰ったのだな、それで「失礼しました」と言わずに「ありがとうございました」と言っているのだな、という感じがして、どうも落ち着かなかった。

ここで、インタビューを受けた人が「ありがとうございました」と言われてどう答えるかをまとめてみると、次の4種類になるように思う。
(1)「ありがとうございました」と返す。
(2)「失礼しました」と返す。
(3)「どうも」と返す。
(4)「……(無言)」

(3)の「どうも」と(4)の無言というのは、例えば、NHKの元解説委員で、今は大学教授や評論家になっている人が、古巣のNHKのアナウンサーからインタビューを受けて「ありがとうございました」と言われたような場合に見受けられるように思うが、元の仲間だから、ということであろうが、「どうも」はともかく、無言というのは、なんともそっけない感じがする。

それでは、「ありがとうございました」と返す場合の理由を考えてみると、可能性としてはどういうことが考えられるであろうか。
(1)自分をインタビューに選んでくれて、そのことで謝礼を貰うことにたいするお礼。
(2)謝礼は貰わないが、自分たちのPRになるインタビューをしてくれたことに対するお礼。
(3)英米人の流儀に倣ったやり方。
(4)ただ、なんとなく(鸚鵡返しのあいさつ)。

(1)の「謝礼を貰うことにたいするお礼」というのは、聞いているほうにはそういう感じに受け取れることがあっても、現実にはそういう意味で言っている人がいるとは考えられないであろう。普通は(2)の「自分たちのPRになるインタビューをしてくれたことに対するお礼」であろうか。

(2)の「自分たちのPRになるインタビューをしてくれたことに対するお礼」の場合を除いて考えてみると、「失礼しました」という受け答えが使われなくなったのは、「別に失礼したわけでもあるまい」という、西洋的合理主義による考え方が強くなってきたことと、なによりも、さっきも言ったように、西洋人の“Thank you!” に対する “Thank you!” という受け答えの影響が大きいのだろうと、私は考えている。つまり、日本人が、西洋人と接触する機会がふえて、そのせいで(3)の「西洋人の流儀に倣ったやり方」をするようになったのだろう、と思うのである。
しかし、まだ何となく違和感を覚えて仕方がない。西洋人はどういうつもりで、“Thank you!”と返しているのであろうか。



名前の読み方

2009-10-14 11:19:00 | インポート
人の名前の読み方は、難しい。
例えば、次の名前を読んでみてほしい。

(1)山田孝雄(国語学者) (2)柳田国男(民俗学者) (3)折口信夫(国文学者・歌人) (4)井上毅(政治家) (5)南方熊楠(民俗学者・博物学者) (6)水上勉(小説家) (7)井深大(ソニー創業者)

(1)山田孝雄は やまだ よしお(YAMADA YOSHIO)。(2)柳田国男は やなきた くにお (YANAKITA KUNIO)、(3)折口信夫は おりくち しのぶ (OROKUCHI SHINOBU)であって、それぞれ、「やなぎだ くにお」、「おりぐち しのぶ」ではない。因みに、評論家の柳田邦男は やなぎだ くにお(YANAGIDA KUNIO)と、普通に読んでいい。
(4)井上毅は いのうえ こわし (INOUE KOWASHI) 、(5)南方熊楠は みなかた くまぐす(MINAKATA KUMAGUSU)で、これは知っている人にはなんでもないが、知らない人は戸惑ってしまうだろう。
(6)水上勉は みずかみ つとむ(MIZUKAMI TUTOMU)。同じ小説家の水上滝太郎は みなかみ たきたろう(MINAKAMI TAKITAROU)で、紛らわしい。
(7)井深大は いぶか まさる(IBUKA MASARU)。

人名ではなく地名であるが、「木葉下」「隨分附」などは、普通の人には読めないだろう。水戸市木葉下町、笠間市隨分附。それぞれ、「あぼっけ」「なむさんづけ」と読む。木葉下は、小松左京の小説『日本沈没』で、日本列島最後に残る場所として設定・紹介されたことで、一時有名になった。

その他にもいろいろあるだろうが、今思い浮かぶのはこれぐらいであるから、今日はこの辺で筆を擱く(キーを打つのを止める?)ことにしよう。






ドイツの窓(ドイツ窓)のこと

2009-10-13 14:28:20 | インポート
もう随分前のことになるが、ドイツのフルダという町に泊まったことがある。
この町は、フランクフルトの北東約90キロのところにある静かな落ち着いた町で、8世紀の半ば、聖ボニファティウスによってベネディクト修道会の修道院が建てられたのが、町の起こりとなったということである。ベネディクト修道会は、ベネディクトゥス(480年頃~547頃)が始めた修道会で、イタリアのカッシーノにあるモンテ・カッシーノ修道院が、彼の建てた最初の修道院として有名である。このモンテ・カッシーノ修道院は、ヨーロッパにおける最初の修道院となった。
フルダは、第二次世界大戦後の冷戦下においては、東西ドイツの国境に近いところにあった関係で、1994年までアメリカ陸軍の駐留する基地が置かれていた。

その町の小さなホテルで、いわゆる「ドイツ窓」を見た。観音開きで開く窓の、片方が手前にも倒れて斜めに開く仕掛けになっている窓である。こんな窓を見たのはそのときが初めてであったから、びっくりした。
その後調べてみると、犬養道子さんが、『ドイツ便り ラインの河辺』(中央公論社、1973年初版)という本で、この窓について書いていることが分かった。彼女は言う、
「よくいわれることで、各国各地の住体験のある人々が口をそろえてほめるのは、ドイツの窓のつくりは世界一だということである。アルミサッシュのものも、ふつうの木枠のものも、三十年前につくられた家の窓も、戦前の家の窓も、『世界一』よく出来ている点でちがいはない。すなわち一つの窓にあらゆる場合に見合うさまざまの働きをさせる点で。」
犬養さんは、ライン河畔の物静かな小さな町で三年暮らした経験から、便利強固極まりないドイツ風の窓や、安全装置なしには一個も存在しないコンセントのことなどについて書いておられる。
窓そのものについてばかりでなく、蛇腹(じゃばら)式のよろい戸にもふれて、「その絶対に近い安全性(戸じまりとしての)、操作のかんたんさ、冬なぞ寒気を防ぐ役目の完全さ、重宝さは、感嘆に値する」と、手放しの褒めようである。更に、「よくできているといえば、カーテンがまた、実にみごとなもの」として、「吊ったとき、布がピンと張りながら、壁面から浮き上らずにぴっちりと壁に沿ってゆくような、曲線のレールと金具」をとりあげている。

ネットでこのドイツ窓のことを調べてみると、この窓のことを「ドレーキップ窓」(ドレーキップフェンスタ DREHKIPPFENSTER =内開き・内倒し窓)と言うのだそうで、その名の通り、内側に観音開きになると同時に、片方を好きなだけ内側に倒して換気ができるようになっている窓である。
図で示すと分かりやすいのだが、そのホテルの窓の仕組みをスケッチして来たメモが、手元に見当たらない。「ドイツ窓」または「ドレーキップ窓」で検索すると、窓の写真がいくつか見られるので、ぜひそうして見ていただきたい。

それにしても、便利と思えるこの窓が日本で流行らないのは、なぜなのであろうか。建築の専門家には、きっとそれなりの理由があるのだろうと思う。単に、費用が高くつくからという理由だけではないと思うのだが……。



鉛筆やボールペンの持ち方

2009-10-11 12:27:10 | インポート
NHKの教育テレビなどで、子どもたちが生き生きと学習に励んでいる姿を、時々見かけることがある。子どもたちは、鉛筆を持ってノートに何やら必死に書きつけている。一生懸命な様子が、画面いっぱいに映し出された、鉛筆を握りしめた手の形によく表れている。
ところが、折角の素敵な番組内容であっても、そこに映し出された子どもたちの鉛筆の持ち方を見て、がっかりさせられることが多い。ほとんど全部といってよいくらい、子どもたちの鉛筆の持ち方が奇妙なのである。
鉛筆を垂直に近く立てて、力を入れてぎゅっと握りしめ、手前の親指が人差し指を覆い隠して、上方又は前方に大きく突き出ている。親指に隠された人差し指は、怒っているように反りかえっている。
なぜ、こんなことになるのであろう。どうしてもっと素直に、鉛筆が持てないのであろうか。
その子は、今まで鉛筆の持ち方について教えられたことがないのであろうか。あるいは、小さいときに家で鉛筆を持ち始めた際に、両親が持ち方を教えなかったために妙な持ち癖がついてしまい、幼稚園や小学校に入ったときに、その妙な持ち方に気づいた先生方が、「○○ちゃん、あなたの鉛筆の持ち方はおかしいよ。もっと素直に持って書いてみてごらん」と指導しても、妙な持ち癖のついたその子は、簡単にはその癖を直せなくなっているのであろうか。
あるいは、先生方が雑務に追われていて、鉛筆の持ち方の指導にまでは、手が回らないのであろうか。
文字や絵がかければ、鉛筆の持ち方などはどうでもいい、というわけでもあるまい。テレビで見かける子どもたちの鉛筆の持ち方が、ほとんど全部といってよいほど、奇妙な持ち方になっていることは、日本の教育のゆとりのなさを象徴的に表しているようで、まことに寒心に堪えない。
子どもたちばかりでなく、若い娘さんなどが奇妙な、見苦しいペンの持ち方をしているのを見かけると、ああ、どうせなら、もっと見た目に美しい、見る人が不快な感じを受けない持ち方ができないものであろうか、と思うのである。
一応、普通の(正しい)持ち方をしているように見える人でも、人差し指を、怒ったように反らせて持っている人が実に多い。そういう人を見かけると、「なぜ、そんなに怒ってペンを持っているの?」と、つい声をかけたくなってしまうが、実際にはそう無暗に声をかけるわけにはいかない。

「すごい暑い」だの、「すごい疲れた」だのと言っている若者──いや最近はりっぱな大の大人でさえもそう言っている人が多いが──を見かけると、「『すごい暑い』『すごい疲れた』ではない! そういうときは、『すごく暑い』『すごく疲れた』と言うのだ!」と言いたくなるが、これも今や、個人の力ではどうしようもない状況に立ち至っている。

世は末になるこそ無下になりゆくめれ、と誰かが言っていたように思うが、これらの嘆きも年寄りの愚痴というものであろうか。