「罪を悪(にく)んで人を悪まず」という言葉がある。
広辞苑によれば、「犯した罪は罪としてにくむべきものだが、その罪を犯した人までもにくんではならない」という意味だそうである。
犯した罪をにくんでも、その罪を犯した人をにくんではならないとは、どういうことであろうか。
広辞苑にはこの言葉の出典が出ていないのであるが、他の資料によれば、この言葉は、『孔叢子』に出ている孔子の言葉だということになっている。
広辞苑が『孔叢子』(くぞうし・こうそうし)を出典として挙げないのは、この書が偽書だという説があり、そのためにこの言葉を孔子の言葉だと断定できないと考えるからであろうか。
試みに『孔叢子』を見てみると、この言葉は次のように出ている。
書曰、若保赤子。子張問曰、聴訟可以若此乎。孔子曰、可哉。古之聴訟者、悪其意不悪其人。(中略)今之聴訟者、不悪其意而悪其人、求所以殺。是反古之道也。
つまり、この「古之聴訟者、悪其意不悪其人」の「悪其意不悪其人」を、「その罪を悪(にく)んでその人を悪まず」として受け取り、それが「罪を悪(にく)んで人を悪まず」という言葉となって広まったものであろうと思われる。
もとの言葉の意味を詮索することは、ここではさて措いて、「罪を悪(にく)んで人を悪まず」というのは、どういうことであろうか。なぜ、罪を犯した人をにくんではならない、と言うのであろうか。
まず、この言葉は正しいのであろうか。
これを正しいとする意見で考えられることは、その罪を犯した人は、育った環境や置かれた境遇に同情すべき点がある場合があり、また、その罪を犯すに至ったそれなりの理由が考えられる場合があるからだ、ということであろうか。
しかし、それは罪を犯した人すべてについて言えることではなく、そういう場合もある、ということであろう。だとすれば、「罪を悪(にく)んで人を悪まず」と一般化して言うことは正しくない、ということになろう。
あるいは、この言葉はもっと深い意味を言っているのであろうか。
人間は過ちを犯す動物である、したがって、もし罪を犯した人間がいたとしても、それは人間そのものの犯した罪ではなく、何かの事情で罪を犯さざるを得なかっただけのことであるから、その犯した罪は非難されても、人間そのものは否定されるべきものではない、といったことを意味しているのであろうか。
しかし、罪を犯した人をにくまずに罪をにくむことが、果たしてできるものなのであろうか。
この言葉についてなぜこの時期に考えてみようと思ったのかというと、8月6日の広島、8月9日の長崎に落とされた原子爆弾について、アメリカの半数以上の国民が、それを正当な行為だったと考えている、という報道があったからである。
広辞苑によれば、「犯した罪は罪としてにくむべきものだが、その罪を犯した人までもにくんではならない」という意味だそうである。
犯した罪をにくんでも、その罪を犯した人をにくんではならないとは、どういうことであろうか。
広辞苑にはこの言葉の出典が出ていないのであるが、他の資料によれば、この言葉は、『孔叢子』に出ている孔子の言葉だということになっている。
広辞苑が『孔叢子』(くぞうし・こうそうし)を出典として挙げないのは、この書が偽書だという説があり、そのためにこの言葉を孔子の言葉だと断定できないと考えるからであろうか。
試みに『孔叢子』を見てみると、この言葉は次のように出ている。
書曰、若保赤子。子張問曰、聴訟可以若此乎。孔子曰、可哉。古之聴訟者、悪其意不悪其人。(中略)今之聴訟者、不悪其意而悪其人、求所以殺。是反古之道也。
つまり、この「古之聴訟者、悪其意不悪其人」の「悪其意不悪其人」を、「その罪を悪(にく)んでその人を悪まず」として受け取り、それが「罪を悪(にく)んで人を悪まず」という言葉となって広まったものであろうと思われる。
もとの言葉の意味を詮索することは、ここではさて措いて、「罪を悪(にく)んで人を悪まず」というのは、どういうことであろうか。なぜ、罪を犯した人をにくんではならない、と言うのであろうか。
まず、この言葉は正しいのであろうか。
これを正しいとする意見で考えられることは、その罪を犯した人は、育った環境や置かれた境遇に同情すべき点がある場合があり、また、その罪を犯すに至ったそれなりの理由が考えられる場合があるからだ、ということであろうか。
しかし、それは罪を犯した人すべてについて言えることではなく、そういう場合もある、ということであろう。だとすれば、「罪を悪(にく)んで人を悪まず」と一般化して言うことは正しくない、ということになろう。
あるいは、この言葉はもっと深い意味を言っているのであろうか。
人間は過ちを犯す動物である、したがって、もし罪を犯した人間がいたとしても、それは人間そのものの犯した罪ではなく、何かの事情で罪を犯さざるを得なかっただけのことであるから、その犯した罪は非難されても、人間そのものは否定されるべきものではない、といったことを意味しているのであろうか。
しかし、罪を犯した人をにくまずに罪をにくむことが、果たしてできるものなのであろうか。
この言葉についてなぜこの時期に考えてみようと思ったのかというと、8月6日の広島、8月9日の長崎に落とされた原子爆弾について、アメリカの半数以上の国民が、それを正当な行為だったと考えている、という報道があったからである。