老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

日本の蒸し暑い夏とネクタイ姿と

2009-05-30 20:16:00 | インポート
日本の夏は、蒸し暑い。気温が高いうえに、湿度が高いからである。
この蒸し暑い夏を、ネクタイ姿で働かなければならないサラリーマン諸氏は、誠にご苦労なことである。上着を片手に、ネクタイも外せずに、汗をかきかき照り返しのきつい路上を歩きまわっている姿は、ほんとうに気の毒というほかはない。
クーラーの効いた室内で仕事をしている彼らの同僚や上司は、朝から夕方まで電力を消費して、つまりCOを排出しつつ、涼しい環境の中でネクタイを着用しつづけているわけである。
蒸し暑い日本で、なぜ背広にネクタイという姿で働かなければならないのであろうか。
もともと背広にネクタイという服装は、ヨーロッパから始まったものであるが、ヨーロッパの夏は気温が高くなっても湿度が低いから、からっとした暑さで、ネクタイ姿でいても汗をかくことはなく、苦痛を感じることはないのである。
西洋人が背広にネクタイを着用しているのだから、どんなに蒸し暑くても日本人も同じ格好をして働かなくてはならない、ということはあるまい。蒸し暑い夏の間は、日本では日本の気候に合った涼しい服装をすればいいではないか、と思うのだが、それがなかなかそうならないのは不可解至極である。蒸し暑さの中で、ネクタイで首を締めつけて汗をかいている姿は、考えてみれば、気の毒というより、こう言っては悪いが、滑稽と言うべきではないだろうか。
クーラーが効いているから暑くない、と言って蒸し暑い日本の夏をネクタイ姿で過ごしている一部の官庁や企業の人間は、電力を無駄遣いして地球環境の破壊に手を貸して恥じない無自覚な人間というべきであろう。
日本には世界的にすぐれた服飾デザイナーが少なからずいるようだから、日本の夏に合った、すぐれたデザインの夏服を考案して、いたずらに西洋の真似をするのでなく、日本の気候に合った快適な夏服を着用するようにしてはどうだろうか。



夏は来ぬ

2009-05-29 15:46:00 | インポート
夏が来ると思い出すのは、尾瀬ばかりではない。まずは、佐佐木信綱博士の作詞による「夏は来ぬ」であろう。

  うの花のにほふ垣根に、時鳥
      早もきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ。

小山作之助の曲もすばらしく、初夏には、多くの人が無意識のうちに口ずさんでいるものと思われる。
卯の花は今盛りだが、ホトトギスは、関東のわが家ではまだその声を聞かない。「トウキョウト トッキョ キョカキョク(東京都特許許可局)」という聞き倣(な)しのとおり、キョキョ キョキョキョキョ!と朗らかに囀る声は、いかにも爽やかな初夏にふさわしい。

この歌詞の表記は、岩波文庫の『日本唱歌集』によったが(ただし、仮名遣いを歴史的仮名遣いに改めた)、出典の『新編教育唱歌集(五)』(明治29年5月)によったものであろうか、かなが多く使われている。「早もきなきて」は、本当は「早も来鳴きて」と書いた方が意味がとりやすい。うっかりすると、「早もき 鳴きて」ととってしまうおそれがある。

  さみだれのそそぐ山田に、早乙女が
      裳裾ぬらして、玉苗ううる 夏は来ぬ。

文庫の注によると、この「早乙女」は原作では「賤の女(しづのめ)」となっているそうである。機械による田植えが普通になってしまったこのごろでは、「早乙女が裳裾ぬらして玉苗」を植える風景は、絵にでもよるほかは見られなくなってしまった。

  橘のかをるのきばの窓近く
      螢とびかひ、おこたり諌むる 夏は来ぬ。

  楝(あふち)ちる川べの宿の門(かど)遠く、
      水鶏(くひな)声して、夕月すずしき 夏は来ぬ。

  さつきやみ、螢とびかひ、水鶏なき、
      卯の花さきて、早苗うゑわたす 夏は来ぬ。

卯の花が咲き、ホトギスが忍び音に鳴き、五月雨のそそぐ山田に早乙女が早苗を植え、橘の香る軒端近くの窓に螢が飛び交い、楝の花の散る川辺の宿には水鶏の鳴く声が遠くに聞こえ、夕月が涼しく空にかかっている、といった自然が豊かであった古きよき時代の、実にいい歌である。







カラスノエンドウ、スズメノエンドウ

2009-05-16 09:18:00 | インポート

先日の朝、ラジオを聞いていたら、アナウンサーが「カラス ノエンドウ」と言っているので、びっくりした。カラスノエンドウは、てっきり「カラスノ エンドウ」だと思っていたからである。

すぐに広辞苑をひいてみたら、たしかに「からす・のえんどう(烏野豌豆)」となっている。そして、「(これに似てもっと小形のスズメノエンドウに対する名)」とある。説明の最後に、「ヤハズエンドウ。野豌豆」としてあった。
あレレ、あれは「カラス ノエンドウ」「スズメ ノエンドウ」だったのか。

念のため、手元にある保育社の古い『原色植物観察図鑑』を見てみたら、スズメノエンドウの説明に、「スズメノエンドウというのは、昔この仲間をノエンドウといい、そのうちでとくに小さいので、スズメノエンドウという名がついた」とあり、カラスノエンドウのほうには、「カラスノエンドウというのは、昔この仲間をノエンドウといったので、そのうち果実の大きい方をカラスノエンドウといった」と出ていた。

カラスノエンドウは、ヤハズエンドウとも言うことは広辞苑にも出ていたが、フリー百科事典『ウィキペディア』によれば、「ヤハズエンドウが植物学的局面では標準的に用いられる和名だが、カラスノエンドウ(烏野豌豆)という名が一般には定着している(「野豌豆」は中国での名称)」としてある。

スズメノエンドウとたいへんよく似た植物に、カスマグサという草があるそうだ。この草はカラスノエンドウとスズメノエンドウの中間の形をしていることから、カスマグサと名づけられたのだそうである。
つまり、カスマグサという名前は、カラスノエンドウのと、スズメノエンドウの、そして間(あいだ)という意味のから、カスマグサとつけられたのだという。(あるいは、ラスとズメの間(あいだ・)という意味でカスマグサと名づけられた、といったほうがいいのかも知れないが。)
妙な名づけ方をされた草があるものである。

ついでに言うと、ヘチマという名前も、同じような名づけ方でついた名前だという。フリー百科事典『ウィキペディア』の「ヘチマ」の項によると、「(ヘチマの)本来の名前は果実から繊維が得られることからついた糸瓜(いとうり)で、これが後に「とうり」と訛った。「と」は『いろは歌』で「へ」と「ち」の間にあることから、「へち間」の意で「へちま」と呼ばれるようになった。今でも「糸瓜」と書いて「へちま」と訓じる」ということだそうである。
そうとは知らなかった。

ところで、スズメノカタビラ、スズメノテッポウという草もある。これらは、それぞれ「スズメ・ノ・カタビラ」(雀の帷子)、「スズメ・ノ・テッポウ(雀の鉄砲)」であって、普通の受け取り方をしていて問題はない。

だとすると、草に名前をつけるときに、「カラス・ノ・ノエンドウ」「スズメ・ノ・ノエンドウ」とつけてくれればよかったのに、という気がしないでもない。

ともあれ、よく調べもしないで独り合点をしてしまうと、間違って覚えてしまうことがよくあるものだ。注意しなければならない、とあらためて思ったことである。


参考: 
○フリー百科事典『ウィキペディア』の「ヤハズエンドウ」
○ 『自然風の自然風だより』というブログに、「烏野豌豆(カラスノエンドウ)と雀野豌豆(
スズメノエンドウ)とカスマグサ」というページがあって参考になります。よかったらご覧ください。
 → ブログ『自然風の自然風だより』
 → 「烏野豌豆(カラスノエンドウ)と雀野豌豆(スズメノエンドウ)とカスマグサ」
○フリー百科事典『ウィキペディア』の「ヘチマ」の項もご覧ください。