老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

青の横断歩道

2010-05-08 10:55:00 | インポート
一人の男が、両脇を獄吏に抱えられるようにして、閻魔大王の前に引き出されて来た。
閻魔大王は、何やら鋭い口調で詰問し始めた。
男は、なんでも、生きていた時に交通法規の作成に関わったことで、その責任を問われているらしい。

交通法規の作成に関わったことで、何が問題にされているのだろうと、しばらく様子を窺っていると、男は次のようなことで責任を問われていたのである。

下界では、横断歩道を青で歩いていた子どもやお年寄りが、右折してきた車や左折してきた車にはねられて、命を落としたり大怪我をしたりしている。
なぜそんな理不尽なことが起こるのかというと、それは、横断歩道が青であっても、車も右左折することが法規上認められているからである。
それが、車を優先した、人命軽視も甚だしい思考の結果だ、というのである。

そういえば、そうだ。青は進め、であり、信号が青である限り、横断歩道は安全に歩行できるはずの場所であるはずだ。
青の信号で歩いているときに、車がそこへ入り込んでくるという仕組みそのものが、事故が起こる原因なのだ。
それではなぜ、横断歩道の信号が青の時に、車がそこへ入り込むような仕組みを考えたのか、というと、それはそうしなければ車が渋滞して、交通マヒが起こるから、というのが、その理由であろう。
つまり、人命を最優先するのでなく、車がスムーズに通行できるように考えた結果の法規だ、ということになるのである。

道路交通法規は、あくまでも人命優先の思想で作られなければならない。その結果、車の通行が渋滞をきたす、というのなら、その渋滞をどう解決するかを考えるべきなのである。車が渋滞するのは、社会的に経済的に問題だから、車のスムーズな運行のためには、危険を伴うけれども、青信号で横断歩道を渡っているときでも、車がそこを横切ってもいいことにしよう、と考えた、そこが問題だ、と閻魔大王は言うのである。また、歩行者が一人もいないときに、横断歩道の信号が青になっている無駄などは、少し考えれば解決する些細な問題だ、とも大王は指摘した。

男は、自分は日本経済の発展のことを考えれば、車の渋滞による時間のロスは、なんとしてでもなくさなければならないと考えて、日本のためを思ってあの法規を作ったのだ、しかも、歩行者が横断している時は車はその歩行を妨げてはならない、と歩行者の安全もきちんと規定してある、と主張したようであるが、そんな理屈は閻魔大王には通らないようで、「人命をなんと考えているのか!」と一喝した閻魔大王が木槌を強く叩いた音で、目が覚めた。

       *  *  *  *  *  *  *  * 

今時、夢の中とはいえ閻魔大王が姿を現すというのも、いささか時代錯誤の感がないでもないが、考えてみれば、この問題はこの男一人だけの責任ではないと思えるし、男がこの件で罪に問われるのは気の毒だとも思えるのであるが、さて、どうすればいいのだろうか。

下界の我々の社会では、今も青の横断歩道を車が自由に横切っているのである。



あめんぼのような蜘蛛

2010-05-04 11:46:00 | インポート
洗面所の白い壁の天井の隅に、
あめんぼのような蜘蛛が一匹、
宙に浮いたように巣を張っている。
壁が白いので、蜘蛛の糸が見えないのだ。

お前はそんなところに巣を張っていても、
季節はまだ蚊が出るには早いし、
餌になるような虫は飛んで来ないぞ。
窓には網戸がついているから、
そそっかしい虫が外から飛び込んでくることもない。

お前の親も、きっと、
蚊や蠅の多かったあの時代を、
昔はよかった、と懐かしんでいたであろうが、
お前は、
虫たちが豊かに暮らしていた、あの時代を知るまい。

それはともかく、
一週間、……二週間、いやもしかしたら一カ月以上も、
お前はずっと食事をしていないのではないか?
そんなところにじっとしていたって、
虫が飛んでくる気配はないぞ。

いくら辛抱強い蜘蛛でも、
きっとそろそろ空腹の限界に来ているに違いない、
いや、このままでは、
蜘蛛は飢え死にしてしまうのではないか、
と心配した私は、
この、あめんぼみたいな、ほっそりした蜘蛛の、
餌になるような虫はいないかと、
裏庭に出てみたが、
夏にでもなれば、忽ち寄ってくる藪蚊も、
まるで姿を見せないのだ。

幸い、小さな蠅のような虫が、
春の夕方の光の中で、数匹、
飛びまわっていたのを、
やっとのことで、一匹、
手で叩き取って、
それを大事に掌に載せて洗面所へやってきた。

さて、どうやってこの小さな虫を
あの高い蜘蛛の巣へ
ひっかけたものだろうか。

踏み台を持って来て、それに乗って、
蜘蛛の巣のあるあたりを目がけて
小さな虫を投げ上げてみたが、
そうそううまくはいかない。
虫は、空しく落ちてしまう。
数回やってみても、
見えない蜘蛛の糸は、虫を捉えない。

男が踏み台に乗って、
自分を目がけて腕を振るっているのを見た蜘蛛は、
男が自分を威嚇しているものとでも思ったのか、
突然、激しく身を揺すり始めた。
蜘蛛は、まさか男が自分のひもじさを憐れんで
餌を与えようとしているのだとは、
思いも寄らないのであろう。

男の投げた虫が、
やっとのことで蜘蛛の糸に引っ掛かって、
蜘蛛の少し脇にとまった。
男が踏み台から下りて少し離れたのを見た蜘蛛は、
やっとその激しい動きをとめたが、
しばらくは、じっとして動こうとしなかった。

私は、虫が動かないので、彼が(彼女かも知れないが)
それに気がつかないのだろうと、
虫を動かしてやろうと、
虫を目がけて、ふうっと息を吹きかけてみたが、
息は、天井の隅まではとても届かない。

仕方なく、そのまま様子を見ていたが、
蜘蛛のほうでも、きっと
自分の傍らにとまった虫の
様子を窺っていたのであろう、
虫は全く動かないけれども、
自分の餌になる虫だと認めて、そのほうへ近づいて、
細長い、か細い手で虫をとらえた。
しめしめ、うまくいった、と
私は安心した。

しばらくして、
蜘蛛は元の姿勢に戻ったが、
虫はどうしたのか、
食べかすらしいものが、見当たらない。
蜘蛛はふつう、食べた残りかすを下へ落とすものだが、
彼は食べかすを落とした様子がない。
虫をうまくとらえて食べた、と思ったのだが、
私の気づかないうちに、
彼は食べずに下へ落としてしまったのであろうか。
しかし、蜘蛛は平然と元の姿勢を保っている。

まあ、彼は食べたに違いない。心持ち、
あの細い胴体が少し膨らんでいる気がしないでもない。
私は、そう思ってその場を離れた。

二、三日して、
たまたま飛んできた冬越しの蚊を一匹捉えた私は、
再び蜘蛛に餌を与えようと、踏み台を使って、
蜘蛛を目がけて蚊を投げ上げた。
しかし、小さく、弱々しい蚊は、
数回、投げては拾い、拾っては投げしているうちに、
つぶれたようになってしまい、
とうとう蜘蛛の餌にはならなかった。

その次の日、洗面所の天井の隅に、
蜘蛛の姿はなかった。
男が、自分がここに巣くっているのを喜ばず、
たびたび腕を振るって威嚇する、とでも考えた彼は、
どこか安全な場所を探して引っ越してしまったのであろう。
あたりを見回してみたが、隣の部屋の天井にも、
あの、あめんぼのような蜘蛛の姿は見当たらなかった。

私の善意は、結局、蜘蛛には伝わらなかったが、
野生の生き物である蜘蛛にしてみれば、
おのれの生命を全うするためには、
それは止むを得ぬ行動だったのであろう。

とはいっても、
私にとっては、
それは少し残念な、少し寂しいことであった。