老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

浅間山の小噴火

2009-02-03 12:05:00 | インポート
平成21年2月2日未明、浅間山が小噴火した、と新聞が報じました。
浅間の小噴火と聞くと、思い出すのが、立原道造の「はじめてのものに」という詩です。

        はじめてのものに

   ささやかな地異は そのかたみに
   灰を降らした この村に ひとしきり
   灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
   樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

   その夜 月は明かつたが 私はひとと
   窓に凭れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
   部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
   よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

   ──人の心を知ることは……人の心とは……
   私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
   把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

   いかな日にみねに灰の煙の立ち初めたか
   火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
   その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

関良一氏の注釈によると、この詩に歌われた「ささやかな地異」とは、昭和10年8月上旬から中旬にかけての浅間山の小爆発で、同月18日には、信濃追分に灰が降ったそうです。
道造は8月19日付の津村信夫宛の書簡に、「追分に火山灰が降り、今日、村を歩くと足はすつかり砂にまみれてしまひました。屋根は灰に蔽はれくらい色をしてゐます。かなしい気持もします」と書いているそうです。
さて、久しぶりにシュトルムの『みずうみ』でも読んでみましょうか。


(注) 詩中の「明かつたが」は、「あかかったが」と読むのだ、と杉浦明平氏が岩波文庫でルビを付けておられます。理由は、立原がそう読んでいたからだ、ということのようです。それで、私も「そのよ つきはあかかったが」と読んでいます。