老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(2)

2009-09-15 19:48:34 | 日記

シュトルムは最近はあまりはやらないのか、文庫本の『みずうみ』を本屋で見かけることがない。
図書館に行って、『みずうみ』の “Noch kein Licht ! ”の訳に当たってみた。すると、大雑把に言って、次の3つに分けられそうである。

1.「明かりはまだかね!」と催促するもの。
  関  泰祐 訳 (岩波文庫『改訳 みずうみ 他4編』1953年 「燈火(あかり)はまだかね!」)
  川崎芳隆 訳 (思索選書『みづうみ』思索社、1949年 「灯(ひ)はまだかね!」)※
  岡本修助 訳 (シュトルム選集『湖畔 他4篇』郁文堂書店、1947年 「まだ、明りをつけないのかね!」)
  ※ 潮文庫(1971年・昭和46年)の川崎芳隆氏の訳では、「あかりはまだいい!」という訳になっているそうです(新潟大学の三浦淳先生のご教示による)。

2、「明かりはまだいらないよ!」と断るもの。
  高橋義孝 訳 (新潮文庫『みずうみ』1953年 「あかりはまだいい」)
  小塩  節 訳 (『ドイツの文学 第12巻』三修社、1966年 「まだ明(あ)かりはいらないよ!」)
  石丸静雄 訳 (旺文社文庫『みずうみ・三色すみれ 他1編』1968年 「まだ明(あか)りはいらないよ!」)
  田中宏幸(訳) (『シュトルム文学研究 日本シュトルム協会設立10周年記念論文集』1993年 所載の「『みずうみ』を読む」という文章の中に、 「まだ明りはいらないよ」とある。)
  加藤丈雄(訳) (『シュトルム・回想と空間の詩学』2006年 の中の文章に、「ドア越しの二人の間には、明りはまだいらないという老人の一言が発せられるだけで」とある。)

3.「まだ明かりはつけないのだね!」と確認する、中間的なもの。
  植田敏郎 訳 (世界の名作文学10 『みずうみ』岩崎書店、1975年 「まだあかりはつけないのだね!」)

さて、シュトルムはどういう意味でここを書いたのであろうか。まさか、お好きなようにお取りください、というわけでもないだろうから、このうちのどれかが適切な訳なのであろう。
この老人(ラインハルト)と家政婦との親密度(普段の親しみの度合い)や、老人の帰宅したときの心持ちなどを考えて、あとはこの言葉 “Noch kein Licht ! ” をどう解釈するか、ということになるのかと思う。

シュトルムの『みずうみ』は、かつては旧制高校あたりでドイツ語の学習教材としてよく読まれた作品だと思うので、この言葉の解釈については既にけりが付いているのかも知れない。ご存じの方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。

    *  *  *  *  *

今日、『新潟大学・三浦淳研究室』というサイトの「音楽雑記2008年(2)」の8月8日(金)のところに、次のような文があることに気がつきました。(2009年9月16日)(なお、三浦先生の新しいブログは『隗より始めよ・三浦淳のブログ』です。)

 例えば冒頭近く、老人となったラインハルトが夕刻に散歩から帰宅して、玄関を入ったところで家政婦が顔をのぞかせたとき、「灯りはまだいい!」と指示するのだが、ここが関泰祐訳だとどういうわけか「灯りはまだかね?」となっている。まるで逆の訳をつけているわけだ。(原文は“Noch kein Licht!” sagte er ……) 

やはり、三浦先生がおっしゃるように、「灯りはまだいい!」「明かりはまだいらないよ!」と訳すのが正しいようですね。
どうして長い間、適切でない訳が訂正されないで読み続けられてきたのでしょうか。不思議な気がいたします。


→ 翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(3)   

 


翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(1)

2009-09-12 13:47:00 | インポート

シュトルムの名作『みずうみ』の冒頭近くに、年老いたラインハルトが夕方の散歩から帰ってきて、玄関のわきの部屋の覗き窓から顔をのぞかせた家政婦に、
「明かりはまだいい」
と言うところがある。
手元にある新潮文庫の高橋義孝訳『みずうみ』(昭和28年8月31日発行、昭和42年5月30日26刷改版、昭和46年10月20日33刷)から引いてみる。

 ある晩秋の午後、身なりのきちんとした老人が一人、ゆっくりと道を下って行った。散歩を終えて帰るところらしい。昔はやった止め金つきの靴が埃(ほこり)をかぶっている。金の握りのついた長い籐(とう)のステッキをかかえている。(中略)老人はやがて破風(はふ)作りの高い家の前に立ち止まり、もう一度街の方を見やってから玄関に入って行った。玄関の鐘が鳴ると、わきの部屋の、玄関に向った覗き窓の緑のカーテンが掲げられ、年寄った家政婦の顔がさしのぞいた。老人は籐のステッキをあげて合図した。「あかりはまだいい」言葉には多少南の訛(なまり)がある。家政婦はカーテンを元に戻した。老人は広い玄関を通って、(中略)二階のドアを開き、ほどよい大きさの一室に入った。(中略)──老人は、帽子とステッキとを部屋の片隅に置いて、肱掛椅子に腰を下ろした。両手を組んで、散歩の疲れを癒(いや)そうとする風である。──その間、あたりの夕闇は色を濃くして行った。ついに月かげが窓ガラス越しに壁の絵の上に落ちた。明るい少しずつゆっくりと動いて行く月光を、老人はわれ知らず追っていた。と、飾りけのない黒い額縁に入った小さな肖像画が照らしだされた。「エリーザベト」と、老人が低く呟(つぶや)く。この呟きとともに時代が一転する。老人はいながらに幼い日々へとたち帰って行く。

この部分が、手元の岩波文庫の関泰祐訳『改訳 みずうみ 他4篇』(昭和28年2月25日第1刷発行、昭和34年1月10日第11刷発行)では、次のようになっている。

 晩秋のある午後のこと、みなりの立派なひとりの老人が、ゆっくり往来を下りていった。散歩のかえりと見えて、流行おくれの締め金つきの靴は埃にまみれており、金の握りのついた長い籐のステッキを小脇にかかえている。(中略)ついに彼は、とある高い破風造りの家のまえに立ちどまって、もう一度町をながめ、それから玄関へ入っていった。戸口のベルを鳴らすと、内側の部屋の、玄関に面した覗き窓の緑色のカーテンをわきへ押しのけて、そのうしろから婆やが顔をのぞかせた。男は籐のステッキをあげて彼女に合図をした。そして、
 「燈火(あかり)はまだかね!」
とやや南方的なアクセントで言った。家政婦はカーテンをもとのように下ろした。
 老人はやがて広い玄関を通り、(中略)二階のとあるドアをあけ、小ぢんまりとした一室に入った。(中略)老人は帽子とステッキを部屋の隅におくと、その肱掛椅子に腰をおろして、両手を組合せ、散歩のつかれを休めるように見えた。──こうして彼が腰かけているうちに、あたりは次第に暗くなって、ついに月光が窓ガラス越しに壁の画の上におちた。そしてその明るい一条の光がゆっくり動いてゆくにつれて、老人の眼は覚えずそのあとを追ったが、いまやそれが、黒い地味な額縁にはまった小さな肖像画を照らしたとき、
  「エリーザベト!」
と低くささやいた。彼がこの言葉を口にすると、たちまち時代は一転して──彼は少年の日の昔にかえった。


「あかりはまだいい」のところが、 「燈火(あかり)はまだかね!」となっている。つまり、前者は明かりを断っているのに対して、後者は明かりを催促しているようになっている。

ドイツ語ではどうなっているかをネットで調べてみると、“Immensee”の原文では、ここが、
  “Noch kein Licht ! ”
となっているようだ。ドイツ語をやったことのない私にはこれを見てもさっぱり分からないが、以前に見た英訳本には、
  “No light yet ! ”
となっていたように思う。この英訳は、「明かりはまだいい!」と言っているとみて訳しているのだろう。

ラインハルトが回想に耽っている間にも、家政婦は明かりを持って来ていないところから考えると、ここは「明かりはまだいい!」と取るのが適切なのではないかと思うが、どうだろうか。回想が終わって再び現実に戻る小説の末尾を、関泰祐氏の訳で掲げてみる。

 月光はもはや窓ガラスの中に差しこまず、部屋は暗くなっていた。しかし、老人は相変らず掌(て)を組合せたまま肱掛椅子に腰かけて、ぼんやり部屋のなかを見つめていた。すると、彼をつつんでいる薄闇が次第に眼のまえから消えて、暗い広々とした湖に変った。やがて黒い湖が、一つは一つよりいよいよ深く、いよいよ遠く、次から次へと現われた。そして老人の眼もとどかぬほど遥かな最後の湖上に、広葉につつまれて一つさびしく白い睡蓮が浮んでいた。
 部屋のドアがあいて、あかりが部屋の中にさしこんだ。
 「よい時に来てくれた、ブリギッテ」と、老人は言った。「燈火(あかり)は机の上においておくれ」
 それから、彼はまた椅子を机のところに引きよせて、開かれていた書物の一冊をとりあげ、曾て青春の力をそれにそそいだ研究にふけった。


岩波文庫の編集部で、ここを「燈火(あかり)はまだかね!」として出し続けているところを見ると、こういう訳も可能であるのかとも思う。あるいは、この訳の方が正しいのであろうか。
ここを、別の訳者がどう訳しているかを、そのうち調べてみたいと思っている。

──こんなことを考えたことがある。
外国のある作品、例えばこのシュトルムの『みずうみ』でも、ジイドの『狭き門』でも、テニソンの『イノック・アーデン』でも、サン・テグジュペリの『星の王子様』でも何でもいいが、誰かが、「あの本を翻訳で読みたいが、誰の訳がいいだろう」と言ったときに、誰もが、
 「あの本なら、そりゃあ何といっても○○の訳だよ」
と言って名前をあげる訳を、1冊だけでもいいから訳したいものだ、ということである。

もちろん、自分にはそんな実力はまるでないのだから、これは全くの空想でしかないのだが、もしどこかの国の言葉をマスターしてそういうことができたら、どんなにかいいだろう、と考えたのであった。
翻訳についての私の思いである。


  → 翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(2)




『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(4)

2009-09-08 16:28:00 | インポート
さて、「少年時代」という題で前記の教科書に採られた本文の出典は、岩波文庫本『フランクリン自伝』(松本慎一・西川正身訳、1957(昭和32)年1月7日第1刷発行、1961(昭和36)年8月20日第6刷発行)である。
以下は想像であるが、この訳文が誤訳ではないかという指摘を受けた教科書会社では、驚いて直ちに岩波書店に連絡をとって確認作業を行うとともに、次年度から教材の差し替えを行う措置を講じたことであろうと思われる。

翻訳に誤りはつきものであるから、誤訳があったからといってどうということはないが、たまたまそれが教科書に採られたために、影響は少なくなかっただろうと思う。尤も、この誤りに気づいた人はほとんどいなかったと思われるから、それほど大きな騒ぎにはならなかったようである。しかしだからといって、そのまま頬かむりをして済ませてしまっていいというものではあるまいと思う。

岩波文庫で、いつその部分を改訂したかは調べてないが、1957(昭和32)年1月7日第1刷発行、1987(昭和62)年7月15日第38刷発行の岩波文庫の本文は、正しく改訂されている。比較する意味で、教科書の文章と並べて、あげておこう。

(教科書の本文=岩波文庫第8刷の本文)
ところで、この行を彼は別の行と並べているが、それはあまり適当ではないようで、むしろ次の行と並べたほうがよかったのではないかと思う。

(岩波文庫第38刷の本文)
ところで、この一行は、次に引用する一行、つまり、彼があまり適当でない別の一行と対句(ついく)にしている、次の一行と並べたほうが、むしろよかったのではないかと思う。(同書、30頁)
 
 ※ 問題の個所の原文を、再掲しておく。

  “To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
And he might have coupled with this line that which he has coupled with another, I think, less properly, 
  “For want of modesty is want of sense.”


──以上は、ある出版社の教科書に「少年時代」という題でフランクリンの自伝が掲載されたおかげで、岩波文庫『フランクリン自伝』の本文の誤りが訂正された、という話である。

             *   *   *   *   *   *   *   *

《付言》
ついでに、ポープの引用について、岩波文庫第38刷から注を引かせていただく。

(注1)ポープ=1688-1744、英国の詩人、古典主義の詩人として著名。次の引用は詩論『批評について』より。ただし、正確な引用ではない。(「次の引用」とは、「人にものを教えるには、教えているような風をしてはならない、/ その人の知らぬことでも、忘れたことのように言い出さねばならない。」の2行をさす。)

(注2)  不遜な言葉には弁護の余地がない、
      謙遜が足りないのは分別が足りないのだという以外には。
この二行はじつはポープからの引用ではなく、彼の先輩ウェントワース・ディロン(1633?-85)の詩である。


(引用者注)
この(注2)は、
   (A) 不遜な言葉には弁護の余地がない、
      謙遜が足りないのは分別が足りないのだという以外には。
という、フランクリンが書き直したものに付けるのではなく、
   (B) 不遜な言葉には弁護の余地がない、
      謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。
という、フランクリンが書き直す前の形のものに付けるべきではないだろうか。

それはともかく、参考までにこの2行の原文を引用しておく。

   (A) Immodest words admit but this defense,
      That want of modesty is want of sense.
   (B) Immodest words admit of no defense,
       For want of modesty is want of sense.


○ フリー百科事典『ウィキペディア』に、「ベンジャミン・フランクリン」の項目があります。
○ 岩波文庫第8刷の発行年は昭和37年9月20日、第38刷の発行年は1987(昭和62)年7月15日です。
○ ついでに教科書の発行年も挙げておきますと、昭和39年1月20日発行です。
○ 岩波文庫巻末にある訳者・松本慎一氏の「解説」によれば、『フランクリン自伝』の版本としては、ハーヴァード大学の史学教授で後に総長となった有名な伝記学者スパークスが1836-40年に『フランクリン全集』10巻を出版、この中に収められている自伝がいわゆるスパークス本で、最も権威あるものとされ、多くの自伝はこれによっている由です。そして、フランクリンの原稿にはもともと章分けはないそうですが、読者の便宜のためにスパークスが全編を12章に分けたのだそうで、岩波文庫の各章の題名(第1章は「少年時代」)は訳者(松本慎一氏)が選んでつけたものだそうです。
松本氏が訳された『フランクリン自伝』の訂正補筆する仕事を依頼された西川正身氏は、テキストとしてスマイズ Albert Henry Smyth が1905-7年に編集出版した『フランクリン著作集』所収のもの(スマイズ版)を使うことにした、と「あとがき」に書いておられます。詳しくは文庫巻末の「あとがき」を参照してください。



『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(3)

2009-09-07 11:33:00 | インポート

ここで、明治時代に翻訳出版された『フランクリン自伝』を見ておきたい。この本は、国立国会図書館の『国立国会図書館デジタルコレクション』に収められている、深澤由次郎譯『フランクリン自傳講譯 上巻』(静寿館、明治30年11月8日発行)である。
本文の該当部分を引いておく。(映像の26-27 / 76)

善い哉ポープの言、曰く、
  「人を敎ゆるに當りては、恰も敎へざるが如くになさゞる可からず、又、人の知らぬことを言ひ出でんには、その人の忘れたる事の如くにせざるべからず」
と、彼れまた吾人に勸めて曰く、
  「確かに知るも疑あるらしく(スーミング)語るべし」
と、而してポープは左の句をばこの句を對(つい)せしむるこそ當然なるべきに他の句と對(つい)せしめたるは較や當を得ざるものと思はる、曰く、
  「蓋し不遜は思慮なきの致す所なり」
と、
汝もし、何故當を失せりやと問はゞ、余は下の行を繰り返へさゞる可らず、[見よ、この前の一句と后の一句と稍や相照應せざるにあらずや]曰く、
  「不遜の語は辯護を容さゞるなり、
   蓋し不遜は思慮なきの致す所なればなり」
と、
扨て、思慮なきは(人若し不幸にして之れを缺く塲合には)却て不遜の辯解となるにはあらざるか。されば、斯く修正する方更に正しきものとならざる乎。
  「不遜の語は唯々此辯護をのみ容るす、
   曰く謙遜なきは思慮なきなり」
と。
さは云へ、この説の當否は、われより優れる判斷に任せんのみ。
 (三十八~四十頁)

問題の部分は、次のような訳になっている。

彼れまた吾人に勸めて曰く、
  「確かに知るも疑あるらしく(スーミング)語るべし」
と、而してポープは左の句をばこの句を對(つい)せしむるこそ當然なるべきに他の句と對(つい)せしめたるは較や當を得ざるものと思はる、曰く、
  「蓋し不遜は思慮なきの致す所なり」
と、


やはり、深澤氏の訳も、「左の句をば……他の句と對(つい)せしめたるは較や當を得ざるものと思はる」となっている。この部分が教科書では、「この行を彼は別の行と並べているが、それはあまり適当ではないようで、(むしろ次の行と並べたほうがよかったのではないかと思う)」という訳になっているのである。 

 
『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(4) 




『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(2)

2009-09-06 12:55:00 | インポート

問題の答えは、どうなったであろうか。おそらく、

  この行=確かなことでも確信なげに話せ。
  別の行=不遜なことばには弁護の余地がない。
  次の行=謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。


という答えになったであろうと思う。

ところで、問題はその先である。筆者フランクリンが「あまり適当でない」と思われるという並べ方で「彼」が並べた2行というのは、「この行」と「別の行」の2行であるから、その2行は、

(A) 確かなことでも確信なげに話せ。
   不遜なことばには弁護の余地がない。

だということになる。
この並べ方が「なぜあまり適当でないか」というと、「もとの二行をあげてみればわかる」と言って筆者があげたのは、次の2行である。

(B) 不遜なことばには弁護の余地がない、
   謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。

筆者フランクリンが「あまり適当でない」と思われると言う並べ方で「彼」が並べた2行(A)と、「もとの二行をあげてみればわかる」という「もとの二行」(B)とが、食い違ってしまうではないか。

一体、なにがおかしいのであろうか。

      *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

そこで、原文に当たって、この部分がどうなっているかを確認してみなければなるまい。今、“A PSU Electronic Classics Series Publication”というサイトから、“The Autobiography of Benjamin Franklin”の一節を
引用させていただく。

Pope says, judiciously:
  “Men should be taught as if you taught them not,
   And things unknown propos’d as things forgot;”
farther recommending to us
  “To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
And he might have coupled with this line that which he has coupled
with another, I think, less properly,
  “For want of modesty is want of sense.”
If you ask, Why less properly? I must repeat the lines,
  “Immodest words admit of no defense,
   For want of modesty is want of sense.”
Now, is not want of sense (where a man is so unfortunate as to want it)
some apology for his want of modesty? and would not the lines stand
more justly thus?
  “Immodest words admit but this defense,
   That want of modesty is want of sense.”
This, however, I should submit to better judgments.


問題の個所は、次の4行である。

  “To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
And he might have coupled with this line that which he has coupled
with another, I think, less properly,
   “For want of modesty is want of sense.”


この“this line” と“that” が何を指しているかが問題であるが、この部分を訳者はどうして「この行を彼は別の行と並べているが、それはあまり適当でないようで、むしろ次の行と並べたほうがよかったのではないかと思う」と訳したのであろうか。
ここは、「次の行を彼は別の行と並べているが、それはあまり適当でないようで、むしろこの行と並べたほうがよかったのではないかと思う」と訳すべきところではないか。つまり、筆者フランクリンは、

  彼(ポープ)は、
    不遜なことばには弁護の余地がない、(「別の行」)
    謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。(「次の行」)    
  と並べているが、これはあまり適当ではないようで、むしろ、
    確かなことでも確信なげに話せ。(「この行」)
    謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。(「次の行」) 
  と並べたほうがよかったと思う。


と言っている(書いている)のである。

私の理解では、
  “this line” =この行=“To speak, tho’sure, with seeming diffidence.”
         =確かなことでも確信なげに話せ。
  “that” =次の行= “For want of modesty is want of sense.”
       =謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。 

ということなのだろうと思うのである。 

そうすれば、「もとの二行」が   
    不遜なことばには弁護の余地がない、(「別の行」)
    謙遜が足りないのは分別が足りないのだから。(「次の行」)
であるから、矛盾は起こらないことになる。

念のために別の訳者による本文を見てみると、次のようになっている。
<『世界の名著 33』(中央公論社、昭和45年10月31日初版発行)所収の渡辺利雄訳「フランクリン自伝」>

 さらにまた彼は、

   自信をもっていても、外見は自信がないように話すことだ。

と勧めている。そして彼は、この一行を、

   謙遜の不足は良識の不足によるものだから。

という一行とならべて対句にすればよかったのだ。
 ところが彼は、それとは違う、そして私には適切だとは思われない一行とならべて対句にしてしまったのである。なぜ、それがあまり適切でないかと質問をする人には、もとの二行、つまり、

   不遜な言葉には弁明の余地は認められない、
   謙遜の不足は良識の不足によるものだから。 

という二行を引用するほかないだろう。(同書、89頁) 
 

つまり、この教科書が依拠した訳本が訳を誤っていたのを、教科書の編者が見落としたまま、教科書に掲載してしまったということであろう。それで、読んでも意味が通じない矛盾した文章になってしまったのである。

この教科書が依拠した訳本については、改めて触れたいと思う。


 『フランクリン自伝』の「少年時代」の一節について(3)