先日、前にも書いた洗面所の白壁の天井に、再び、身体も手足も細い、4センチほどの小さな蜘蛛が巣をかけていた。身体の細い蜘蛛のかける巣だから、うす暗い天井では糸がまるで目に見えない。ほっそりした蜘蛛が壁近くの空間に浮いているように見える。
最近は蚊はいないし、虫もほとんど見かけないのに、またどうしてこんなところに巣をかけたのであろうか。
蚊がつかまえられれば、巣に投げかけて餌としてあげてもいいのだが、このごろは藪蚊もほとんど姿を見せないし、代わりに蜘蛛の餌になるようなものも思いつかないから、蜘蛛を助けてやるわけにもいかない。
辛抱強い蜘蛛は、数週間ほど(一時、近くに場所を移したようだったが)その場所でじっとしていたが、ふと気がつくと、姿が見えなくなっていた。この場所を諦めてどこか他の場所へ引っ越したのか、それとも、──まさか餓死してしまったわけではあるまい。
蜘蛛は、こんなところに自分を産んだ親を恨むでもなく、人間が自分たちの暮らしを快適にするために、蜘蛛などの餌になる蚊や蠅その他の虫を駆除してしまったことを抗議するでもなく、ただ運命を素直に受け入れて、運命のなすがままに生き、そして死んで行くのである。
与えられた運命をそのまま素直に受け入れて生きて行くその生き方を愚かと見るか、あわれと見るか、はたまた、悟りを得た聖人に近い優れた生き方と見るか。
少なくとも人間は、おのれに与えられた運命に逆らってでも、自分たちの考える理想の生き方を求めて、たとえ他の生命を滅ぼすことがあってもそれは止むを得ないこととして、どこまでも突き進んでいくのであろう。
もし、神がいるとして、神はそういう人間を予想して、人間を、そしてこの世界を創造したのであろうか。
蚊や蠅、そして家蚤、昔は普通にどこの家にもいたこれらの虫たちが姿を消して、我々の生活は随分快適になったが、一方で、それらがいなくなったことで失われた何かも、きっとあるのだろうという気がする。