老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

黙祷の意味(目をつぶるか、つぶらないか)

2015-03-15 16:23:45 | インポート
3月11日、東日本大震災から4年目を迎え、全国各地で追悼式典が開かれた。
新聞によれば、「政府主催の追悼式には、天皇、皇后両陛下をはじめ、安倍首相ら三権の長、遺族代表ら約1120人が参列。地震発生時刻の午後2時46分、全員で默とうした」という。

この日は、全国で多くの人が、震災の犠牲者を悼んで黙祷を捧げたと思われる。
新聞には、震災被害状況が、死者1万5891人 うち、身元不明者83人。(3月11日現在、警察庁まとめ)、行方不明2584人(同)、震災関連死(岩手、宮城、福島)3222人(2月末現在、3県まとめ)、2月12日現在の避難者22万8863人、とある。
避難者の中には、震災によるものだけでなく、福島第一原発の事故による避難者が多く含まれているのだろう。避難者が、4年たってもまだこんなに多くいるとは、驚きである。今もって故郷へ戻れない人の苦悩は、どれほどのものであろうか。

ところで、ここで取り上げたいのは、「黙祷」の意味である。
文字通りに解すれば、「言葉を発せず、心の中で祈ること」という意味になるであろう。それはいいとして、その場合、目は閉じるのか、閉じなくてもいいものなのか。
黙祷の場合、自分としては、少し頭を垂れて、目を閉じて、心の中で祈る、というふうにして来たが、手元の辞書を調べてみると、その説明は次のようになっている。

(A)
 無言のまま、心の中で祈祷すること。(『現代国語例解辞典』小学館、昭和60年) 
 [軽く頭を下げた姿勢で]声を出さずに心の中で祈ること。(『学研現代新国語辞典』1994年)
 無言で祈ること。(『改訂新版 漢字源』学研、2002年)
 無言のまま心の中で祈ること。(『明鏡国語辞典』大修館書店、2002年)
 無言のまま、心の中で祈祷すること。(『広辞苑』岩波書店・第6版、『日本国語大辞典』[縮刷版]小学館・昭和51年)
(B)
 (死んだ人の安らかな眠りを願って)無言のまま、しばらく目をつぶること。(『新明解国語辞典』第3版)
 死者のために目をつぶり無言で祈ること。(『旺文社国語辞典』改訂新版1986年)

辞書には、目をつぶるかどうか、について、
 (A)「目をつぶる」と特に断らないもの。
 (B)「目をつぶる」とするもの。
の二種類の説明があることが分かる。

黙祷とは、その文字からいって、「声を出さずに心の中で祈る」というのが本来の意味であるから、目をつぶるかつぶらないかは、本質的な問題ではないのであろう。

黙祷をする人の中には、「もくとう」の「もく」が「黙」であることにうっかりして、「もく」から「目」を連想して、黙祷のときは目を閉じるものだ、と考えて目を閉じている人も多いのではなかろうか。

普通、人は祈る場合には目を閉じるのが自然であると思われるので、目を閉じると断っていない辞書も、祈る場合に目を閉じることを予想しているようにも思われるのだが。



東日本大震災から4年がたった

2015-03-14 12:37:00 | インポート
未曾有の災害をもたらした東日本大震災から4年がたって、3月11日には各地で追悼の祈りが捧げられた。

東日本大震災では、津波の恐ろしさを改めて思い知らされた。それまで津波は、大きな波が次々にザブンザブンと襲いかかって来るものと考えていたが、そうではなかった。盛り上がった海が、ある高さを保ったまま、じわりじわりと押し寄せて来るのであった。しかもその大量の海水が、次々にすべてのものを破壊して押し流すのである。無言のまま、静かに、しかも物凄いエネルギーで車や家やその他もろもろのものを押し流す姿は、不気味というか何というか、自然の脅威をまざまざと見せつけられる思いであった。

地震の被害だけでも大変であるが、これに原発の事故による放射能の被害が加わって、これがまた今後数十年にわたって影響を受け続けるというのだから、穏やかでない。福島県の風評被害だけでなく、近隣の県の農産物、海産物にまで、4年経ったいまでも風評被害が残っている。農作物ばかりでなく、野山のわらびやぜんまいなどの山菜も、果たして食べても大丈夫なのかと躊躇する有様である。

地下水が汚染されて大量にたまって、その処理に困難をきたしているうえに、汚染された水が知らないうちに海へ流れ出ていたということが、判明したりしている。

福島の原発が事故を起こす前までは、原子力発電所は絶対に安全だ、というキャンペーンが声高に繰り返されていたが、今や原発の事故は想定内のものとなってしまった。もし事故が起きた時は、半径30キロ以内の住民は避難しなければならない、ということになって、該当する自治体は、そのための避難計画を立てなければならないそうである。場所によっては、それこそ大混乱を「想定」しなければならないであろう。「私は避難しないよ」と言ってがんばっても、強制的に避難させられてしまうのであろうか。

わが国は地震国である。狭い日本で、地震によって原発が事故を起こす危険が想定されるにもかかわらず、なお原発に頼ろうとする人々がいまだにいるのは、どうしてであろうか。やはり人間は、自分が実際にその場に身を置いてみなければ、実感できないものなのであろう。汚染が除去されたので戻っていいですよ、と言われても、一度避難しなければならないほどに汚染された場所に、放射能を除去したからといって、子どもを連れて戻る気になれないのではないだろうかと思う。

いまだに避難生活を強いられている多くの人たちが、一刻も早く、落ち着いた生活に戻られることを願ってやまない。