老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

ご挨拶

2030-01-01 00:00:00 | 日記

今まで利用していたBIGLOBEウェブリブログが、2023年1月31日をもってサービスを終了することになりましたので、この度こちらに引っ越してまいりました。
これまでの記事をこちらに移転しましたので、書式が変わり表記が乱れている所やリンクの切れている所があるかもしれませんが、できるだけ手直しをしたいと考えています。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2022年10月1日

『老人(としより)の目』管理人より


イスラエルとパレスチナの確執ーNHKの「けさの ”聞きたい”」から

2024-04-17 19:45:54 | 日記

 イスラエルとパレスチナはこの先地球上で共存できるのか、誠に疑わしい様相を呈している。
 それにしても、やられたら徹底的にやり返すイスラエルの姿勢は異常とも思えるほどである。相手を殴っておいて、相手が報復だと言って殴り返してきたら、それを絶対に許さないで相手を殲滅するまでやり返す、というのである。その異常とも思える考え方は、どこから来ているのだろうか。
 このことについて、2024年4月15日のNHKラジオ「マイあさ!」の「けさの ”聞きたい”」で、出川展恒(のぶひさ)解説委員が次のように解説していたのが大変参考になるので紹介したい。
 「攻撃されたら、何十倍にしても報復する。これはこれまで繰り返されて来たイスラエルの安全保障の考え方です。そのイスラエル流の安全保障の考え方は、どこから出て来るのでしょうか。
 それはイスラエル、そしてユダヤ人が辿って来た歴史的な背景だと思います。とりわけ、第二次世界大戦中、600万人が犠牲になったとされるナチスドイツによるユダヤ人の大量虐殺、ホロコーストです。更に、1948年にイスラエルが建国を宣言すると、その翌日にアラブ諸国が攻め込んで戦争になりました。ホロコーストが起きたとき、国際社会は誰も助けてくれなかった。自分たちは常に絶滅させられる脅威にさらされている。生き残るためには自らの力で防衛しなければならない。敵を徹底的に打ちのめさなければ、自分たちがやられてしまう。民間人が犠牲になっても、国際法違反でも構わない。
 去年10月から半年以上も続いているハマスとの戦闘でも、こうした理窟や行動が窺えます。ですから、パレスチナの子どもたちがどれほど犠牲になろうとも意に介さない。そういうことが起きてしまうわけです。(中略)
 今回の危機の大本にあるのは、ガザ地区で続くイスラエルとハマスとの戦闘であり、そして未解決のまま放置されて来たパレスチナ問題です。実はこのイスラム革命後のイランとイスラエルの激しい敵対関係というのは、イスラエルによるパレスチナの占領に端を発しています。国際社会は一日も早くガザの戦闘に終止符を打って、今度こそパレスチナ問題の解決に真剣に取り組む必要があると考えます。」

 ホロコーストが起きたとき、国際社会は犠牲になるユダヤ人を助けようとしなかった、ということ。イスラエルによる理不尽なパレスチナの占領がパレスチナの人々を苦しめているのに、国際社会は真剣にそのことを考えて解決しようとしなかった、ということ。これらのことが、問題の根本にあるということである。
 とは言え、現在イスラエルによって行われているガザ地区への無慈悲な攻撃や救援物資の搬入の妨害が許されていいということにはならない。現実問題としてその問題解決に力があるのは、アメリカであろう。バイデン大統領が選挙の結果を気にして躊躇するのでなく、イスラエルに対して即時停戦を求める勇気ある行動をとるべきであると考える。


働く壁掛け時計

2024-01-22 12:04:20 | 日記

我が家には一辺が30cmほどの正方形の壁掛け時計が掛かっている。枠は木製を模したプラスチック製で、数字は明確な算用数字である。裏を見てみると、機械部分は一辺が5cmほどの小さなものである。
40年ほど動いているが、ひと月の誤差は僅か数秒である。感心なので機械部分に油をさしてやりたいと思うが、うっかり油をさして動きが悪くなっては困るので、それは控えている。こんなに小さな機械で半世紀近くも正確に時を刻み続けているこの時計はどこの時計かというと、SEIKOの時計である。いい時計に出会ったというべきなのであろう。


資料の手直し

2023-08-30 12:34:11 | 日記

『小さな資料室』に入れてある資料は、パソコンやアイパッドで見るぶんには差支えないのだけれど、それをアイホンで見ようとすると、困ったことに資料によっては行が乱れる不都合が起こっている。
最近は、パソコンやアイパッドで見る人よりはアイホンで見る人の方が圧倒的に多いらしいので、できるだけ資料の乱れを修正しようとしているのだけれど、思うように仕事が進まないでいる。
それに資料も長い間手を加えないでいると、貼り付けたURLが無効になっていたり、既定の広告ならいいのだけれど、場合によっては怪しげな妙な広告が貼りついたりすることがあるらしい(?)ので、時々目を配らないといけないようである。
それに、アイホンに表示される文字の大きさが、こちらが予定したものとは違って部分的に小さく表示されたりすることがあるのも、困ったことである。こうしたことに詳しい人は、これらにうまく対処できるのだろうけれど、年寄りの私にはどうにもならない。
まあ、焦らずに少しずつ、のんびり手直しをしていくことにしましょう。



翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(2)

2009-09-15 19:48:34 | 日記

シュトルムは最近はあまりはやらないのか、文庫本の『みずうみ』を本屋で見かけることがない。
図書館に行って、『みずうみ』の “Noch kein Licht ! ”の訳に当たってみた。すると、大雑把に言って、次の3つに分けられそうである。

1.「明かりはまだかね!」と催促するもの。
  関  泰祐 訳 (岩波文庫『改訳 みずうみ 他4編』1953年 「燈火(あかり)はまだかね!」)
  川崎芳隆 訳 (思索選書『みづうみ』思索社、1949年 「灯(ひ)はまだかね!」)※
  岡本修助 訳 (シュトルム選集『湖畔 他4篇』郁文堂書店、1947年 「まだ、明りをつけないのかね!」)
  ※ 潮文庫(1971年・昭和46年)の川崎芳隆氏の訳では、「あかりはまだいい!」という訳になっているそうです(新潟大学の三浦淳先生のご教示による)。

2、「明かりはまだいらないよ!」と断るもの。
  高橋義孝 訳 (新潮文庫『みずうみ』1953年 「あかりはまだいい」)
  小塩  節 訳 (『ドイツの文学 第12巻』三修社、1966年 「まだ明(あ)かりはいらないよ!」)
  石丸静雄 訳 (旺文社文庫『みずうみ・三色すみれ 他1編』1968年 「まだ明(あか)りはいらないよ!」)
  田中宏幸(訳) (『シュトルム文学研究 日本シュトルム協会設立10周年記念論文集』1993年 所載の「『みずうみ』を読む」という文章の中に、 「まだ明りはいらないよ」とある。)
  加藤丈雄(訳) (『シュトルム・回想と空間の詩学』2006年 の中の文章に、「ドア越しの二人の間には、明りはまだいらないという老人の一言が発せられるだけで」とある。)

3.「まだ明かりはつけないのだね!」と確認する、中間的なもの。
  植田敏郎 訳 (世界の名作文学10 『みずうみ』岩崎書店、1975年 「まだあかりはつけないのだね!」)

さて、シュトルムはどういう意味でここを書いたのであろうか。まさか、お好きなようにお取りください、というわけでもないだろうから、このうちのどれかが適切な訳なのであろう。
この老人(ラインハルト)と家政婦との親密度(普段の親しみの度合い)や、老人の帰宅したときの心持ちなどを考えて、あとはこの言葉 “Noch kein Licht ! ” をどう解釈するか、ということになるのかと思う。

シュトルムの『みずうみ』は、かつては旧制高校あたりでドイツ語の学習教材としてよく読まれた作品だと思うので、この言葉の解釈については既にけりが付いているのかも知れない。ご存じの方がおられたら、ぜひ教えていただきたい。

    *  *  *  *  *

今日、『新潟大学・三浦淳研究室』というサイトの「音楽雑記2008年(2)」の8月8日(金)のところに、次のような文があることに気がつきました。(2009年9月16日)(なお、三浦先生の新しいブログは『隗より始めよ・三浦淳のブログ』です。)

 例えば冒頭近く、老人となったラインハルトが夕刻に散歩から帰宅して、玄関を入ったところで家政婦が顔をのぞかせたとき、「灯りはまだいい!」と指示するのだが、ここが関泰祐訳だとどういうわけか「灯りはまだかね?」となっている。まるで逆の訳をつけているわけだ。(原文は“Noch kein Licht!” sagte er ……) 

やはり、三浦先生がおっしゃるように、「灯りはまだいい!」「明かりはまだいらないよ!」と訳すのが正しいようですね。
どうして長い間、適切でない訳が訂正されないで読み続けられてきたのでしょうか。不思議な気がいたします。


→ 翻訳について(シュトルムの『みずうみ』の訳のこと)(3)