老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

「kotobank」(コトバンク)の誤り

2009-11-26 17:18:00 | インポート

インターネットで調べ物をするときに便利な辞書が、いくつかある。
例えば、フリー百科事典“Wikipedia”や、「Yahoo辞書」、「kotobank」(コトバンク)などがあって、よく利用させていただいている。「Yahoo辞書」では、三省堂の『大辞林』(第2版)や『大辞泉』が使える。
「kotobank」は、そのホームページの解説によると、「朝日新聞、朝日新聞出版、講談社、小学館などの辞書、事典50冊47万語から、用語を一度に検索できるサービスです。百科事典から、人名辞典、現代用語辞典や専門用語集といった内容まで幅広く網羅しており、情報は随時更新、追加していきます」とあって、これも便利そうだ。

ところで、今日は、その「kotobank」(コトバンク)について書いてみたい。
先日、たまたま明治最初期の民間飛行家・武石浩玻について、「kotobank」をひいてみた。
すると、「該当する解説が見つかりませんでした」と出てくる。

しかし、「kotobank」に武石浩玻についての項目がないのかというと、そうではない。「武石浩波」と誤記されて出ているのである。だから、「武石浩波」と入力して検索すれば、武石浩玻のことが「武石浩波」として記載されているのである。
なぜこうした誤りが起こったのかというと、この記述のもとになった講談社の『日本人名大辞典』(2001年12月発行)が誤っているからである。比較的新しい人名辞典で詳しいものというと、この辞書ということになるのであろうが、珍しくこの辞書に「武石浩玻」が間違って記載された。「kotobank」は、これを引いているから、誤りもそのまま引き継がれたというわけである。

気がついたのだから連絡しないでそのままにしておくのも悪いと思って、「kotobank」にメールで連絡した。しばらくたっても、何の音沙汰もない。「kotobank」の間違いも、そのままである。そこで、もう一度連絡して、ぜひ誤記を改めてほしいと書き送ったが、相変わらず「武石浩波」という誤った表記のままになっている。
メールがうまく届いていないのか、届いていても、親本の『日本人名大辞典』に「武石浩波」と出ているのだから簡単に変更できないというのか、一向に改まらない。

まさか『日本人名大辞典』にその他にも誤りがあるとも思えないが、どうも、こうしてみると、案外他にも誤りがあるのかもしれない、という気がしてくる。
辞書づくりをしたことがないから分からないが、「辞書をつくってみればわかるが、出来あがったあとから結構いろいろ誤りが出てくるものだよ」ということでもあるのだろうか。しかし、その場合は気づいた時点でなるべく早く訂正して、できるだけ正しい辞書をつくるべく努力すべきでありましょう。  
  (2009年11月26日)

今日、「kotobank」(コトバンク)で「武石浩玻」を検索してみたら、正しく「浩玻」となっていました。いつから訂正されたのかは、分かりません。ひとこと、断ってくれたっていいじゃないか、と私は思いますがね。
  (2010年7月8日)




曹洞宗の大本山

2009-11-15 19:17:00 | インポート
このたび、先年80歳で亡くなった母方の叔父のお骨をある事情から預かっていただいている東京の郊外のお寺で、甥たち4人が集まって、叔父のささやかな13回忌法要をしめやかに執り行った。
ご住職が体調を崩しておられるとのことで、永平寺で修行をして来られたという若い副住職が法要のお経をあげてくださった。そのあと、我々は副住職に続いて焼香して頭(こうべ)を垂れ、亡き叔父の菩提を弔った。
お寺の宗旨は、もちろん曹洞宗である。曹洞宗の大本山は永平寺が有名であるが、鶴見の総持寺も曹洞宗の大本山である。
ここで、手元にある『平成21年曹洞宗宝暦』や『広辞苑』によって、曹洞宗について振り返ってみたい。

曹洞宗は、仏教の開祖・釈迦牟尼をご本尊と定め、釈迦の教えを正しく伝えた道元禅師(高祖承陽大師・こうそじょうようだいし)、親しくお弘めになった瑩山禅師(けいざんぜんじ)(太祖常済大師・たいそじょうさいだいし)を両祖として、釈迦・高祖・太祖を「一仏両祖(曹洞宗三尊仏)」とお呼びし、人生の導師として礼拝するとともに敬慕申し上げている。
曹洞宗は、両祖が示された坐禅の実践を通してみ仏との絆を深め、身と心を調えて、報恩感謝の日送りを行じていくことを信仰の要としている。
曹洞宗の大本山は、福井の永平寺と鶴見の総持寺である。
大本山永平寺は、わが国に曹洞宗を伝えた道元禅師が寛元二年(1244年)に開いた寺で、約750年の伝統を誇る永平寺では、今も常に200余名の修行僧が日夜修行に励んでいる。
大本山総持寺(そうじじ)は、もと石川県にあって真言宗に属していたが、元亨元年(1321年)寺僧定賢が瑩山(けいざん)禅師に帰依して曹洞宗に転じた。明治31年の伽藍焼失を機に横浜市鶴見区に移転。交通の便がよく海の玄関といわれる横浜鶴見の地に位置するところから、国際的な禅の道場としての偉容を誇っている。

曹洞宗(そうとうしゅう)=禅宗の一派。中国で洞山良价(とうざんりょうかい)と
   弟子の曹山本寂によって開かれ、日本では、道元が入宋して如浄からこ
   れを伝え受けた。只管打坐(しかんたざ)を説く。永平寺・総持寺を大本山
   とする。 (『広辞苑』第6版による。)

道元(どうげん)=鎌倉初期の禅僧。日本曹洞(そうとう)宗の開祖。京都の人。
   内大臣源(土御門)通親の子か。号は希玄。比叡山で学び、のち栄西の
   法嗣に師事。1223年(貞応2)入宋、如浄より法を受け、27年(安貞1)
   帰国後、京都深草の興聖寺を開いて法を弘めた。44年(寛元2)越前に
   曹洞禅の専修道場永平寺を開く。著「正法眼蔵」「永平広録」など。諡号
   (しごう)は承陽大師。(1200-1253) (同上)

瑩山(けいざん)=鎌倉後期、曹洞宗中興の祖。諱(いみな)は紹瑾(じょうきん)。
   越前の人。懐奘(えじょう)・寂円らに師事。晩年総持寺を開いて後醍醐天
   皇の帰依を受け、永平寺とともに二大道場として曹洞宗発展の基礎を築く。
   著「語録」「伝光録」など。諡号(しごう)、常済大師。(1268-1325)
                                          (同上)

ところで、今年(平成21年)の7月に、石原裕次郎の23回忌法要が12万人を集めて行われた。それは国立競技場に、裕次郎が眠る鶴見の総持寺を20億円かけて再現したイベントだったそうである。

なお、曹洞宗については、『曹洞宗公式サイト──曹洞禅ネット』に詳しく出ていますので、ぜひご覧ください。



木葉下金山探検ツアー参加記

2009-11-06 20:52:00 | インポート
平成21年10月17日(土)、水戸市が、水戸藩開藩400年記念事業の一つとして開催した「木葉下金山探検ツアー」に参加した。午前中、講演会があり、午後から見学会があって、その両方に参加した。
木葉下(あぼっけ)は難読地名の一つとして有名であり、小松左京が小説『日本沈没』で、最後に残る日本列島の陸地としてここを挙げているが、ここに金山坑道跡があることは前から知っていて、30年ほど前に、二つの坑道跡に入ってみたことがある。
木葉下金山は、室町時代の終わりごろ、佐竹氏の時代に開かれた鉱山で、佐竹氏は豊臣秀吉に上納する金(きん)の必要から、盛んに金山を掘ったという。その一つが木葉下金山である。

☆ 講演会
午前中の講演会は、佐竹金山跡研究会代表の滝友彦氏が、資料をもとに、木葉下金山の歴史について、また、金鉱石や金採掘の方法などについて、詳しく説明してくださった。
興味深く聞いたことを、順不同でいくつか書き記してみる。(聞き間違いがあるかもしれませんので、一言お断りしておきます。)
○金は、酸化した銀が黒く覆うので、実際には黒くなって出てくる。砂金も流れ出したときは黒色をしているが、流れているうちに黒い銀がはがれて金色になってくる。(したがって、山で金色の鉱物を見かけても、それは多くの場合、黄鉄鉱や黄銅鉱である。)
○金を含む鉱石(金鉱石)は、白地に黒っぽい縞模様の入ったものが多い。
○米粒ぐらいの砂金で約1g、約3,000円である。
○佐竹時代にはここで40個ぐらいの坑道が掘られたが、現在残っているのは15個ぐらいである。あとは崩れたり、危険なので入口を埋めてしまったりした。
○坑道の入口は、雨水が入らないように上向きに掘ってあるが、中へ入ると、下向きに掘ってある。それは、坑道の中の地面で火を焚いても空気の流れによって酸欠にならないための工夫であるという。
○坑内の照明は、松明(たいまつ。松脂のヒデ枝を燃やすもの)・火縄(沢草を縄にして燃やす。燃えた長さによって時間の経過を知るめやすとした)・竹の根(菜種油で芯を燃やす)などが用いられたという。
○「金(きん)を制する者が天下を制する」といわれ、実際そうであった。
○金は0.1ミクロンまで薄くすることができ、薄くすると色が透明になってくる。
○金には、赤外線を遮断する働きがある。
○1590年ごろ、大判1枚で、弾丸付きの鉄砲が2丁買えた。それで、秀吉は全国から金を徴集して、一般に鉄砲が買えないようにしたという。
○金の出る山には、金山草(きんざんそう)というウラジロが生えると言われ、それを金鉱を探す一つの目印にしたという。
○金を掘っていた人夫は、環境の悪い中で作業をしていたので、30歳になる前に殆んど死んでしまったという。
○佐竹時代の金の精錬方法は、金鉱石を細かく砕き、それを石臼ですりつぶし、水に流して比重の大きい金の粒を取り出したという。(この日は見学できなかったが、以前、鉱石をすりつぶした石臼を近くの石島さんのお宅の庭で見せていただいたことがある。)
○細かくすりつぶした鉱石を、水流と鉱物の比重差を利用して、金の粒を選り分けた弁天池が、近くに残っている。
○金鉱石1トン中の金の量(グラム)を金品位といい、平均金品位は1トン中6~8gで、30g以上を「良鉱」「富鉱」と呼び、5gが採算量とされる。
○坑道の掘進長は、1間掘りの場合、軟岩で月に2.5尺~4.0尺(75cm~1.2m)、硬岩で月に1.5尺~2.5尺(45cm~75cm)とされる。
○なお、茨城県内の金山跡には、栃原金山など大子地方のもの、大久保金山・助川金山など日立地方のもの、日高金山・花園金山など太平洋岸の県北地方のもの、木葉下金山・有賀金山など水戸地方のもの、筑波山近くの上志筑金山など、主要金山跡が二十数か所ある由である。

今まで、木葉下の金山跡については漠然とした知識しか持っていなかったが、こうした金山跡について詳しく研究している人がいることを、今回初めて知った。頂いた資料には、一つひとつの坑道について計測された数値が記載されていて、すべての坑道について調査がなされているらしいことに驚いた。
いろいろ教えられることの多い、充実した講演会であった。

☆ 見学会
午後から、用意してくれたヘルメットをかぶって、懐中電灯を持ち長靴を履いて、70名ほどの人が2班に分かれて実際に坑道跡を見学して歩いた。募集定員は30名であったが、応募者があまりにも多いので、急遽70名に増やして2班構成とした由であった。
森林公園の道から山の斜面へ下ると、坑道跡の入口がいくつも口を開いていた。こんなところにあるのか、と意外であった。その中のいくつかに交代で入ってみた。係の方が道を案内し、坑道について説明をしてくださった。
腰をかがめて坑道入口から入ると、何度かヘルメットを天井の岩にぶつけた。ヘルメットなしで入ったら、こぶをいくつも拵えてしまったことであろう。懐中電灯で照らして、細く先へ続いている坑道を見やる。中には、少し先で行き止まりになっているものもある。
坑道は、幅1.5m、高さ1.5mの一間掘りの坑と、幅0.9m高さ1.2mの半間掘りとがあり、その他に狸穴掘りという狭い坑道があったというが、不自由な道具で硬い鉱脈を手で掘った坑であるから、坑道の大きさはまちまちであり、壁面はでこぼこで、しかも坑は狭くて曲がりくねっているから、中を自由に歩くというわけにはいかない。腰をかがめて這うように進み、先の方を懐中電灯で照らして見やるということになる。
最後に入った比較的大きな坑道にはコウモリがいて、懐中電灯を持った闖入者に驚いて坑口から飛び出したりするものもいた。コウモリは超音波を出して飛ぶので、暗闇の中でも物にぶつかることがない。だから、人間にぶつかってくることはないから、安心するように、と見学に出掛ける前に説明があった。なるべくコウモリを驚かせることをしないように、懐中電灯の灯りをコウモリに当てたりしないように、という注意もあった。最近は、こうしたコウモリの住める場所も少なくなってきているから、大事に扱ってやりたい、という話であった。改めて考えてみるまでもなく、現代は野生動物にとって甚だ住みづらい時代になってしまっている。

30年ほど前に入ってみた坑道跡は、多分今回最後に入った二つの坑ではないかと思われるが、前に入った時はもう少し大きかったような気がしている。別の坑道だったのだろうか。
こうした坑道跡は、それぞれ所有者のいる個人の山にあるのだから勝手に入ったりしないように、という注意があったが、以前に入ってみたときはこの坑道跡が個人所有の山にあるということは考えもしなかったから、所有者のMさんには無断で入ってしまっていた。遅蒔きながら、ここでお詫びしておきたい。
帰りには、めいめいが当地の葡萄園の経営者から巨峰を1パックずつお土産にいただいた。金山坑道跡を見学させていただいたうえにお土産まで頂戴して、まことにありがたいことであった。

それにしても、こんなところで金がとれたとは、おもしろいというか不思議な気がする。身近に存在する、かつて金を掘った坑道跡へ入ってみるという、めったにできない、いい経験をして、久しぶりにいい汗をかいた。