老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

お辞儀の仕方(NHKテレビを見ていて気になること)

2021-12-04 12:22:47 | インポート
NHKのテレビを見ていて、気になっていることがある。それは、番組の終わりにするアナウンサーのお辞儀の仕方である。
大方はきちんとお辞儀をしているのだが、中には形だけの失礼なお辞儀をしている人がいるのだ。それはどういうお辞儀かというと、いつまでも頭を下げ続けるというお辞儀の仕方である。

だいたいお辞儀というものは、一旦頭を下げれば必ず上げるものである。頭を下げっぱなしのお辞儀などあろうはずがない。彼ら(彼女ら)はどういうつもりで頭を下げ続けているのかというと、カメラマンが適当な時間を見はからって画面を切り換えてくれるのを期待しているのだと思われる。
アナウンサーが頭を下げてから適当な時間で画面を切り換えれば、頭を下げるお辞儀をして番組が終わる、ということになる。そういう終わり方を考えているのだと思われる。しかし、画面の切り換えが遅れると、「あれっ、あのアナウンサーはいつまで頭を下げ続けているのだろう?」という奇妙なことになる。

だいたいお辞儀というものは、一旦下げた頭を上げてこそお辞儀になるのである。いつまでも頭を下げていればお辞儀になるというものではない。普通は1秒か2秒も下げ続けていれば立派なお辞儀であろう。番組の終わりにするお辞儀は、見てくださってありがとうございました、という
視聴者に対する敬意を表すものだと思うが、それが単に番組を終わるという形だけのお辞儀になっていて、心のこもったお辞儀になっていないから、そういうお辞儀の仕方になるのだと思われる。断っておくが、きちんとしたお辞儀をしていて時間の関係で頭を下げてすぐ画面が切れてしまうのは、致し方がない。それはここで言うお辞儀とは別である。

そんなに気になるなら見なければいいでしょうと家内は言うが、いよいよ番組が終わるという時にいちいち目を逸らすなど、できるものではないし、したくもない。そのアナウンサーが出る番組は見なければいい、ということなのであろうか。

最近気になっているお辞儀の仕方である。






インタビューを受けてお礼を言われたときの返事

2021-09-24 10:21:42 | インポート
インタビューを受けてお礼を言われたときにどういう返事をするかについては、前に書いたことがあるが、昔の日本人は普通、「ありがとうございました」と言われて、「失礼しました」と返していたように思う。
それに対して、
インタビューを受けてそれに答えただけなので別に失礼はしていないではないか、という考え方もあって、最近は西洋での「Thank You!」に対して「Thank You!」と返すやり方に倣ったせいか、「ありがとうございました」と言われて、「ありがとうございました」と返す人が殆んどになってしまった。
重い荷物を運んでいるお年寄りがいたので、その人のお手伝いをして、その人から「
ありがとうございました」と言われた場合、まさか「ありがとうございました」と返す人はいないだろうから、その場合は「いいえ、どういたしまして」といった返答になるかと思われる。

この両者の違いは、どこにあるのだろうか。
インタビューをした人は、相手にインタビューに答えてもらったのであり、手伝ってもらったお年寄りは、重い荷物運びを手伝ってもらったのだから、どちらも相手から恩恵を受けたという点では同一であると思われるのに、一方は「ありがとうございました」と返し、一方は「どういたしまして」と返している。

今朝(2021年9月24日朝)、NHKラジオを聞いていたら、7時台の『三宅民夫のマイあさ』の「深よみ」で、「アメリカが警戒する中国とイスラエルの関係」ということで、放送大学名誉教授の高橋和夫氏がインタビューを受けていた。
インタビューの初めに、三宅アナウンサーが「国際政治学者の高橋和夫さん、おはようございます!」と呼びかけたのに対して、高橋氏は「三宅さん、おはようございます!」と答えていた。そして、インタビューの終わりに、三宅アナから高橋和夫さん、ありがとうございました」と言われた高橋氏は、「失礼しました」と答えていた。

久しぶりに昔の日本的な応対を聞いて、以前この問題について記事を書いたことがあるので、また書いてみたくなって書いたという次第である。
さて、もし自分が誰かから
インタビューを受けることがるとして、「ありがとうございました」と言われたとき何と返せばいいのか、まだ迷っている。





立花隆──出生から大学入学まで

2021-08-12 12:43:12 | インポート
令和3年(2021年)4月30日に亡くなった「知の巨人」といわれた立花隆の、出生から大学入学までを辿ってみましょう。

立花隆は、昭和15年(1940年)5月28日、長崎市で生まれました。本名は橘隆志です。兄一人、妹一人がいます。
父・経雄は水戸市で材木商を営んでいた家の4人きょうだいの末っ子で、早稲田大学国文科を出てすぐ、長崎のミッション系の女学校・活水学園に就職しました。女学校の活水学園に就職するには、男の先生は結婚していなくてはならないということで、父の姉(伯母)が県立水戸高等女学校(現・県立水戸第二高等学校)に勤めていたので、その姉の家によく遊びに来ていた教え子だった東茨城郡石塚町那珂西(なかさい)(現・茨城県東茨城郡城里町那珂西)の佐藤龍子と急いで結婚することになったのだそうです。隆志は父の勤め先の長崎で生まれたので、長崎県出身とされているわけです。なお、父の従兄(いとこ)に右翼の思想家として有名な愛郷塾の橘孝三郎がいます。
昭和17年(1942年)、父が文部省の職員となり身分上は北京の師範学校の副校長として北京に移ったため、一家で中国に渡り、2年間北京で過ごしました。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦。苦労して引き揚げて母の実家・
東茨城郡石塚町那珂西に住みました。翌21年、水戸市に移り、昭和22年(1947年)に茨城師範学校附属小学校(現・茨城大学教育学部附属小学校)に入学、中学も同附属中学校でした。中学時代は陸上競技部に所属、ハイジャンプと三段跳びの選手でした。小中学校時代は大変な読書家であったことが、著書の『ぼくはこんな本を読んできた』に出ています。
昭和31年(1956年)、茨城大学附属中学校を卒業し、県立水戸第一高等学校に入学しました。部活は陸上部に所属。父が全国出版協会の機関紙『全国出版新聞』の編集長になり千葉県柏市に引っ越したため、翌昭和32年4月、都立上野高等学校の第2学年に転入しました。水戸一高には1年間しかいなかったわけです。
昭和34年(1959年)、都立上野高校を卒業、東京大学文科二類(当時は文科は一類・二類だけで、三類はなかった)に入学しました。

以上が、
立花隆(橘隆志)の出生から大学入学までのおおよそです。長崎市で生まれたので長崎県出身ということになりますが、実際は茨城県出身(水戸市出身)というべきではないでしょうか。

記述は、主として『文藝春秋』平成8年11月臨時増刊号『立花隆のすべて』によりました。なお、令和3年8月16日に、文藝春秋特別編集・永久保存版『「知の巨人」立花隆のすべて』(文春ムック)が発行されました。
(お断り:一部書き改めました。2021年8月19日)

参考:
〇愛郷塾(あいきょうじゅく)=橘孝三郎が茨城県東茨城郡常磐村に創立した私塾。農本主義思想、産業組合運動を展開していた橘が、昭和6年(1931)に開く。その後右翼的国家革新運動に傾き、五・一五事件(1932)には塾生を参加させた。正式名、自営的農村勤労学校愛郷塾。(『精選版日本国語大辞典』による。) 注:原文に「茨城郡常盤村」とあるのを「東茨城郡常磐村」と改めました。「常磐村は現在の水戸市です。
〇『ぼくはこんな本を読んできた』文藝春秋、1995年12月20日第1刷発行。
 (これは、1999年3月、文春文庫に入っています。)
〇「立花隆 母が遺した引き揚げ体験記」橘龍子(『文藝春秋』2012年9月号に掲載)
〇橘隆志が入学した当時の東京大学は、文科・理科は一類・二類だけで、三類はありませんでした。当時の
文科一類は、主として法学部・経済学部に進学する課程、文科二類は、主として文学部・教育学部に進学する課程でした。文科・理科がそれぞれ現在の一類・二類・三類に改編されたのは、昭和36年(1961年)3月のことです。(現在の文科一類は、主として法学部に進学する課程・文科二類は、主として経済学部に進学する課程・文科三類は、主として文学部・教育学部に進学する課程となっています。




立花隆のこと

2021-07-09 17:11:25 | インポート
知の巨人といわれた立花隆が、2021年4月30日に長崎市で亡くなったという。
彼の本名が橘隆志だということは、案外知られていないかと思う。彼は父の赴任先の長崎で生まれたので、長崎出身ということになっているが、父親の実家は水戸なのだから、水戸の出身と言ってもいい、いや、水戸の出身と言うべきだと思う。ちなみに、母の実家は水戸市の隣の城里町那珂西(なかさい)にあり、父の従兄(いとこ)に水戸で愛郷塾を開いた、あの橘孝三郎がいる。
ということで、立花隆と水戸との関係を調べて、そのうち書いてみたいと思っている。





安い卵

2021-04-18 19:51:50 | インポート
今年(2021年)の1月、元農林水産大臣が、大手の鶏卵業者から現金500万円の賄賂を受け取った疑いで起訴された。
鶏卵業者は、家畜にとってストレスの少ない飼育環境を目指す「アニマルウェルフェア」(動物福祉)をめぐって、国際獣疫事務局が策定を進める国際基準案に日本が反対するよう農水大臣に現金を渡して働きかけたという事件である。

国際獣疫事務局の国際基準案は、鶏の習性に配慮して止まり木や巣箱の設置を義務づけるもので、業者にとってそれは大きな負担を強いるものだからである。わが国では多くの鶏を「バタリーケージ」という方式で飼育しているという。
「バタリーケージ」(Battery cages)とは、ワイヤーでできたケージを連ねて幾段にも重ね、その中に鶏を収容する飼育方式のことで、それは「工場畜産」と批判されているそうである。
私たちが安い卵を買って食べられるのは、日本ではいまだに9割以上の養鶏場がこの方式で飼育しているからだという。鶏たちが自由に動き回ることができない環境で、餌を多量に食べさせられて卵を産ませられ……、私たちは涼しい顔をしてそれらの鶏の産んだ卵を食べている、というわけである。

「バタリーケージ」方式による飼い方に対して、鶏舎内や屋外で鶏を地面に放して鶏が自由に動き回れるようにした飼い方を「平飼い」という。

中には、自分は平飼いの卵しか買わないと言う人もいるだろうが、平飼いの卵は当然値段が高くなるので、安く売っている卵があるのに誰もが平飼いの卵を買うというわけにはいかないだろう。

「アニマルウェルフェア」という言葉を、農水大臣の事件で初めて知った。動物福祉ということを考えると、人間が他の生命を奪って生きなければならない存在として運命づけられていること、なぜ神はそうした運命を人間に与えたのであろうと、残念に思わずにはいられない。

しかしそうは言っても、この鶏の飼い方についての国際基準案を私たちはどう捉えるのか、このまま無関心で過ごしていいものか、考えなければならない問題であろう。