老人(としより)の目(『ある年寄りの雑感』)

「子どもの目」という言葉がありますが、「年寄りの目」で見たり聞いたり感じたりしたことを、気儘に書いていきたいと思います。

立花隆──出生から大学入学まで

2021-08-12 12:43:12 | インポート
令和3年(2021年)4月30日に亡くなった「知の巨人」といわれた立花隆の、出生から大学入学までを辿ってみましょう。

立花隆は、昭和15年(1940年)5月28日、長崎市で生まれました。本名は橘隆志です。兄一人、妹一人がいます。
父・経雄は水戸市で材木商を営んでいた家の4人きょうだいの末っ子で、早稲田大学国文科を出てすぐ、長崎のミッション系の女学校・活水学園に就職しました。女学校の活水学園に就職するには、男の先生は結婚していなくてはならないということで、父の姉(伯母)が県立水戸高等女学校(現・県立水戸第二高等学校)に勤めていたので、その姉の家によく遊びに来ていた教え子だった東茨城郡石塚町那珂西(なかさい)(現・茨城県東茨城郡城里町那珂西)の佐藤龍子と急いで結婚することになったのだそうです。隆志は父の勤め先の長崎で生まれたので、長崎県出身とされているわけです。なお、父の従兄(いとこ)に右翼の思想家として有名な愛郷塾の橘孝三郎がいます。
昭和17年(1942年)、父が文部省の職員となり身分上は北京の師範学校の副校長として北京に移ったため、一家で中国に渡り、2年間北京で過ごしました。
昭和20年(1945年)8月15日、終戦。苦労して引き揚げて母の実家・
東茨城郡石塚町那珂西に住みました。翌21年、水戸市に移り、昭和22年(1947年)に茨城師範学校附属小学校(現・茨城大学教育学部附属小学校)に入学、中学も同附属中学校でした。中学時代は陸上競技部に所属、ハイジャンプと三段跳びの選手でした。小中学校時代は大変な読書家であったことが、著書の『ぼくはこんな本を読んできた』に出ています。
昭和31年(1956年)、茨城大学附属中学校を卒業し、県立水戸第一高等学校に入学しました。部活は陸上部に所属。父が全国出版協会の機関紙『全国出版新聞』の編集長になり千葉県柏市に引っ越したため、翌昭和32年4月、都立上野高等学校の第2学年に転入しました。水戸一高には1年間しかいなかったわけです。
昭和34年(1959年)、都立上野高校を卒業、東京大学文科二類(当時は文科は一類・二類だけで、三類はなかった)に入学しました。

以上が、
立花隆(橘隆志)の出生から大学入学までのおおよそです。長崎市で生まれたので長崎県出身ということになりますが、実際は茨城県出身(水戸市出身)というべきではないでしょうか。

記述は、主として『文藝春秋』平成8年11月臨時増刊号『立花隆のすべて』によりました。なお、令和3年8月16日に、文藝春秋特別編集・永久保存版『「知の巨人」立花隆のすべて』(文春ムック)が発行されました。
(お断り:一部書き改めました。2021年8月19日)

参考:
〇愛郷塾(あいきょうじゅく)=橘孝三郎が茨城県東茨城郡常磐村に創立した私塾。農本主義思想、産業組合運動を展開していた橘が、昭和6年(1931)に開く。その後右翼的国家革新運動に傾き、五・一五事件(1932)には塾生を参加させた。正式名、自営的農村勤労学校愛郷塾。(『精選版日本国語大辞典』による。) 注:原文に「茨城郡常盤村」とあるのを「東茨城郡常磐村」と改めました。「常磐村は現在の水戸市です。
〇『ぼくはこんな本を読んできた』文藝春秋、1995年12月20日第1刷発行。
 (これは、1999年3月、文春文庫に入っています。)
〇「立花隆 母が遺した引き揚げ体験記」橘龍子(『文藝春秋』2012年9月号に掲載)
〇橘隆志が入学した当時の東京大学は、文科・理科は一類・二類だけで、三類はありませんでした。当時の
文科一類は、主として法学部・経済学部に進学する課程、文科二類は、主として文学部・教育学部に進学する課程でした。文科・理科がそれぞれ現在の一類・二類・三類に改編されたのは、昭和36年(1961年)3月のことです。(現在の文科一類は、主として法学部に進学する課程・文科二類は、主として経済学部に進学する課程・文科三類は、主として文学部・教育学部に進学する課程となっています。




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