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習志野歴史散歩:鷺沼村出身の「いせ辰」

2020-07-24 13:21:51 | 歴史

鷺沼村出身の「いせ辰」

 京成電車を日暮里で降りて西口に出ると、やがて谷中銀座。どことなく明治・大正の頃の風情を残したいわゆる「谷根千(やねせん)」、谷中(やなか)・根津(ねづ)・千駄木(せんだぎ)界隈は、休日には観光客でにぎわいます。

 その中でも老舗(しにせ)として多くの人を集めているのが「いせ辰(たつ)」。千代紙や風呂敷、団扇(うちわ)、手ぬぐいなど、江戸趣味の小物で人気があるお店ですが、その初代は鷺沼村から江戸に出た人だということはご存知でしょうか。

https://www.isetatsu.com/

鷺沼村の廣瀬辰五郎、地本(大衆本)・うちわを扱う「伊勢惣」という出版社で修業

初代・廣瀬辰五郎(ひろせたつごろう)は天保3年(1832)、下総国千葉郡鷺沼村の農家、廣瀬仁兵衛の四男として生まれます。後に江戸へ出て、日本橋堀江町二丁目の伊勢屋惣右衛門(いせや そうえもん)のもとで奉公、修業します。

http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/hiroseTatsugoro.htm

「伊勢惣」こと伊勢屋惣右衛門は地本(じほん)※問屋であり、団扇(うちわ)問屋でした。と言っても、地本(じほん)という言葉じたい、馴染みがありませんね。地本とは、江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本(しゃれぼん)・草双紙(くさぞうし:黄表紙・赤本・黒本・青本など)・読本(よみほん)・滑稽本(こっけいぼん)・人情本・咄本(はなしぼん)・狂歌本などに分れていました。地本問屋(じほんどんや)というのは、これらの地本を企画、制作して販売した問屋のこと。今で言えば出版社兼取次店です。また当時、こうした本は買って読むよりも、貸本屋から借りて読むのが一般的でした。

※地本の種類

 ●洒落本(粋(いき)を理想とし、遊女と客のかけひきなどを書いた)
 ●草双紙(絵入り娯楽本の総称⇒表紙の色に由来した黄表紙(きびょうし:しゃれ、滑稽、風刺をおりまぜた大人むきの絵入り小説。恋川春町の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」が有名)・赤本(桃太郎など娯楽本)・黒本(歴史物語・軍記もの)・青本(色恋・遊郭・滑稽・諧謔もの)など)
 ●読本(勧善懲悪や因果応報などがテーマ、「南総里見八犬伝」など文学性が高い)
 ●滑稽本(おかしみのある話。「浮世風呂」「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」など)
 ●人情本(恋愛もの)
 ●咄本(笑い話など短編、噺本とも書かれる)
 ●狂歌本(「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」などの狂歌を集めた本で、途中から挿絵が入るようになった)

その出版社が、浮世絵の美人画を使った「団扇絵」を作って大ヒット
 ではこの出版社がなぜ、団扇の問屋を兼ねるのでしょうか。地本問屋は浮世絵版画の版元になっていました。伊勢惣は「大栄堂」と号し、喜多川歌麿、歌川豊国、歌川国貞、歌川国芳、二代目歌川広重などの錦絵(にしきえ:多色刷りの浮世絵木版画)を出版していますが、そこで彼らの美人画を団扇に貼って売るわけです。アイドルの水着写真で売っている大衆雑誌が、その写真を入れたグッズでもうひと儲けするようなことを想像していただけば間違いありません。この団扇が売れに売れて、浮世絵の中に「団扇絵(うちわえ)」というジャンルが出来てしまいました。


伊勢惣からのれん分け、堀江町で「伊勢辰商店」を開業

 辰五郎は伊勢惣でつらい修業の後、元治元年(1864)のれん分けを許され、伊勢惣が馬喰町(ばくろちょう)三丁目に移った後、堀江町に地本問屋兼団扇問屋「伊勢辰(いせたつ)商店」を開業しました。また、辰五郎にはこの年、倅(せがれ)の芳太郎が生まれています。時あたかも世情騒然とし、新選組が池田屋に斬り込んだのがこの年です。

今の古新聞みたいに、お皿の包み紙に使っていた浮世絵

 開国した日本に最初に外貨をもたらしたものは、緑茶と生糸と陶磁器、それに浮世絵でした。陶磁器は既に鎖国の時代、オランダ船に載ってヨーロッパに渡っていましたが、輸送中にお皿が割れないよう、お皿とお皿の間には浮世絵などの反故紙を挟んでいました。荷をほどいた外国人は、お皿のこともさりながら、その間に挟まれた不思議な紙の美しさに目を見張ったのでした。

(世界に広がる浮世絵の歴史と広がり)より
https://www.kumon-ukiyoe.jp/history.html
「包装材からのスタート:実は日本が鎖国していた江戸時代、すでに浮世絵は海外にわたっていたという。当時、唯一外交関係にあったオランダを介して、海外に輸出されていた漆器や陶磁器などの“包み紙”に古い浮世絵が使われていたからである。後に、それが評判となって美術品としての浮世絵版画を買い求める交易者も出た。」

明治3年神田に移ると、外国人のお土産として団扇や江戸千代紙がバカ売れ

 江戸が東京と改まり、辰五郎の商う品にさっそく目をつけたのは外国人でした。明治3年(1870)に店を神田弁慶橋に移すと、築地居留地や横浜の外国商館に対して販路が開けました。浮世絵の他、団扇や扇子、日傘、手拭いなど、江戸千代紙の粋な意匠をこらした品々は、お土産品として珍重され、店は軌道に乗りましたが、明治21年(1888)6月、辰五郎は57歳で亡くなりました。倅(せがれ)の芳太郎が、二代目辰五郎を襲名します。

浮世絵版元「菊寿堂」と号した二代目辰五郎は34歳で亡くなる

二代目は父と始めた外国人への販路開拓を一層進める一方、浮世絵版元として「菊寿堂」と号し、河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)、柴田是真(しばた ぜしん)といった画家と深く交流を持ちます。しかし、初代の死からわずか9年後、明治30年(1897)に34歳で亡くなってしまいます。明治11年(1878)生まれの鐘三郎が三代目を継ぐことになります。

三代目の時に「いせ辰」と改名、千代紙で作った紙ナプキンでブレイク

 三代住めば江戸ッ子の例えどおり、神田生まれの三代目辰五郎は江戸趣味に人生を捧げた粋人(すいじん)でした。この三代目の時に、店名を「いせ辰」と改めます。歌川広重らの伝統的な浮世絵に加えて、小林清親(こばやし きよちか)、淡島寒月(あわしまかんげつ)、伊東深水(いとうしんすい:女優「朝丘雪路」の父親)、川瀬巴水(かわせはすい)といった新時代の画家の版画出版にも取り組みます。また千代紙についても多数の版木(はんぎ)、版下を収集しては、たくさんの作品を世に送り出しました。

 千代紙は、京都で生まれたとされています。丈夫な和紙に多色刷りで、繊細で雅やかな模様を刷り出したものですが、江戸に来てからは、歌舞伎や相撲などに材を取って、大きくはっきりとした模様が好まれるようになります。版木を何枚も使って刷る多色刷りの技法も、浮世絵の発展に伴ってより精巧なものになっていきます。いせ辰の千代紙は、特にこの江戸千代紙の伝統を伝えるものでした。また、特に人気を博したのは、千代紙で作った江戸風俗の紙ナプキンでした。これはドイツ人商人を通じてヨーロッパ各国に輸出されます。


苦難の三代目:関東大震災で千代紙の版木など消失。店を谷中に移すが、ここも東京大空襲で焼失し、翌年亡くなる

 こうして順調に業容を広げていった三代目でしたが、大正12年(1923)9月、永年かけて集めた浮世絵や千代紙の版木や膨大な収集品、貴重な資料は店と共に関東大震災で焼失してしまいました。一時は途方にくれた三代目でしたが、家は焼けても江戸ッ子の意気は消えねぇとばかりに、長男や弟子たちを奮い立たせ、遂に約1千種の千代紙版木を再刻させます。今日、江戸千代紙が残っているのはこのおかげなのですが、さらに三代目を次の苦難が襲います。昭和17年(1942)に店を谷中へ移転しましたが、昭和20年(1945)3月、東京大空襲で再び店は焼失。失意の内に、翌昭和21年(1946)、69歳で亡くなりました。

三代目の写真

四代目が裸一貫で再建。外国人のお土産でIsetatsu復活

 四代目は明治39年(1906)、三代目の長男として生まれました。焼け野原となった東京は浮世絵や千代紙どころではなく、三度の食事にさえことかく始末であったといいます。しかし三代目が関東大震災後に再刻させた版木は、幸いにも地方に疎開してありましたので、四代目は裸一貫、これらの版木からコツコツと江戸千代紙を刷り出していきました。やがて世の中が落ち着きを取り戻し、江戸のいなせ、粋を今に伝える千代紙や手拭いは、再び人気を博するようになります。また、東京オリンピックや大阪万博に訪れた外国人のお土産として「Isetatsu」の名は復活を果たし、現在では五代目が店を守っているそうです。江戸の趣味を今に伝える品々は、これからも多くの人に愛されていくことでしょう。

 ドイツの作家トーマス・マンは長編小説「ブッデンブローク家の人々」で、自身の一族の4代にわたる歴史を描きました。また日本では、マンを敬愛してやまない北杜夫が「楡家の人びと」を書きました。

 幕末から明治・大正・昭和、さらに平成、令和と、鷺沼村から江戸に出て、幾多の苦難にもめげずに名をなした代々の辰五郎に思いを馳せてみるのも面白いのではないでしょうか。
(ニート太公望)

(編集部より8月2日追記)
四代目が書いた「江戸の千代紙いせ辰三代」という本に以下のような記述がありました。
習志野歴史散歩に書かれた、この「鷺沼村出身の『いせ辰』」と、「鷺沼から頼朝が出陣!」
習志野歴史散歩:鷺沼から頼朝が出陣! - 住みたい習志野
の内容とも、ピッタリ合っていますね。

「いまの習志野市鷺沼町1〜3丁目あたりは、江戸のころの下総国千葉郡鷺沼村、この町中を幕張、稲毛に向かって突っ走る国道14号線は、もとの千葉街道でございます。
 天保14年1843年、12歳になったかならずの初代辰五郎は連れの御方に手を引かれ、この街道を江戸へと旅立ちました。」

「千葉県千葉郡鷺沼村88番地がその本籍です」

「初代が残した過去帖を頼りに、三代目が試みられなかった故郷の鷺沼を訪ねたいと思い立ち、一日、台東区教育委員会在籍の知人に相談しましたところ、知人が以前勤めていた課に鷺沼から広瀬姓の人が通勤していたから、その人に聞いてあげようという吉報がありました。両三日して、当の広瀬さんから「母親が申すのに、昔、弁慶橋で店を持った人が親戚にあったと聞いている」という思いがけぬお話。たしかに昔は弁慶橋という地名を、わたくしの家の通称にしていましたので、鷺沼でそのことを知っている方なら、きっとご縁があるのではないかと思いました。」

「ある土曜、区役所前からその方に道案内をお願いして、車で前述の国道14号線を下ったのでございます。
 まず、わたくしの目は鷺沼在に一つしかない寺、慈眼寺へ引き寄せられました。」

「仁兵衛供養と彫られた墓石も二基ありました。」

「わたくしの手元に三代目から伝わっている源氏の白旗が一幟あります。」

「頼朝公は石橋山に敗戦し、対岸の安房に逃れ、ここで千葉介常胤の援助を受け、急速に勢力を盛りかえし、治承4年1180年、有名な富士川の合戦を控えて旗揚げしたのが鷺沼城でありました。」

 

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習志野隕石の意味(毎日新聞の記事より)

2020-07-23 12:30:47 | 報道

(7月20日毎日新聞夕刊に以下の記事が載っていたので、ご紹介します)

習志野隕石の意味 永山悦子

 日本で見つかった最大の隕石(いんせき)は、現在の岩手県陸前高田市に落ちた「気仙隕石」だ。江戸後期の1850年6月13日明け方、寺の前の畑に落下した。全長約50センチ、重さ約135キロもあった(研究などで削られ今は106キロ)。

 気仙隕石がすごいのは大きさだけではない。当時、気仙郡の役人だった家に伝わる古文書に、落下日時や飛来方向、落下時の様子などが詳しく記録されていたのだ。隕石は、落ちた後しばらくしてから見つかるものや、地球へ飛び込む光跡だけ確認されるものが多く、落ちたときの情報と隕石そのものが一緒に残るのは貴重という。

 そして、現代の日本。今月2日未明、関東地方を中心に衝撃音とともに満月より明るい火球が観測された。それを見守っていたのが、アマチュア天文家たちの観測網「SonotaCO Network(ソノタコネットワーク)」だ。夜空で動くものを自動撮影する独自のソフトを使ったネットワークのカメラなど、兵庫県~東京都の9カ所でとらえた火球の動画から隕石の軌道を推定し、「千葉県北西部に落ちた可能性がある」と発表した。

 その通り、同県習志野市内で二つの小さな石ころ(計133グラム)が見つかったのは驚きだった。国立科学博物館の分析で、正真正銘の隕石と確認。「習志野隕石」と名付けられる予定だ。

 火球の観測結果から隕石の軌道を解析し、ものまで回収できたのは世界でも珍しい。世界でこれまでに見つかった隕石は益6万個。そのうち精密な軌道がわかっているのは20個あまりという。

 自らもネットワークに参加する流星研究者の阿部新助・日本大准教授は「火球の観測から即座に軌道を決定し、隕石発見に貢献したのは国内初。国際天文学連合が、世界中の研究者へ速報を出したほど価値のある成果だ。」と話す。

 軌道が分かればその隕石の「ふるさと」の特定も可能になる。すでに習志野隕石の母天体候補として、三つの小惑星が挙がっている。小惑星の物質を手に入れるには、探査機「はやぶさ」や「はやぶさ2」のように直接訪れる方法もあるが、同ネットワークは今回の成果を「人為的ではないサンプルリターン(試料採取)」と呼ぶ。

隕石の詳しい観測が宇宙のかなたにある小さな星の解析にまでつながるとは、気仙隕石の観測者は思いもよらなかったに違いない。(オピニオングループ)

 

日本で見つかった最大の隕石は「気仙(けせん)隕石」だそうです。

http://www2.pref.iwate.jp/~hp0910/tenji_floor/kore_naani/c_04inseki.html



この記事に「軌道を解析し、ものまで回収できたのは世界でも珍しい。軌道が分かっているのは6万個中たった20個あまり」と書かれています。習志野隕石を開設した動画がもうアップされています。

 

 

 

 

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習志野歴史散歩:習志野は何藩の領地だった?

2020-07-22 00:02:11 | 歴史

習志野は何藩の領地だった?

 江戸時代、習志野は何藩の領地だったのか、というご質問をいただくことがあります。今日はこの問題を考えてみることにしましょう。

鷺沼村の医者が書いた「渡辺東淵雑録」にクジラやハレー彗星や疫病の話が出てくる

 江戸時代も末の頃、鷺沼村に渡辺東淵(わたなべとうえん)というお医者さんがいました。文政7年(1824)から安政6年(1859)まで36年間にわたって近隣の日々の出来事を克明に記録しており、「渡辺東淵雑録」と呼ばれています。原文は『習志野市史』史料編で見ることができます。鷺沼海岸に鯨が現れたことやハレー彗星が見られたこと、安政の大地震のことなど、貴重で面白い記録になっているのですが、やはりお医者さんですから、天然痘や赤痢など疫病の記録がしばしば見られます。

(クジラの唄:習志野市史資料編より)

(鷺沼にクジラがあがった話)
https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/shizen/walk/sansaku/h13/sansaku050.html

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津田沼の東漸寺17(渡辺東淵)

爺  三橋権四郎家は、渡辺東淵の雑録によると、天保時代に火災があり、そのあと建てられた家らしい。 由香  またまた、話がそれて恐縮ですが、渡...

津田沼街道を歩く

 

船橋にコレラが出たとき、鷺沼の殿様が「芳香散」という薬を村に配った

幕末にはコレラが流行します。安政の不平等条約が結ばれた安政5年(1858)、長崎に寄港したアメリカ軍艦ミシシッピ号の乗組員からコレラが広がります。夏には江戸で大流行し、3万人とも一説には20数万人ともいわれる死者が出るのですが、「異国船撃つべし」「異人斬るべし」と攘夷(じょうい)派がいきり立ったのはこれが原因だと言われています。

 「東淵雑録」にも、船橋ではコレラで、漁師町で多くの死者が出たことが書かれているのですが、今日注目したいのはこの時、「御殿様より芳香散(ほうこうさん)を村中へ下さる」と記されていることです。鷺沼村を領している殿様が心配して、芳香散という薬を村にくれた、というのですが、この殿様とは誰でしょうか。鷺沼源太なのでしょうか。
(「東淵雑録」に見る幕末の災害)
https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h18/sansaku088.html

(芳香散の作り方)
その6 暑中、コレラが襲う

(でも、芳香散の効能は胃もたれ、むかつき、胸やけなど。コレラの特効薬ではなかった)
幕末の伝染病と、杢左衛門の表彰

明治の廃藩置県で、熊本藩士だった佐々布貞之丞が、習志野も含めた下総のトップになる

 よく「廃藩置県」と言うもので、江戸時代の村々は必ずどこかの藩に属していたのだろうと思っている方が多いのですが、そうではありません。いわゆる藩領というのは大名領ですが、他に旗本領、幕府直轄の天領、寺社領などが複雑に入り組んでいました。一つの村を数人の旗本で相給(あいきゅう。その村から上る年貢を数家で分ける)などという場合すらあります。また、現在の都道府県のように一つの面としてまとまりがあるものとも限らず、所領があちらこちらに飛び地になっていることも珍しくありません。例えば、東京の世田谷・豪徳寺あたりは彦根藩(滋賀県)、井伊家の所領でした。

 廃藩置県の状況がよくわかる資料として「旧高旧領取調帳」(きゅうだか きゅうりょう とりしらべちょう)という資料があります。現在はネット上で誰でも簡単に閲覧できるようになっています。

https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param%2Fkyud%2Fdb_param

 これは明治政府が各府県に作成させたもので、おおむね幕末の慶応年間から明治4年(1871)の廃藩置県までの状況を示しているものと考えられます。取調帳の原本は内務省地理局に保管されていましたが、関東大震災ですべて焼失してしまいました。それでは早速、習志野市域の村々を見てみることにしましょう。

下総国千葉郡

    ・名耕地新田は市立一中の周辺、現在は奏の杜(かなでのもり)地区
 ・屋敷は千葉郡馬加(まくはり)村の一部で、やはり代官支配所から佐々布貞之丞(さそうさだのじょう)へ移管されています。明治になってから まず目を引くのは、廃藩置県後にこれらの村を領した「佐々布貞之丞」という人名でしょう。鳥羽伏見の戦いに勝ち江戸城に入った明治新政府は、慶応4年(1868)8月、下総国の中にあった旧幕府領を管理するために、肥後熊本藩士だった佐々布貞之丞直武(なおたけ)を下総知県事※(しもうさ ちけんじ)に任じます。
※「知県事」とは、明治元年に置かれた県の長官職。その後「県知事」と改称。

江戸薬研堀(やげんぼり)に仮事務所を置き、下総国内の治安維持には熊本藩兵を充てました。 しかし、半年もしない翌明治2年(1869)1月には下総知県事に代わる本格的な行政組織として葛飾県が設置され、明治4年(1871)にはこれが印旛県に編入されます。明治6年(1873)6月15日に、印旛県と木更津県を統合し千葉県が生まれます。また、現在の千葉県域にはもう一つ、現在の茨城県域にまたがって新治県(にいはりけん)がありましたが、これは明治8年(1875)5月に分割され、下総国に属する香取(かとり)・匝瑳(そうさ)・海上(かいじょう)の3郡を千葉県に編入しました。こうして現在の千葉県の姿ができたわけです。その前、江戸時代に領主だったのは、大久保原太郎ら4人の旗本  
 次に、佐々布知県事に移される前の状況を見てみると、大半は「代官支配所(しはいじょ)※」となっています。
※あとで(この投稿の真ん中辺で)詳しく説明しますが、江戸時代、遠国(おんごく)奉行や代官を派遣して治めさせた幕府の領地のこと。

 領主の名前が書かれているのは、大久保原太郎(谷津村の一部と鷺沼村)、金田鏺之助(久々田村の一部。なお、金田の名は「はつのすけ」)、吉田牧庵(藤崎村)、山崎金橘(実籾村の一部)の4人です。これらは旗本ですね。また、上の表の一番右の旧高というのは、これらの村の収穫を石高で示したものですが、実際の収穫高ではなく、原則として江戸時代初めの検地で定められた収穫高(表高おもてだか、といいます)です。その後の農業技術の進歩で実収(内高うちだか)は増えているのが通例で、「天保6年改増」「文久3年改増」というのは、それに応じて数字の見直しがあったことを示しています。そして、こうした村の収穫高に対して、「4公6民(4割を年貢として徴収)」とか「5公5民」とかいって年貢を納めさせたわけです。

将軍に会えるのが大名(1万石以上)と旗本(1万石未満)。将軍に会えないのが御家人。
旗本は将軍直属の部下(直参じきさん
 
 ここで一つの知識として、大名と旗本、御家人(ごけにん)の違いは何でしょう。大名というのは石高(こくだか)1万石以上をいいます。これが領している領地が藩領です。旗本は1万石未満で、将軍にお目見えがかなう者、御家人はそのお目見えがかなわない者(おおむね20石未満)とされています。また、時代劇などで「大身(たいしん)のお旗本」というのが出てきますが、大身とは3千石以上で旗本寄合席の身分を有する者、または2千石以上で守名乗り(かみなのり。「〇〇守」を名乗れる者)ができた者とされています。 なお時代劇ではよく、旗本は「天下の直参(じきさん)」などと言って威張っています。大名の家臣は、将軍から見れば「家臣の家臣」になります(これを陪臣(ばいしん)と言います)。それに対して旗本は将軍に直接仕える直参だ。お前の主君である大名と同格なのだぞ、と威張ってみせているわけです。
コレラの薬を配った殿様は、旗本の大久保原太郎
 では、大久保原太郎や金田鏺之助がどのくらいの旗本なのか、旧高旧領取調帳を使って見てみましょう。大久保原太郎は谷津村の一部201石余と鷺沼村187石余、計389石余で、他に領地はないようです。金田鏺之助は久々田村の一部の他に、武蔵国埼玉郡船越、同郡下新郷、上総国望陀郡林、同国市原郡山田橋、下総国千葉郡畑、同郡検見川、同郡曾我野に領地を持っています。計771石余になります。吉田牧庵は藤崎村の他に、下総国千葉郡検見川、同郡犢橋(こてはし)に領地を持っています。計772石余になります。山崎金橘は実籾村の一部の他に、下総国千葉郡曾我野、同国香取郡大久保、同郡吉田、同国匝瑳郡井戸野、下野国簗田郡久保田村、下野国足利郡利保村に領地を持っています。計946石余になります。 こうした旗本は、それぞれの村から年貢を取り、それぞれの村の訴えを聞いて、その土地を治めていたわけです。「渡辺東淵雑録」に出てくる、コレラの流行を見て村に芳香散をくれた御殿様というのは、したがって大久保原太郎であろうと考えられますね。 『青窓紀聞(せいそうきぶん)』という尾張藩の記録に、元治(げんじ)元(1864)年11月10日のこととして、小笠原摂津守を兵庫奉行に任ずることになり、同組頭(くみがしら:中間管理職)は大久保原太郎なり、と書かれています。安政の条約で兵庫、つまり現在の神戸港の開港が予定されていましたが、この年、初めて兵庫奉行を置いて、開港に取り組むことになります。その配下の組頭として大久保原太郎の名が見られるのです。鷺沼村に芳香散をくれた6年後のことです。幕末の大波は、こうしてひしひしと鷺沼村にも及んでいたことがわかりますね。 
代官支配所とは、幕府直轄の「天領」など
 
国定忠治の代官斬りとか「お代官様、お願ぇだ」、あるいは悪代官が「おぬしもワルよのう」と、時代劇やマンガではおなじみの代官ですが、どういう職務の人なのか、何に代ろうとしているのかと言われると、きちんと説明できる人は少ないかも知れませんね。先ほど触れたように、大名や旗本の領地の他に、幕府直轄領として幕府の財政を支えている村があります。これを天領といいます。また、大久保原太郎らよりもっと禄高の少ない旗本は、実際に領地を治めると言っても大変です。そこで、天領や小禄の旗本領を領主に代って現場で治める者として、郡代や代官が置かれました(郡代と代官の職務は同じですが、代官は5万石から10万石程度を治め、郡代となると10万石以上の、比較的広域の天領を支配していました)。代官も郡代も、勘定奉行の支配下におかれています。
 なお、この幕府の制度にならって、諸藩でも藩領内の直轄地を治めるために代官を設けていることがあります。冒頭に述べた東京の世田谷には、ボロ市で有名な大場代官屋敷というのがありますが、これは幕府の代官ではなく、彦根藩が遠く離れたこの飛び地を治めるために大場家を代官にしたものです。
 習志野市域の、「旧高旧領取調帳」に代官支配所と書かれている所は、天領あるいは小禄の旗本領であって、実際には代官が治めていたわけです。
武士は米を「禄(ろく):給料」としてもらい、それを換金して暮らしていた 
 ここで再び、武士の禄高について見ておきましょう。まずお米の単位のことですが、1石は10斗、10斗は100升、100升は1000合とされます。一人の人が1食にお米1合、1日で3合食べるとすると、1石、つまり1000合とは一人の人の1年分ということになります。なお、この1石が獲れる田の面積を1反(たん)と言います。 また「俵ひょう」は、4斗を1俵とします。もし「4公6民」の年貢であれば、1反の田から1石すなわち10斗の米が収穫され、その内4斗を俵に詰めて年貢として領主に送るわけです。100石取りの旗本であれば、領地から100石の米が収穫され、その内40石、俵にして100俵の年貢を得ることができることになります。 次に、「蔵米取り(くらまいとり)」と言って、小禄の旗本や御家人の場合、上のように領地の収穫の石高ではなく、実際に幕府から支給される給与の額をお米で表現します。これも時代劇でお馴染みの「30俵2人扶持(ににんぶち)の御家人」というと、御家人の年俸として30俵、つまり12石の米がもらえる。そしてその他に、家来2人を雇うための手当として1日あたり1升の米(扶持米:ふちまい)が加給されます。小禄の下級旗本はいちいち領地に赴くことはなく、年貢は代官が代りに徴収した上で、こうして幕府から給与としてもらっていたわけです。もちろん米だけもらっても暮らせるわけではなく、食べる分以外は売って、現金に換えたわけです。江戸の蔵前には、給与の支給日に本人に代って米を受け取り、換金してくれる「札差」(ふださし)という商売がありました。
(札差)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B7%AE

幕張には代官屋敷があったけど、習志野にはなかった? 
 ところで代官というと、韮山代官(伊豆)とか甲府代官(山梨)、五條代官(奈良)など、代官所にいて現地を治めているのが普通です。では、習志野市域の村々を治めた代官は、どこの代官所にいたのでしょうか。千葉市立幕張小学校の所に「馬加代官屋敷」(建物は加曾利貝塚公園に移築されている)があったというのですが、ここにいたのでしょうか。
(馬加代官屋敷)
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_makuwaridaikan_tiba.html 馬加(まくはり)代官屋敷は代官の大須賀家が、馬加村にあった「与力(よりき)給地」を治めていました。習志野市域の代官ではありません。せっかくですので与力給地について説明しておくと、江戸の町奉行所与力に給与を払うための幕府直轄領です。与力は南町・北町の各奉行所に25名ずつおり、一人200石ずつ給せられていました。50名で計1万石の知行、そこから4000石ほどの収入を得ていたことになります。 馬加村※にはその内、北町奉行所の給地がありました。「遠山の金さん」に出てくる北町与力の給与は、幕張の田んぼから生まれていたのですね。また、青木昆陽が幕張で甘藷(かんしょ:さつま芋のこと)栽培を試みたりしたのも、町奉行所の支配地だったからでしょう。
※馬加(まくはり)が幕張(まくはり)になった
馬加城と三山七年祭 - 薔薇の古城

結論:習志野の代官は江戸城の中にいた! 
 話を元に戻して、習志野市域を治めた代官はどこにいたのでしょうか。実は習志野のように江戸に近い所については、代官は現場に代官所を作ってそこに赴任するのではなく、江戸城の中にいました。具体的には勘定所(かんじょうしょ:長は勘定奉行。町奉行のように「勘定奉行所」とは言わない)の中で、10名前後の代官が担当地域を分けて執務していました。代官には下級旗本が任命され、徴税(地籍調査・年貢徴収)だけでなく、人別改メ(にんべつあらため:人口調査)、土木普請、救貧などの行政と、治安維持、民事裁判、軽犯罪裁判などを扱っていたのです。また、現場の巡察などは、代官の配下にいる関東取締出役(かんとうとりしまりでやく、いわゆる「八州廻り」)に任せることが多かったようです。 したがって、習志野の代官は江戸城の勘定所にいた、というのが正解です。

(追記)
 私の投稿をお読みいただいた佐藤純一さんからコメントをいただきました。有難うございます。

➀いただいたコメントの中で佐藤さんは「(習志野は)旗本が領する天領だった」と書かれていますが、「天領」と「旗本領」は別物になります。
「旗本が領する」のが「旗本領」、一方幕府の直轄地である「天領」を代官(旗本)が将軍の代りとして納めるのが「代官支配所」です。ややこしいですね。
 習志野市域は「旗本領と天領に分れていた」、あるいは「旗本4家の領地と代官支配所に分れていた」というべきなのですが、代官支配所の中には4家(大久保、金田、吉田、山崎)以外の、微禄の小旗本領が含まれているであろうところが混乱の元ですね。

➁佐藤さんがおっしゃっている新潟の代官所は「水原(すいばら)代官所」

http://www.city.agano.niigata.jp/site/kankou/70.html

といいます。勝海舟の親父の小吉(こきち)が若い頃、実兄(男谷彦四郎思孝 おたに ひこしろう ひろたか)が代官所勤めになり、一緒に越後まで付いていく話があります(「夢酔独言(むすいどくげん)」)。検見(けみ:地籍調査)の際、一番悪い田を基準地に選んで測量竿を入れてやったら百姓らが嬉しがった、とあります。その方が年貢が少なめに出るわけですね。
(ニート太公望)

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選挙の活性化「愛知発の試みに注目」(朝日新聞社説)を読んで(市民投稿)

2020-07-21 16:30:40 | 投稿

(市民からの投稿です) 

21日の朝日新聞社説
 選挙の活性化「愛知発の試みに注目」読みました。

 愛知県新城(しんしろ)市では、次の市長選から、立候補予定者による「公開政策討論会」を、市が主催して開くという条例が施行されたそうです。

詳しいことは転載された記事をお読みいただきたいのですが、習志野市でも取り組むべきだと気持ちが奮い立ちました。

そして、思い出しました。

十数年前だったか、数十年前だったか、今は取り壊された市民会館でおこなわれた立ち合い演説会です。

市長選だったのでしょうが、そのあたりの記憶はありません。

そんな時代もあったんだ…です。

 

習志野市には「いい市長がいない!」と誰もが口々に言います。

いい市長ってどんな市長でしょうか。

私たち市民にとって必要な市長、いい市長は、市民が育てていくものだと私は考えています。

そこで常に問い続けることは、市民にとって必要な市長、いい市長とはどういう市長かということです。

常に市民の側に立ち、市民の目線でものを見、24時間、市民のために動く市長。

「そんな人はいないよ」。

そうでしょうか。

探そうとするから「いないよ」なんです。

つくればいいんです。育てていけばいいんです。そんな市長を!

こうして言うのは簡単です。

でも言うだけでは無責任ですね。

いい市長にしろ、悪い市長にしろ、その市長イコール市民です。

私たちは選挙にしても、選挙活動にしても、従来の枠の中でしか考えようとしません。

愛知県新城市のように市が主催しての「公開政策討論会」を開くよう、市へ働きかけ(200%無理でしょうが)、ダメなら市民主催の「公開政策討論会」が開けるようしていきたいと思いませんか?

こうした場に来ない立候補者は、何の政策も持っていないと自己申告したようなものだと、本人にも市民にも気づかせるために、設けなければならない会ではないでしょうか。

朝日新聞の記事に押されての雑感です。

本大久保/戸田志香

 

(以下、朝日新聞社説の内容です)

(社説)選挙の活性化 愛知発の試みに注目:朝日新聞デジタル

 愛知県の東部、人口約4万5千人の新城(しんしろ)市で全国初というユニークな条例が施行された。

 次の市長選から、立候補予定者による「公開政策討論会」を市が主催して開くこととし、その手続きなどを定めた条例だ。予定者の政策とそれを実現する方策について、市民の理解を深めるのが目的とされる。

 民主主義を実のあるものにするには、有権者一人ひとりが選挙に関心をもち、自分たちのリーダーを責任をもって選ぶことが欠かせない。この試みがどんな効果を上げるか。他の自治体はどう反応するか。今後の動きに注目したい。

 同市では長年、地元の青年会議所(JC)が討論会を開いてきた。だが会員数が減って支えきれなくなり、17年の前回市長選では立候補予定の3陣営共催で何とか実施にこぎつけた。

 条例はこれを「公営化」するもので、
▽告示前日までに行う
▽参加するか否かは立候補予定者が判断する
▽日時や場所は、有識者らの意見を聞いて市長が決める
▽議題の決定にあたっては各予定者からの提案を尊重する、などとなっている。

 政治に興味があっても、候補者の人柄や細かな政策を知るのは容易ではない。選挙公報は抽象的な訴えが並ぶ場合が多いし、陣営が個々に開く演説会に出向くのは結構な負担だ。

 これに対し公開討論会が催されれば、人となりを肌で感じる機会が増える。地域のケーブルテレビやインターネットによる中継を通じて、気軽に政見を見聞きできるようになる。

 90年代に始まった公開討論会だが、近年減る傾向にある。活動を支援するリンカーン・フォーラムによると、統一地方選と参院選が重なった07年に233件開かれたが、同じ条件だった19年は144件にとどまった。

 進行がパターン化して緊張感が薄れたり、参加しない候補者がいたりすることに加え、中心的な役割を担ってきたJCの取り組みに、地域によって差が出てきたという事情がある。

 「公営」には懸念もつきまとう。現職市長やその後継者に対し、有利な取り計らいがされないか。条例で公平公正をうたっても、かけ声倒れに終わるのではないか――などだ。

 外部識者の意見も採り入れた周到な準備が求められるが、もしゆがんだ運営がされれば、その事実も含めて市民が投票の判断材料とし、市側に改善を迫ることが必要となろう。

 大切なのは、候補者を比較・吟味する多様な機会をつくり、投票の質を向上させることだ。そのためにどんな知恵を出し、工夫を凝らすか。自治体間で競い合ってもらいたい。

 

 

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旧庁舎跡地検討委員会は全く市民目線を欠いた委員会だった(市民投稿)

2020-07-20 17:20:39 | 旧市庁舎問題

(市民からの投稿です。記事の中で、「習志野市民フォーラム」ブログの記事も引用させていただきました)

旧庁舎跡地活用検討委員会(平成31年3月20日~令和2年7月10日まで)全6回を傍聴して          
  特別傍聴人 大下

一言で言うと、全く市民目線を欠いた委員会であった。
(委員会のあり方・市民との協働・市民参加の委員会になっていない)

※委員一覧、議事録等は市のホームページでご覧になれます。

https://www.city.narashino.lg.jp/joho/keikaku/seisakukeiei/atotikatuyou/kyuucyousyaatochikentouiinkai.html

第1回〔平成31年3月20日)
 「最初から結論ありき」である。
旧庁舎跡地の処分(財源化)を公言する市長は、第1回会議の挨拶で将来にかかわる施策の大きな財源にしたいと述べ
市側が配布した資料にも「財源化を前提とした有効活用にについて検討」するのが、検討委員会の役割、と書いてある。
つまり「検討委員会は、旧庁舎跡地を財源化(売却か貸し出し)をするのが良いかどうか検討するのでなく、市長が望む財源化、という結論を出すのが役割」としてしまっている。

これでは身も蓋(ふた)もない、と委員からも反発があったため、第2回の資料では「売却が決まっていることはない。本委員会でどのような手法が適切か方向性を導いていく」という記載になったのに、結局第1回から6回までに、財源化が良いかどうかは議論されず、市側が検討(案)を作成してしまった。

OGPイメージ

第1回旧庁舎跡地活用検討委員会(売却ありき?) - 習志野市民フォーラム

検討委員の公表も長らくなされなかった旧市庁舎跡地活用検討委員会の第1回委員会が3月20日に開催されました。市は売却か貸付ありきの方針に従った...

第1回旧庁舎跡地活用検討委員会(売却ありき?) - 習志野市民フォーラム

 

第2回(令和元年5月27日)
10名中、市民2名(公募)は少なすぎる-公募選考に問題がある。他2名は地域代表、6名は利害関係者である。(市に都合のいい人を選択)

途中、令和元年11月に市民2名のうち1名が退任(理由不明)したのに、補充されなかったのも問題。これでは「市民」の声を聞いたことにならない。

OGPイメージ

旧庁舎跡地活用検討委員会傍聴記 - 習志野市民フォーラム

5月27日に旧庁舎跡地活用検討委員会が開催されました。傍聴された方の記録を掲載します。特別傍聴人の意見書は取り上げられなかったそうです。旧庁...

旧庁舎跡地活用検討委員会傍聴記 - 習志野市民フォーラム

 

 

第3回(平成元年7月11日)
誰でも傍聴できるよう、委員会開催日を広報に載せるよう再三依頼したが、実現しなかった。(ホームページにだけ載せた)

市民委員に応募したが、委員に選任されなかった市民数名を「特別傍聴人」とし、「会議後20日以内に、委員会に対する意見があれば市に提出できる」としたが、人数が少なすぎる。改善を提案したが、無視された。
「特別傍聴人」は必要ないと思う。誰でも傍聴でき、誰でも意見を市に提出できるようにすべきだった、と思う。

OGPイメージ

第3回習志野市旧庁舎跡地活用検討委員会(7月11日) - 習志野市民フォーラム

第3回の旧庁舎跡地活用検討員会が7月11日に開催されます。傍聴は10名までとされていますが、検討委員会に応募して落選した人は「特別傍聴人」と...

第3回習志野市旧庁舎跡地活用検討委員会(7月11日) - 習志野市民フォーラム

 

 

OGPイメージ

第3回旧庁舎跡地活用検討委員会内容 - 習志野市民フォーラム

7月11日に旧庁舎跡地活用検討委員会が開催されました。傍聴された方の記録を掲載します。市長は千葉日報のインタビュー記事でも売却か貸付と述べて...

第3回旧庁舎跡地活用検討委員会内容 - 習志野市民フォーラム

 

第4回(令和元年9月30日:ただし、佐倉市への視察。傍聴もない)
委員会は事務局から指示されるとおりにやっている。これでは委員の意味が無い。

第4回習志野市旧庁舎跡地活用検討委員会 - 習志野市民フォーラム

第4回目の検討委員会が開催されます。市長は売却・貸付ありきと表明していますが検討委員会の委員はこの市長発言をどうとらえるのでしょうか。市庁舎...

第4回習志野市旧庁舎跡地活用検討委員会 - 習志野市民フォーラム

 

第5回 (令和2年2月18日)
特別傍聴人が提出した意見書への回答は事務局が作成したものであり、委員がこれを追認する。これでは、跡地利用について検討するのが、検討委員会の委員なのか、事務局(市の職員)なのかわからない。

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第5回旧庁舎跡地活用検討委員会・委員会メンバーが1名減!? - 習志野市民フォーラム

習志野市のHPに第5回習志野市旧庁舎跡地活用検討委員会が2月18日に開催されるとのお知らせが掲載されています。委員会メンバーも掲載されていま...

第5回旧庁舎跡地活用検討委員会・委員会メンバーが1名減!? - 習志野市民フォーラム

 

 

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旧庁舎跡地活用検討委員会第5回会議(2月18日)委員も市長の売却方針には異議? - 住みたい習志野

習志野市長はこれまで市庁舎の旧跡地は売却(財源化)する、と市議会や新聞へのインタビューで言明してきました。こうして市民の貴重な財産を次々に売...

旧庁舎跡地活用検討委員会第5回会議(2月18日)委員も市長の売却方針には異議? - 住みたい習志野

 

(市への意見書に市が回答)

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市役所旧庁舎跡地「売却」はずっと前から決まっていた?市民の疑問に市が回答 - 住みたい習志野

市役所新庁舎の向かいにある広大な市役所旧庁舎跡地は市民の大事な財産です。一等地であるこの土地をどう市民のために使うかは、市の今後を左右する大...

市役所旧庁舎跡地「売却」はずっと前から決まっていた?市民の疑問に市が回答 - 住みたい習志野

 

第6回(令和2年7月10日:最終)
委員からの様々な感想意見があった。
「市民一人一人が納得するようなプロセスが大事」「情報公開が大事である」「6回の委員会は少なかった。もっと議論すべきだった」等まっとうな意見があった。

1回目からの会議でこういうことを提案し、活かしてもらいたかった。

(以下第6回検討委員会の内容です:特別傍聴人が作成)

第6回旧庁舎跡地活用検討委員会                   2020.7.10 10:00~11:00

次第
1.開会 高山委員は欠席
2.報告
(1)特別傍聴人からの意見の取扱状況について
  特別傍聴人4名のうち2名より意見があった。(別紙)
3.議事
 (1)検討報告書(案)について

   今回の修正した報告書(案)(前回分より)の変更について各委員からの意見を求める。事務局でとりまとめている。

   まず、事務局の星野課長から前回よりの変更点(赤字部分)を読み上げる

   変更点について意見なし。全般についての意見は

 <鈴木委員> p9、4 活用方法について

習志野文化ホール(40年以上の老朽化、野村不動産が所有で周辺一帯を見直す建て替え・協議中)がなくなった場合は?記載(変更記入)は委員長にまかせる。

 <三代川委員> p12.2防災機能について

大地震等の避難場所が更に必要と考える。昨年の台風時には5千人の避難者が来て、どうしていいかわからない状態だった。災害に対して関心が少ない。よかったな、という避難場所を考えるべきだ。

 <星野資産管理課長> 
今の件は危機管理課が担当。建て替え等を資産管理課が担当。公共施再生計画、国からの防災資金を活用している。

 <三代川委員>

他の市では防災公園があるところがある。準備をしておかねばいけない。長期的な考えのもと、防災計画を考えて欲しい。

 <吉田委員長>

防災をわかり易く記入することでどうでしょうか。松丸副委員長と相談します。市の計画を入れて報告する。

意見については、習志野文化ホール、防災についての2点。
今回が最終日となる。報告書(今回の修正をした)を市長に渡して任期満了となる。委員長と松丸が提出する。

4.その他

 各委員の感想

  <色川委員> 多様な意見があった。信頼ができた。

       コロナについて、IT・デジタル化、働き方

  <鈴木委員> いい経験だった。

  <脇田委員> 何ができるか考えた。生活様式が変わってきた。習志野市のまちづくり

  <三代川委員> 防災について、いい方法を考えてもらいたい。

  <那須委員> 報告書(案)にまとまっている。市長に報告する前に修正した報告書を各委員に渡すのか?

  <星野資産管理課長> 各委員に渡し、確認する。

  <那須委員> 途中からコロナが発生し、深刻になっている。市民一人一人が納得するようなプロセスが大事。情報公開が大事である。

  <中尾委員> 途中4月から参加。コロナ等色川委員がいった通りです。

  <松丸副委員長> 6回の委員会は少なかった。もっと議論すべきだった。少子高齢化、多世代の交流、お年寄りにがんばって欲しい。

  <吉田委員長> 人口減少、税収が減っていく。社会保障費が増していく。財政が厳しい。

 

事務局 本日が最終回です。

    解体工事 第1期 12月20日まで 第2期 令和4年まで

 11:00終了

 

(傍聴を終えて、最後に)
私は市及び委員会に第三者性(中立性)、独立性(公平性)、専門知識をより強く求めてきましたが、市民無視の残念な委員会でした。


(編集部より)
下記の記事もご参照ください。
「旧市庁舎問題」のブログ記事一覧-住みたい習志野

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