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習志野歴史散歩:習志野にも来た伊能忠敬の日本地図が世界史を動かした

2020-07-15 01:40:43 | 歴史

習志野にも来た伊能忠敬(いのうただたか)の日本地図が世界史を動かした

伊能忠敬の一行が習志野市にも来た

 鷺沼館の源頼朝が出陣してから600年ほど後、江戸時代も終りに近い享和元年(1801)6月20日、谷津から鷺沼にかけて、再び見慣れない一行が通り過ぎました。それは伊能忠敬(いのうただたか)の測量隊でした。

 前夜、行徳の名主(なぬし)、惣右衛門方に宿泊した一行は、船橋を経て現在の習志野市域に差しかかります。谷津、久々田、鷺沼と難なく進み、幕張(馬加)を経てこの夜は検見川村の清治郎方に宿を取っています。

 この享和元年の測量旅行(第2次測量と呼ばれます)は三浦半島から始まって伊豆半島、いったん江戸に戻って房総半島から東北地方の太平洋岸を通り津軽半島まで、230日間に及びました。

 ともあれ、忠敬が作った『大日本沿海輿地(えんかいよち)全図』、いわゆる伊能図に描かれた習志野市域の様子を見てましょう。

「沿海輿地」(えんかいよち)とあるとおり海岸線を測量しただけのもので、内陸の様子まではわかりません。また、この区間の海岸はほぼ真っすぐですから、すぐに測り終えたものと見えます。しかしそれでも、当時の技術で正確に測量するのは何とも大変なことだったでしょう。

婿(むこ)養子で家業を繁栄させ、天明の大飢饉では人々を救う

 伊能忠敬(1745~1818)は言うまでもなく、千葉県が生んだ偉人です。現在の山武郡九十九里町の名主・小関五郎左衛門の家で生まれ、香取市佐原にある酒造業、伊能三郎右衛門の家に婿入りし家業を繁盛させただけでなく、佐原村の名主を勤めました。時あたかも天明の大飢饉でしたが、私財をなげうって地域の人々を救済したそうです。

50歳で隠居、天文学を学ぶ。地球の大きさを正確に知るため、日本地図作成へ

 しかし寛政7年(1795)、50歳を迎えて家督を長男に譲ると江戸に出ます。深川黒江町(現在の江東区門前仲町1-18-2)に居を構えて一念発起、幕府天文方・高橋至時(よしとき)の弟子となるのです。忠敬は19歳も年下の師匠、至時に師弟の礼をとり、熱心に天体観測を学んでいましたが、観測の精度を上げ、地球の大きさを正確に知るには、観測地点の正確な緯度・経度を知る必要があることに気が付き、至時と二人、正しい日本地図の作成を志したのでした。また深川で忠敬は、お栄さん(大崎栄)という後妻を迎えます。残っている至時の手紙によるとこのお栄さん、何と漢詩・漢文に長け、四書五経(ししょごきょう:中国の古典)白文を苦もなく読みこなしたばかりか算術も出来たといいます。
(Wikipedia 大崎栄)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E6%A0%84_%28%E6%BC%A2%E8%A9%A9%E4%BA%BA%29
このお栄さん、コミック「猫暦(ねこよみ)」の主人公にもなり

映画「伊能忠敬―子午線の夢ー」では、賀来千香子さんが演じていました。

つい最近「習志野隕石」が話題になりましたが、伊能忠敬の天文学の先生、高橋至時は小惑星の名前にもなっています。
(Wikipedia 至時よしとき(小惑星))
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%B3%E6%99%82_%28%E5%B0%8F%E6%83%91%E6%98%9F%29

蝦夷(えぞ)地測量へ出発。データをもとにインテリ妻のお栄さんが地図を仕上げる

 さて至時は、まず蝦夷地(北海道)の測量を幕府に願い出て、その測量隊長を忠敬に命じます。既にロシア船も出没し、蝦夷地の全容を知ることは幕府にとっても急務になっていたからです。寛政12年(1800)初夏、深川の自宅から蝦夷地へ向けて出発した際、忠敬は55歳。内弟子3人、下男2人、それに測量器具を運ぶための人足3人、馬2頭という一行だったそうです。そして、現場から次々と深川に届けられる測量データを整理して地図に仕上げたのは、留守宅を守るお栄さんでした。なお至時はこの間、享和4年(1804)に若くして亡くなり、長男の高橋景保(かげやす)が天文方を受け継いでいます。

 こうして文化13年(1816)まで16年の歳月をかけ、10次に及ぶ測量旅行を敢行し、日本全国を測量。『大日本沿海輿地全図』の偉業を完成して、初めて日本の国土の正確な姿を明らかにしたのです。

 忠敬の地図は国土地理院のサイト

伊能図 | 古地図コレクション(古地図資料閲覧サービス)

で誰でも見ることができます。ご出身地が海辺だという方は、故郷がどのように描かれているか、一度検索して忠敬の偉業を偲んでみてください。

忠敬の一生について、以下のような動画があります。

世界史に複雑にからみあう「伊能図」のその後

 郷土史の話としては以上に尽きるのですが、もう少しお付き合いください。「隅田川の水ァ江戸湾に出て、世界の海につながってるんだぜ」という勝海舟のせりふではありませんが、ローカルな歴史は必ず日本全体の動きにつながり、世界の歴史に関係しています。本シリーズは毎回、特にそこに力点を置いて執筆していますので、習志野の、自分の足元をよく見つめ直してみたら、日本全体の、あるいは世界の歴史が見えてきた、という妙味を感じていただければと思います。

高橋至時(忠敬の師匠)の息子、景保はシーボルト事件で獄死

 忠敬が亡くなった際、伊能図はほぼ完成していましたが、お栄さんもほどなく亡くなったようです。弟子らが細部の調整をし、完全に仕上げて幕府に提出したのは3年後の文政4年(1821)のことでした。しかし幕府は、これを国防上の最高機密として封印してしまいました。ところが文政11年(1828)、高橋景保が密かにこれを持ち出し、長崎のオランダ商館付ドイツ人医師シーボルトに渡していたことが発覚します。シーボルトはスパイの疑いで国外追放、また景保は捕えられ獄死してしまいます。世にこれを、シーボルト事件と言います。

シーボルトの本「NIPPON」を読んで日本に来たペリー

 しかしシーボルトは、没収される前に伊能図をコピーしていました。彼は帰国後「NIPPON」という書物を著し、その中で伊能図を「日本人自らの原図および天体観測による日本国地図」として紹介しています。この「NIPPON」を読み、軍艦を率いて実際に日本にやってきた人物がいます。それは、アメリカのペリー提督です。

 嘉永(かえい)6年(1853)6月、浦賀沖に4隻の黒船が現れます。今で言えば突然東京上空に4機のUFOが飛来したような話で、上を下への大騒動になります。しかもまずいことに、12代将軍徳川家慶(いえよし)はこの騒動のさなかに亡くなってしまいます。幕末の混乱が始まるわけですが、実は幕閣中枢はいずれこうしたことが起こることは予知していました。

シーボルトがオランダ国王を動かし、日本に開国を勧める

 歴史に詳しい方はご存知だと思うのですが、アメリカやロシアの極東進出の勢いを見て、鎖国の間、唯一国交があったオランダの国王ヴィレム2世が天保15年(1844)、日本に自主的な開国を勧める親書を送ってきていたのです。ではなぜ、オランダ国王がわざわざそんな親書をくれたのでしょうか。国王を動かしたのはあのシーボルトだったのです。

シーボルトから情報を得ながら、シーボルトの警告に従わず、軍艦で日本を脅すペリー

 一方ペリーは日本遠征を行うに当って、「NIPPON」を読むだけでなく、シーボルトに手紙を送っていろいろ問い合わせをしています。それを受けてシーボルトは、私を日本に行く一員に加えよと要求するのですが、ペリーは「余計なおせっかいをするな」と一蹴してしまいました。

 ところでペリー艦隊というとよく、アメリカ大統領の国書をもって、親善使節として日本にやって来たと思われているのですが、それではなぜ、軍艦で来る必要があったのでしょうか。実はペリーは、砲艦外交、つまり日本など軍艦の大砲で脅かせば、簡単に屈服するだろうと考えていたのです。実際、もし日本が応じない場合は、まず琉球国を軍事占領しよう、小笠原諸島は米国領に編入しようということでフィルモア大統領の内諾を得ていました。シーボルトは、それが気に入らなかった。日本人は西欧とは違う文化を持っているが、決して野蛮人ではない。何よりも名誉を重んずるサムライに大砲など向けたら、大変なことになるぞと警告していたのです。

婦女暴行事件を起こしたペリーの部下が民衆に殺害された事件で沖縄を脅し、その勢いで浦賀沖にやってきたペリー

 ペリー艦隊は浦賀へ来る前に、まず沖縄に入ります。そこで琉球国王への面会を強要したり、早速こわもてぶりを発揮するのですが、そこで事件が起こります。上陸して仲間と那覇の町で酒を飲み歩いていた水兵ウィリアム・ボードは婦女暴行を働きます。するとそれを目撃して怒った人々に袋叩きにされ、殺されてしまいました(ボード事件)。ペリーは早速これを利用して、琉球国王に犯人の厳重処罰を申し入れて脅します。とても「親善使節」などではなかったことがよくわかりますね。そして、江戸幕府もこの調子でやろうと思いながら浦賀沖にやってきたのでした。

「伊能図」の水準の高さに青ざめたペリー、一旦引き上げる

 艦隊は、わざと江戸城が艦砲射撃の射程に入るようなところまで侵入して「礼砲」を発射したりします。また、ボートを降ろして江戸湾内の測量を始めます。軍艦が浅瀬に座礁しないよう、湾内の水深を測って海図を作ろうというのです。ところが、その測量ボートから驚くべき報告が入りました。この「NIPPON」に載っている地図は驚くほど正確だ。本当に日本人が作ったのか、というのです。どうせいい加減な地図だろうとタカをくくっていたペリーの脳裏に、この時、シーボルトの警告がよみがえりました。青ざめたペリーは幕府の役人に大統領の国書を渡すと、来年また来るから返事を用意しておけと言い捨てて、沖縄へと引き上げたのでした(なお、この時作られた海図は「ペリー提督日本遠征記」に載っていますが、海岸線はまったく伊能図を転写したものになっています)。

しかし翌年ついに開国、不平等条約を結ぶ

 ペリーは予告どおり、翌嘉永7年(1854)、再びやって来ます。ついに幕府が鎖国を断念し日米和親条約を、そして続く安政5年(1858)にはアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの5ヶ国と通商条約を結ぶことになります。日本には、貿易をコントロールする関税自主権も、外国人犯罪を裁く裁判権も与えられていない不平等条約、これは日本を野蛮国扱いしているものでした。条約を改正して、早く国際社会の中で平等な地位を得たい。これがその後、明治の日本人の悲願となります。

シーボルトの息子アレクサンダーが、不平等条約改正に一役

 ところでシーボルトですが、日本が開国した翌安政6年(1859)、長男アレクサンダー・フォン・シーボルトを連れて再来日します。シーボルト自身は文久元年(1862)、多数のコレクションとともに長崎から帰国し、その4年後に亡くなりますが、イギリス公使オールコックの通訳として日本に残ったアレクサンダーは、その後、明治政府のお雇い外国人として条約改正交渉をいろいろと助けてくれるのです。その結果、明治27年(1894)、イギリスとの間で新条約を結び、裁判権を回復することに成功したのです。シーボルト父子が、ペリーの高圧的、差別的な外交を批判していたことがよくわかります。アレクサンダー・フォン・シーボルトは「ジーボルト最後の日本旅行」という本も書いています。

シーボルトのもう一人の息子ハインリッヒも日本学者になり、日本女性と結婚

 なお、シーボルトにはもう一人、ハインリッヒという息子がいました(アレクサンダーの弟)。明治2年(1869)に来日し日本女性と結婚、駐日オーストリー=ハンガリー公使館の通訳になりますが、その一方で日本学者として父に劣らない成果を残します。なお、アーケオロジーのことを「考古学」と訳したのはハインリッヒだと言われています。

戦争に負けた日本の降伏調印式、ペリー艦隊の星条旗で力を誇示したアメリカ

 黒船来航から92年後の昭和20年(1945)、太平洋戦争は日本の敗北で終ります。降伏文書調印式場となった東京湾の戦艦ミズーリ艦上には、わざわざ博物館から運び出してきたペリー艦隊の星条旗(星の数は31)が飾られました。

ペリー艦隊が起こした悲劇は、今も沖縄で続く。シーボルトに日本は立派な文明国だと確信させたのは、忠敬とお栄さんが作った一枚の地図だった。

 沖縄ではいまだに、ボード事件のようなことが続いています。ペリーとシーボルト、本当に日本のことを考えてくれたのはどちらだったのでしょうか。そして、そのシーボルトに日本は立派な文明国だと確信させたものは、隠居後に猛勉強を始めた忠敬とあのお栄さんが作った一枚の地図だったのです。(ニート太公望)

(編集部より)

シーボルトが日本女性との間にもうけた「楠本イネ」は日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだ女性で“オランダおいね”と呼ばれました。シーボルトの異母弟、ハインリヒ夫婦とは同居をしていた時もあり、ハインリヒの長男(夭折)はイネが助産をしました。ポーラテレビ小説「オランダおいね」では丘みつこさんが演じ、NHK大河ドラマ「花神」では浅岡ルリ子さんが演じていました。

 

 

 

 

 

イネの娘、楠本高子は、その美しい容貌から、漫画家の松本零士さんが、「銀河鉄道999」のメーテルや「宇宙戦艦ヤマト」のスターシャのモデルにしたそうです。

 

 

 

 

                      メーテル(左)とスターシャ(右)

松本零士さんご本人は、次のようにおっしゃっています。

「私は子供の頃からドイツやヨーロッパ文化に触れる機会があり、ドイツの音楽に癒されながら育っています。それは私の先祖が、ドイツ人医師シーボルトと親交があったからです。シーボルトの子供達や孫達と親交があり、もしかしたら私はドイツ人の血が少しくらい混ざってるかもしれないと思う程、先祖と彼らとの写真がたくさん残っています。私の父なんてドイツ人みたいな顔していますから。
『宇宙戦艦ヤマト』の沖田艦長は私の親父がモデルです。さらにシーボルトの孫娘、楠本高子はとても美人で『銀河鉄道999』のメーテルや『宇宙戦艦ヤマト』のスターシャのモデルにした女性です。ドイツという国は、私にとって特別な思い入れのある国なのです。」

「まず中学のときに八千草薫さんの顔を自分好みに修正して描いたのがありました。これが後のメーテルなんかの顔にそっくりなんですよ。映画やディズニーからもいろんな刺激を受けました。『わが青春のマリアンヌ』のマリアンヌ・ホルトは、この顔がまた自分が憧れていた顔にそっくりでね」

「あと、四国の母親の実家の隣の寺から出てきた写真、シーボルトの娘のおいねさんの娘だったらしいんですが、これがまた八千草さんを修正して描いた絵に似ているんですよ。私の先祖も見ていたでしょうから、遺伝子というのはびっくりしますね」

 

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