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習志野歴史散歩:忘れられた金メダリスト(大久保の騎兵連隊にいたバロン西)

2020-07-27 15:18:09 | 歴史

忘れられた金メダリスト(大久保の騎兵連隊にいたバロン西)

 本来ならばオリンピックに沸いていたはずが、来年までお預けになってしまいました。オリンピックですから、開催国さえコロナが収まっていればそれでいいというものではないでしょう。来年に向けて、すべての参加国がコロナを克服し、選手たちが万全のコンディションで東京に来られることを祈らずにはいられません。オリンピック開催に関しては賛否両論があると思いますが…

金メダリストなのに「いだてん」に出てこなかったバロン西

 ところで、その東京オリンピックに向けて昨年放送されたNHK大河ドラマ「いだてん〜東京オリムピック噺〜」の中で、習志野市ゆかりの金メダリストがなぜかまるで無視されてしまい、ドラマの中に出てこなかったのにお気付きだったでしょうか。鈴木大地さん? いえいえ、戦前の話です。それは、昭和7年(1932)ロサンゼルス・オリンピックの馬術、障害飛越競技で金メダルを獲得した「バロン西」こと、西竹一(にし たけいち)です。

(バロン西のことを漫画にした「風と踊れ!」)

父は外務大臣、兄二人が亡くなり、男爵家を相続

 西は明治35年(1902)、男爵・西徳二郎(薩摩藩出身)の三男として東京・麻布に生まれました。父・徳二郎は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、明治31年(1898)の「西・ローゼン協定」(韓国に関する日露協定)などで知られています。

 竹一は正妻との間の子ではなかったため、学習院初等科では屈折した少年時代を送ったようです。しかし、明治45年(1912)に徳二郎が死去し、長男・次男は既に夭折していたため、竹一が男爵家を相続することになります。

ヨーロッパ社交界の花形になり、バロン(男爵)と呼ばれる

 大正6年(1917)、陸軍幼年学校に入校し軍人としての道を歩み始めます。その頃ヨーロッパでは、騎兵将校は貴族の子弟で占められていました。西も迷うことなく、騎兵を志望します。大正13年(1924)陸軍士官学校卒業(36期)。騎兵第1連隊(世田谷)に勤務の後、習志野の陸軍騎兵学校(現在の自衛隊駐屯地)で馬術の腕を磨くようになります。昭和2年(1927)には、騎兵学校を卒業して中尉に昇進。そして、公務で出張したイタリアで、ウラヌス号(ギリシア神話の天空神ウラノスに由来?)という馬を購入します。気性の荒い大きな馬だったそうですが、西はウラヌスを乗りこなし、ヨーロッパ各地の馬術大会で数々の好成績を残します。また上流階級の社交界では花形となり、「バロン(男爵)・ニシ」と呼ばれるようになりました。

帰国後大久保の騎兵連隊に。ロサンゼルスオリンピックで金メダル。

 帰国後は大久保の騎兵第16連隊に勤務しますが、昭和7年(1932)、ロサンゼルス・オリンピックにウラヌス号を駆って出場し、障害飛越で見事金メダルに輝きます。当時、黄色人種差別に苦しんでいたカリフォルニアの日系人は、メインポールに西が上げた日の丸を見て涙したと言われます。
(注)先ほど、大河ドラマ「いだてん」の中で、ドラマの中に出てこなかった、と述べましたが、ドラマの中には全く登場しなかったものの、番組の最後の「いだてん紀行」では「(アメリカにいた日系)一世の女性たちはみな西に恋していた」などと紹介されています。

(いだてん紀行より)

金メダルを取ったバロン西への大声援が、外にも聞こえました。

一世の女性たちはみな西に恋していた

こんなビデオもあります。



ヒトラーのベルリン大会で落馬。東京オリンピック中止で、世界は戦争の渦の中に

 翌昭和8年(1933)大尉に昇進。引き続き習志野で、騎兵学校の教官となります。昭和11年(1936)の、「ヒトラーのオリンピック」といわれるベルリン大会でもメダルが期待されましたが、残念ながら落馬、棄権に終りました。帰国後、騎兵第1連隊中隊長として西は習志野を去ります。そして昭和12年(1937)に日華事変(日中戦争)勃発。昭和15年に予定されていた東京オリンピックは中止となり、世界が戦争の渦の中に飲み込まれていったのでした。

城山三郎著「硫黄島に死す」という、西を主人公にした短編にはこう書かれています。
 習志野時代には、毎朝騎乗から帰ってくると、白い泡を口をとがらせて吹きとばし、一息でビールをあけたものだ。
 懐かしい習志野。だが、西はもう数年、習志野に行っていない。そこではすでに昭和十四、五年ごろから装甲自動車隊ができていた。

エルメスの乗馬靴にポマード頭のシャレ男。しかしやがて厄介者扱いで満州に

 外国語も堪能で欧米に友人が多い西。大金持ちで派手好き。エルメスの乗馬靴に、髪は坊主刈にせずポマードを光らせている西。ベルリンでは国民の期待に応えられなかった西…。陸軍部内で西は、この頃から次第に厄介者扱いされるようになっていったといいます。北海道十勝で軍馬を徴用する部署に勤めた後、満州に異動させられます。

太平洋戦争では戦車連隊隊長。そしてついに硫黄島へ

 また、騎兵という兵科は第一次大戦後、世界各国でもはや時代遅れとみなされ、日本では戦車や装甲車などの部隊に改編されるようになっていきました。これを「機甲化」といいます。やがて太平洋戦争が始まり、西は中佐に昇進、戦車第26連隊長として満洲北部、ソ連との国境防衛に当りました。しかしアメリカとの戦争は重大局面に陥り、昭和19年(1944)6月、ついに戦車第26連隊は小笠原諸島の硫黄島(いおうとう)※へ移動を命じられたのでした。
※硫黄島は旧来から「いおうとう」と呼ばれていましたが、戦後「いおうじま」と呼ばれるようになり、2007年に再び「いおうとう」と表記を変えました。

硫黄島で西は「玉砕」、その数日後ウラヌス号も病死

 クリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」(2006年)に描かれたとおり、硫黄島は日米両軍の死闘の地、地獄の戦場となりました。そして昭和20年(1945)3月、日本軍守備隊は「玉砕」(全滅のことを美化してこう言いました)、西も運命を共にします。この時、米軍側は日本軍の陣地の中にあのロサンゼルスのヒーローがいると知り、西に投降を呼びかける放送を行ったという逸話がありますが(城山三郎「硫黄島に死す」など)、どうやらこれは「伝説」であるようです。日本軍に対する投降の呼びかけはあったようですが、西一人に特定しての放送ではなかった、というのが真相のようです。なお、あのウラヌス号は世田谷の陸軍獣医学校で余生を送っていましたが、硫黄島玉砕の数日後、西の戦死を知ったかのように病死しました。

城山三郎「硫黄島に死す」には、こう書かれています。
 投降勧告もはじまった。
 「ニシさん、出て来い!」
 という呼びかけがあったことも知った。

西は船橋から習志野に通っていた

 ところで習志野時代、西はどこで暮らしていたのでしょうか。一説には、船橋市薬園台4丁目、成田街道に面したところに仲三好屋 (なかみよしや)という商家があり、そこの離れを借りていたと言われています。また、花輪台(東船橋6丁目、県立船橋高校の南側)にあった「凌雲荘」(通称「山崎別荘」)を借りて、そこから外車で通勤していたという話もあります。

なお、仲三好屋も山崎別荘も既に取り壊されていますが、山崎別荘の跡地は「東船橋花輪緑地」として中に入ることができます。
(「凌雲荘」の入口)


この点について研究者の入江清之氏は

http://www.senior-daigaku.jp/pdf.file/humoa.funabashi/funabashi.2019.10.pdf

彼が船橋で居住していた所は、①昭和元年、陸軍騎兵学校へ入学した時には習志野の三山家に寄宿。②昭和2年、馬術の訓練に明け暮れていた時には山崎別荘に居住。③昭和8年、騎兵学校教官時代には本町2丁目に邸宅を構え、そこに愛馬ウラヌス号の馬屋も建て、同馬で習志野へ通ったのだ、と述べておられます。

 いずれにしても、現在の習志野市域には足跡がないようで「船橋ゆかりの金メダリスト」という表現も見られますが、しかしロサンゼルス・オリンピック出場の際には大久保の騎兵第16連隊の中尉だったのですから、習志野市ゆかりの金メダリスト、あるいは習志野原が生んだヒーローであることには間違いないでしょう。

 今回、なぜNHKが「いだてん」のドラマの中に西を登場させなかったのか、真意はわかりません。ベルリン・オリンピックのマラソンで金メダルを獲得した、朝鮮出身の孫基禎(ソン キジョン)氏が、当時は日本人孫基禎(そんきてい)として出場せざるを得なかったことなどは大きく取り上げていましたが…。あるいはNHKの中に、軍人をヒーローとして扱ってはいけない、軍国主義につながる、といった内規でもあるのかも知れません。

(「いだてん」の中で孫基禎選手が出てくるシーン)

パチパチパチ(「祝孫選手世界一」の垂れ幕を前に皆笑顔)

しかし、表彰式で、優勝した選手の出身国の国旗が掲げられ、国歌が演奏されることを孫選手と南選手は知らされてはいませんでした。


(こんな韓国語のビデオもあります。訳はついていません。当時日本の植民地支配下にあった1936年、ベルリンオリンピックのマラソンに「日本人」として参加し、金メダルをとったが、「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と表彰台で涙ぐみ、「東亜日報」という新聞も「日の丸」を塗りつぶした表彰台の写真を載せて抵抗の意志を示した話、52年後のソウルオリンピックでは聖火リレーの最終ランナーになった話などが出て来ます)

戦争の悲惨さを忘れない。そのためにも戦争の犠牲になったアスリートのことを偲(しの)んでみたい

 しかし、先日も「谷津球場」の回に沢村栄治のことを述べましたが、

習志野歴史散歩:谷津球場、巨人軍発祥の地 - 住みたい習志野

こうした戦争の犠牲になったアスリートのことを消してしまうのは、かえって戦争を忘却の淵に押しやることになるのではないでしょうか。平和の祭典オリンピックで見事に金メダルを取り、国際親善にも努めた西が、最後は硫黄島に散ってしまったことなど、あえて子どもたちに伝える必要もないとする考え方には疑問を感じます。

 現在オリンピックの最後を飾る競技はマラソンになっていますが、当時は馬術が、大会最終日にメイン・スタジアムで行われる花形競技となっていました。西とウラヌス号がスタンドを沸かせた8月14日から、今年は88年目になります。習志野ゆかりのヒーローを偲んでみたいものです。
(ニート太公望)

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