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習志野歴史散歩:習志野は何藩の領地だった?

2020-07-22 00:02:11 | 歴史

習志野は何藩の領地だった?

 江戸時代、習志野は何藩の領地だったのか、というご質問をいただくことがあります。今日はこの問題を考えてみることにしましょう。

鷺沼村の医者が書いた「渡辺東淵雑録」にクジラやハレー彗星や疫病の話が出てくる

 江戸時代も末の頃、鷺沼村に渡辺東淵(わたなべとうえん)というお医者さんがいました。文政7年(1824)から安政6年(1859)まで36年間にわたって近隣の日々の出来事を克明に記録しており、「渡辺東淵雑録」と呼ばれています。原文は『習志野市史』史料編で見ることができます。鷺沼海岸に鯨が現れたことやハレー彗星が見られたこと、安政の大地震のことなど、貴重で面白い記録になっているのですが、やはりお医者さんですから、天然痘や赤痢など疫病の記録がしばしば見られます。

(クジラの唄:習志野市史資料編より)

(鷺沼にクジラがあがった話)
https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/shizen/walk/sansaku/h13/sansaku050.html

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津田沼の東漸寺17(渡辺東淵)

爺  三橋権四郎家は、渡辺東淵の雑録によると、天保時代に火災があり、そのあと建てられた家らしい。 由香  またまた、話がそれて恐縮ですが、渡...

津田沼街道を歩く

 

船橋にコレラが出たとき、鷺沼の殿様が「芳香散」という薬を村に配った

幕末にはコレラが流行します。安政の不平等条約が結ばれた安政5年(1858)、長崎に寄港したアメリカ軍艦ミシシッピ号の乗組員からコレラが広がります。夏には江戸で大流行し、3万人とも一説には20数万人ともいわれる死者が出るのですが、「異国船撃つべし」「異人斬るべし」と攘夷(じょうい)派がいきり立ったのはこれが原因だと言われています。

 「東淵雑録」にも、船橋ではコレラで、漁師町で多くの死者が出たことが書かれているのですが、今日注目したいのはこの時、「御殿様より芳香散(ほうこうさん)を村中へ下さる」と記されていることです。鷺沼村を領している殿様が心配して、芳香散という薬を村にくれた、というのですが、この殿様とは誰でしょうか。鷺沼源太なのでしょうか。
(「東淵雑録」に見る幕末の災害)
https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h18/sansaku088.html

(芳香散の作り方)
その6 暑中、コレラが襲う

(でも、芳香散の効能は胃もたれ、むかつき、胸やけなど。コレラの特効薬ではなかった)
幕末の伝染病と、杢左衛門の表彰

明治の廃藩置県で、熊本藩士だった佐々布貞之丞が、習志野も含めた下総のトップになる

 よく「廃藩置県」と言うもので、江戸時代の村々は必ずどこかの藩に属していたのだろうと思っている方が多いのですが、そうではありません。いわゆる藩領というのは大名領ですが、他に旗本領、幕府直轄の天領、寺社領などが複雑に入り組んでいました。一つの村を数人の旗本で相給(あいきゅう。その村から上る年貢を数家で分ける)などという場合すらあります。また、現在の都道府県のように一つの面としてまとまりがあるものとも限らず、所領があちらこちらに飛び地になっていることも珍しくありません。例えば、東京の世田谷・豪徳寺あたりは彦根藩(滋賀県)、井伊家の所領でした。

 廃藩置県の状況がよくわかる資料として「旧高旧領取調帳」(きゅうだか きゅうりょう とりしらべちょう)という資料があります。現在はネット上で誰でも簡単に閲覧できるようになっています。

https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param%2Fkyud%2Fdb_param

 これは明治政府が各府県に作成させたもので、おおむね幕末の慶応年間から明治4年(1871)の廃藩置県までの状況を示しているものと考えられます。取調帳の原本は内務省地理局に保管されていましたが、関東大震災ですべて焼失してしまいました。それでは早速、習志野市域の村々を見てみることにしましょう。

下総国千葉郡

    ・名耕地新田は市立一中の周辺、現在は奏の杜(かなでのもり)地区
 ・屋敷は千葉郡馬加(まくはり)村の一部で、やはり代官支配所から佐々布貞之丞(さそうさだのじょう)へ移管されています。明治になってから まず目を引くのは、廃藩置県後にこれらの村を領した「佐々布貞之丞」という人名でしょう。鳥羽伏見の戦いに勝ち江戸城に入った明治新政府は、慶応4年(1868)8月、下総国の中にあった旧幕府領を管理するために、肥後熊本藩士だった佐々布貞之丞直武(なおたけ)を下総知県事※(しもうさ ちけんじ)に任じます。
※「知県事」とは、明治元年に置かれた県の長官職。その後「県知事」と改称。

江戸薬研堀(やげんぼり)に仮事務所を置き、下総国内の治安維持には熊本藩兵を充てました。 しかし、半年もしない翌明治2年(1869)1月には下総知県事に代わる本格的な行政組織として葛飾県が設置され、明治4年(1871)にはこれが印旛県に編入されます。明治6年(1873)6月15日に、印旛県と木更津県を統合し千葉県が生まれます。また、現在の千葉県域にはもう一つ、現在の茨城県域にまたがって新治県(にいはりけん)がありましたが、これは明治8年(1875)5月に分割され、下総国に属する香取(かとり)・匝瑳(そうさ)・海上(かいじょう)の3郡を千葉県に編入しました。こうして現在の千葉県の姿ができたわけです。その前、江戸時代に領主だったのは、大久保原太郎ら4人の旗本  
 次に、佐々布知県事に移される前の状況を見てみると、大半は「代官支配所(しはいじょ)※」となっています。
※あとで(この投稿の真ん中辺で)詳しく説明しますが、江戸時代、遠国(おんごく)奉行や代官を派遣して治めさせた幕府の領地のこと。

 領主の名前が書かれているのは、大久保原太郎(谷津村の一部と鷺沼村)、金田鏺之助(久々田村の一部。なお、金田の名は「はつのすけ」)、吉田牧庵(藤崎村)、山崎金橘(実籾村の一部)の4人です。これらは旗本ですね。また、上の表の一番右の旧高というのは、これらの村の収穫を石高で示したものですが、実際の収穫高ではなく、原則として江戸時代初めの検地で定められた収穫高(表高おもてだか、といいます)です。その後の農業技術の進歩で実収(内高うちだか)は増えているのが通例で、「天保6年改増」「文久3年改増」というのは、それに応じて数字の見直しがあったことを示しています。そして、こうした村の収穫高に対して、「4公6民(4割を年貢として徴収)」とか「5公5民」とかいって年貢を納めさせたわけです。

将軍に会えるのが大名(1万石以上)と旗本(1万石未満)。将軍に会えないのが御家人。
旗本は将軍直属の部下(直参じきさん
 
 ここで一つの知識として、大名と旗本、御家人(ごけにん)の違いは何でしょう。大名というのは石高(こくだか)1万石以上をいいます。これが領している領地が藩領です。旗本は1万石未満で、将軍にお目見えがかなう者、御家人はそのお目見えがかなわない者(おおむね20石未満)とされています。また、時代劇などで「大身(たいしん)のお旗本」というのが出てきますが、大身とは3千石以上で旗本寄合席の身分を有する者、または2千石以上で守名乗り(かみなのり。「〇〇守」を名乗れる者)ができた者とされています。 なお時代劇ではよく、旗本は「天下の直参(じきさん)」などと言って威張っています。大名の家臣は、将軍から見れば「家臣の家臣」になります(これを陪臣(ばいしん)と言います)。それに対して旗本は将軍に直接仕える直参だ。お前の主君である大名と同格なのだぞ、と威張ってみせているわけです。
コレラの薬を配った殿様は、旗本の大久保原太郎
 では、大久保原太郎や金田鏺之助がどのくらいの旗本なのか、旧高旧領取調帳を使って見てみましょう。大久保原太郎は谷津村の一部201石余と鷺沼村187石余、計389石余で、他に領地はないようです。金田鏺之助は久々田村の一部の他に、武蔵国埼玉郡船越、同郡下新郷、上総国望陀郡林、同国市原郡山田橋、下総国千葉郡畑、同郡検見川、同郡曾我野に領地を持っています。計771石余になります。吉田牧庵は藤崎村の他に、下総国千葉郡検見川、同郡犢橋(こてはし)に領地を持っています。計772石余になります。山崎金橘は実籾村の一部の他に、下総国千葉郡曾我野、同国香取郡大久保、同郡吉田、同国匝瑳郡井戸野、下野国簗田郡久保田村、下野国足利郡利保村に領地を持っています。計946石余になります。 こうした旗本は、それぞれの村から年貢を取り、それぞれの村の訴えを聞いて、その土地を治めていたわけです。「渡辺東淵雑録」に出てくる、コレラの流行を見て村に芳香散をくれた御殿様というのは、したがって大久保原太郎であろうと考えられますね。 『青窓紀聞(せいそうきぶん)』という尾張藩の記録に、元治(げんじ)元(1864)年11月10日のこととして、小笠原摂津守を兵庫奉行に任ずることになり、同組頭(くみがしら:中間管理職)は大久保原太郎なり、と書かれています。安政の条約で兵庫、つまり現在の神戸港の開港が予定されていましたが、この年、初めて兵庫奉行を置いて、開港に取り組むことになります。その配下の組頭として大久保原太郎の名が見られるのです。鷺沼村に芳香散をくれた6年後のことです。幕末の大波は、こうしてひしひしと鷺沼村にも及んでいたことがわかりますね。 
代官支配所とは、幕府直轄の「天領」など
 
国定忠治の代官斬りとか「お代官様、お願ぇだ」、あるいは悪代官が「おぬしもワルよのう」と、時代劇やマンガではおなじみの代官ですが、どういう職務の人なのか、何に代ろうとしているのかと言われると、きちんと説明できる人は少ないかも知れませんね。先ほど触れたように、大名や旗本の領地の他に、幕府直轄領として幕府の財政を支えている村があります。これを天領といいます。また、大久保原太郎らよりもっと禄高の少ない旗本は、実際に領地を治めると言っても大変です。そこで、天領や小禄の旗本領を領主に代って現場で治める者として、郡代や代官が置かれました(郡代と代官の職務は同じですが、代官は5万石から10万石程度を治め、郡代となると10万石以上の、比較的広域の天領を支配していました)。代官も郡代も、勘定奉行の支配下におかれています。
 なお、この幕府の制度にならって、諸藩でも藩領内の直轄地を治めるために代官を設けていることがあります。冒頭に述べた東京の世田谷には、ボロ市で有名な大場代官屋敷というのがありますが、これは幕府の代官ではなく、彦根藩が遠く離れたこの飛び地を治めるために大場家を代官にしたものです。
 習志野市域の、「旧高旧領取調帳」に代官支配所と書かれている所は、天領あるいは小禄の旗本領であって、実際には代官が治めていたわけです。
武士は米を「禄(ろく):給料」としてもらい、それを換金して暮らしていた 
 ここで再び、武士の禄高について見ておきましょう。まずお米の単位のことですが、1石は10斗、10斗は100升、100升は1000合とされます。一人の人が1食にお米1合、1日で3合食べるとすると、1石、つまり1000合とは一人の人の1年分ということになります。なお、この1石が獲れる田の面積を1反(たん)と言います。 また「俵ひょう」は、4斗を1俵とします。もし「4公6民」の年貢であれば、1反の田から1石すなわち10斗の米が収穫され、その内4斗を俵に詰めて年貢として領主に送るわけです。100石取りの旗本であれば、領地から100石の米が収穫され、その内40石、俵にして100俵の年貢を得ることができることになります。 次に、「蔵米取り(くらまいとり)」と言って、小禄の旗本や御家人の場合、上のように領地の収穫の石高ではなく、実際に幕府から支給される給与の額をお米で表現します。これも時代劇でお馴染みの「30俵2人扶持(ににんぶち)の御家人」というと、御家人の年俸として30俵、つまり12石の米がもらえる。そしてその他に、家来2人を雇うための手当として1日あたり1升の米(扶持米:ふちまい)が加給されます。小禄の下級旗本はいちいち領地に赴くことはなく、年貢は代官が代りに徴収した上で、こうして幕府から給与としてもらっていたわけです。もちろん米だけもらっても暮らせるわけではなく、食べる分以外は売って、現金に換えたわけです。江戸の蔵前には、給与の支給日に本人に代って米を受け取り、換金してくれる「札差」(ふださし)という商売がありました。
(札差)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AD%E5%B7%AE

幕張には代官屋敷があったけど、習志野にはなかった? 
 ところで代官というと、韮山代官(伊豆)とか甲府代官(山梨)、五條代官(奈良)など、代官所にいて現地を治めているのが普通です。では、習志野市域の村々を治めた代官は、どこの代官所にいたのでしょうか。千葉市立幕張小学校の所に「馬加代官屋敷」(建物は加曾利貝塚公園に移築されている)があったというのですが、ここにいたのでしょうか。
(馬加代官屋敷)
http://edononagori.fan.coocan.jp/hata_makuwaridaikan_tiba.html 馬加(まくはり)代官屋敷は代官の大須賀家が、馬加村にあった「与力(よりき)給地」を治めていました。習志野市域の代官ではありません。せっかくですので与力給地について説明しておくと、江戸の町奉行所与力に給与を払うための幕府直轄領です。与力は南町・北町の各奉行所に25名ずつおり、一人200石ずつ給せられていました。50名で計1万石の知行、そこから4000石ほどの収入を得ていたことになります。 馬加村※にはその内、北町奉行所の給地がありました。「遠山の金さん」に出てくる北町与力の給与は、幕張の田んぼから生まれていたのですね。また、青木昆陽が幕張で甘藷(かんしょ:さつま芋のこと)栽培を試みたりしたのも、町奉行所の支配地だったからでしょう。
※馬加(まくはり)が幕張(まくはり)になった
馬加城と三山七年祭 - 薔薇の古城

結論:習志野の代官は江戸城の中にいた! 
 話を元に戻して、習志野市域を治めた代官はどこにいたのでしょうか。実は習志野のように江戸に近い所については、代官は現場に代官所を作ってそこに赴任するのではなく、江戸城の中にいました。具体的には勘定所(かんじょうしょ:長は勘定奉行。町奉行のように「勘定奉行所」とは言わない)の中で、10名前後の代官が担当地域を分けて執務していました。代官には下級旗本が任命され、徴税(地籍調査・年貢徴収)だけでなく、人別改メ(にんべつあらため:人口調査)、土木普請、救貧などの行政と、治安維持、民事裁判、軽犯罪裁判などを扱っていたのです。また、現場の巡察などは、代官の配下にいる関東取締出役(かんとうとりしまりでやく、いわゆる「八州廻り」)に任せることが多かったようです。 したがって、習志野の代官は江戸城の勘定所にいた、というのが正解です。

(追記)
 私の投稿をお読みいただいた佐藤純一さんからコメントをいただきました。有難うございます。

➀いただいたコメントの中で佐藤さんは「(習志野は)旗本が領する天領だった」と書かれていますが、「天領」と「旗本領」は別物になります。
「旗本が領する」のが「旗本領」、一方幕府の直轄地である「天領」を代官(旗本)が将軍の代りとして納めるのが「代官支配所」です。ややこしいですね。
 習志野市域は「旗本領と天領に分れていた」、あるいは「旗本4家の領地と代官支配所に分れていた」というべきなのですが、代官支配所の中には4家(大久保、金田、吉田、山崎)以外の、微禄の小旗本領が含まれているであろうところが混乱の元ですね。

➁佐藤さんがおっしゃっている新潟の代官所は「水原(すいばら)代官所」

http://www.city.agano.niigata.jp/site/kankou/70.html

といいます。勝海舟の親父の小吉(こきち)が若い頃、実兄(男谷彦四郎思孝 おたに ひこしろう ひろたか)が代官所勤めになり、一緒に越後まで付いていく話があります(「夢酔独言(むすいどくげん)」)。検見(けみ:地籍調査)の際、一番悪い田を基準地に選んで測量竿を入れてやったら百姓らが嬉しがった、とあります。その方が年貢が少なめに出るわけですね。
(ニート太公望)

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2 コメント

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習志野は何藩の領地だった? (佐藤 純一)
2020-07-22 10:50:18
 習志野の歴史を知らないことが多いので、楽しく読ませて頂きました。広い意味で、旗本が領する天領だったということでしょうか。江戸に近いということで、幕府からしたら、近場に譜代大名や旗本領を配した方が都合が良かったのかもしれませんね。佐倉藩も譜代でしたね。
 私は新潟県出身ですが、私の町も天領でした。町の中心には代官所跡があり、後に代官所を復元して観光施設を作りました。幕末、会津藩と官軍が戦闘をした跡も残っていたかと思います。
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習志野は何藩の領地だった?(2) (佐藤 純一)
2020-07-24 21:58:40
ニート太公望さん

 習志野は、天領と旗本領に分かれていた、との指摘をありがとうございます。
 また、勝海舟の親父の勝小吉が、実兄(男谷彦四郎思孝)について、一緒に越後まで付いていく話があるとか(夢酔独言)。夢酔独言は読んでいないのですが、勝海舟のことは、子母澤寛の「親子鷹」や「勝海舟」を中学校か高校時代に呼んだ記憶があります。勝家はたいそう貧乏で、床板をはがして、焚き付けにして暖を取ったり、夜中に座禅を組み、剣術の修業に励んだり、蘭学を学んだ際には、辞書を借りて書き写す際には、2冊を書き写して、1冊を自分の辞書にして、もう1冊は売り払って借り賃を工面したんではなかったか。若い時分は、相当苦労したと記憶しています。私の人生観に大きな影響を与えたと思っています。親父さんは、水原にも来たかもしれないですね。おおいに参考になりました。有難うございます。
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