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習志野歴史散歩:鷺沼村出身の「いせ辰」

2020-07-24 13:21:51 | 歴史

鷺沼村出身の「いせ辰」

 京成電車を日暮里で降りて西口に出ると、やがて谷中銀座。どことなく明治・大正の頃の風情を残したいわゆる「谷根千(やねせん)」、谷中(やなか)・根津(ねづ)・千駄木(せんだぎ)界隈は、休日には観光客でにぎわいます。

 その中でも老舗(しにせ)として多くの人を集めているのが「いせ辰(たつ)」。千代紙や風呂敷、団扇(うちわ)、手ぬぐいなど、江戸趣味の小物で人気があるお店ですが、その初代は鷺沼村から江戸に出た人だということはご存知でしょうか。

https://www.isetatsu.com/

鷺沼村の廣瀬辰五郎、地本(大衆本)・うちわを扱う「伊勢惣」という出版社で修業

初代・廣瀬辰五郎(ひろせたつごろう)は天保3年(1832)、下総国千葉郡鷺沼村の農家、廣瀬仁兵衛の四男として生まれます。後に江戸へ出て、日本橋堀江町二丁目の伊勢屋惣右衛門(いせや そうえもん)のもとで奉公、修業します。

http://ya-na-ka.sakura.ne.jp/hiroseTatsugoro.htm

「伊勢惣」こと伊勢屋惣右衛門は地本(じほん)※問屋であり、団扇(うちわ)問屋でした。と言っても、地本(じほん)という言葉じたい、馴染みがありませんね。地本とは、江戸で出版された大衆本の総称で、洒落本(しゃれぼん)・草双紙(くさぞうし:黄表紙・赤本・黒本・青本など)・読本(よみほん)・滑稽本(こっけいぼん)・人情本・咄本(はなしぼん)・狂歌本などに分れていました。地本問屋(じほんどんや)というのは、これらの地本を企画、制作して販売した問屋のこと。今で言えば出版社兼取次店です。また当時、こうした本は買って読むよりも、貸本屋から借りて読むのが一般的でした。

※地本の種類

 ●洒落本(粋(いき)を理想とし、遊女と客のかけひきなどを書いた)
 ●草双紙(絵入り娯楽本の総称⇒表紙の色に由来した黄表紙(きびょうし:しゃれ、滑稽、風刺をおりまぜた大人むきの絵入り小説。恋川春町の「金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)」が有名)・赤本(桃太郎など娯楽本)・黒本(歴史物語・軍記もの)・青本(色恋・遊郭・滑稽・諧謔もの)など)
 ●読本(勧善懲悪や因果応報などがテーマ、「南総里見八犬伝」など文学性が高い)
 ●滑稽本(おかしみのある話。「浮世風呂」「東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)」など)
 ●人情本(恋愛もの)
 ●咄本(笑い話など短編、噺本とも書かれる)
 ●狂歌本(「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」などの狂歌を集めた本で、途中から挿絵が入るようになった)

その出版社が、浮世絵の美人画を使った「団扇絵」を作って大ヒット
 ではこの出版社がなぜ、団扇の問屋を兼ねるのでしょうか。地本問屋は浮世絵版画の版元になっていました。伊勢惣は「大栄堂」と号し、喜多川歌麿、歌川豊国、歌川国貞、歌川国芳、二代目歌川広重などの錦絵(にしきえ:多色刷りの浮世絵木版画)を出版していますが、そこで彼らの美人画を団扇に貼って売るわけです。アイドルの水着写真で売っている大衆雑誌が、その写真を入れたグッズでもうひと儲けするようなことを想像していただけば間違いありません。この団扇が売れに売れて、浮世絵の中に「団扇絵(うちわえ)」というジャンルが出来てしまいました。


伊勢惣からのれん分け、堀江町で「伊勢辰商店」を開業

 辰五郎は伊勢惣でつらい修業の後、元治元年(1864)のれん分けを許され、伊勢惣が馬喰町(ばくろちょう)三丁目に移った後、堀江町に地本問屋兼団扇問屋「伊勢辰(いせたつ)商店」を開業しました。また、辰五郎にはこの年、倅(せがれ)の芳太郎が生まれています。時あたかも世情騒然とし、新選組が池田屋に斬り込んだのがこの年です。

今の古新聞みたいに、お皿の包み紙に使っていた浮世絵

 開国した日本に最初に外貨をもたらしたものは、緑茶と生糸と陶磁器、それに浮世絵でした。陶磁器は既に鎖国の時代、オランダ船に載ってヨーロッパに渡っていましたが、輸送中にお皿が割れないよう、お皿とお皿の間には浮世絵などの反故紙を挟んでいました。荷をほどいた外国人は、お皿のこともさりながら、その間に挟まれた不思議な紙の美しさに目を見張ったのでした。

(世界に広がる浮世絵の歴史と広がり)より
https://www.kumon-ukiyoe.jp/history.html
「包装材からのスタート:実は日本が鎖国していた江戸時代、すでに浮世絵は海外にわたっていたという。当時、唯一外交関係にあったオランダを介して、海外に輸出されていた漆器や陶磁器などの“包み紙”に古い浮世絵が使われていたからである。後に、それが評判となって美術品としての浮世絵版画を買い求める交易者も出た。」

明治3年神田に移ると、外国人のお土産として団扇や江戸千代紙がバカ売れ

 江戸が東京と改まり、辰五郎の商う品にさっそく目をつけたのは外国人でした。明治3年(1870)に店を神田弁慶橋に移すと、築地居留地や横浜の外国商館に対して販路が開けました。浮世絵の他、団扇や扇子、日傘、手拭いなど、江戸千代紙の粋な意匠をこらした品々は、お土産品として珍重され、店は軌道に乗りましたが、明治21年(1888)6月、辰五郎は57歳で亡くなりました。倅(せがれ)の芳太郎が、二代目辰五郎を襲名します。

浮世絵版元「菊寿堂」と号した二代目辰五郎は34歳で亡くなる

二代目は父と始めた外国人への販路開拓を一層進める一方、浮世絵版元として「菊寿堂」と号し、河鍋暁斎(かわなべ きょうさい)、柴田是真(しばた ぜしん)といった画家と深く交流を持ちます。しかし、初代の死からわずか9年後、明治30年(1897)に34歳で亡くなってしまいます。明治11年(1878)生まれの鐘三郎が三代目を継ぐことになります。

三代目の時に「いせ辰」と改名、千代紙で作った紙ナプキンでブレイク

 三代住めば江戸ッ子の例えどおり、神田生まれの三代目辰五郎は江戸趣味に人生を捧げた粋人(すいじん)でした。この三代目の時に、店名を「いせ辰」と改めます。歌川広重らの伝統的な浮世絵に加えて、小林清親(こばやし きよちか)、淡島寒月(あわしまかんげつ)、伊東深水(いとうしんすい:女優「朝丘雪路」の父親)、川瀬巴水(かわせはすい)といった新時代の画家の版画出版にも取り組みます。また千代紙についても多数の版木(はんぎ)、版下を収集しては、たくさんの作品を世に送り出しました。

 千代紙は、京都で生まれたとされています。丈夫な和紙に多色刷りで、繊細で雅やかな模様を刷り出したものですが、江戸に来てからは、歌舞伎や相撲などに材を取って、大きくはっきりとした模様が好まれるようになります。版木を何枚も使って刷る多色刷りの技法も、浮世絵の発展に伴ってより精巧なものになっていきます。いせ辰の千代紙は、特にこの江戸千代紙の伝統を伝えるものでした。また、特に人気を博したのは、千代紙で作った江戸風俗の紙ナプキンでした。これはドイツ人商人を通じてヨーロッパ各国に輸出されます。


苦難の三代目:関東大震災で千代紙の版木など消失。店を谷中に移すが、ここも東京大空襲で焼失し、翌年亡くなる

 こうして順調に業容を広げていった三代目でしたが、大正12年(1923)9月、永年かけて集めた浮世絵や千代紙の版木や膨大な収集品、貴重な資料は店と共に関東大震災で焼失してしまいました。一時は途方にくれた三代目でしたが、家は焼けても江戸ッ子の意気は消えねぇとばかりに、長男や弟子たちを奮い立たせ、遂に約1千種の千代紙版木を再刻させます。今日、江戸千代紙が残っているのはこのおかげなのですが、さらに三代目を次の苦難が襲います。昭和17年(1942)に店を谷中へ移転しましたが、昭和20年(1945)3月、東京大空襲で再び店は焼失。失意の内に、翌昭和21年(1946)、69歳で亡くなりました。

三代目の写真

四代目が裸一貫で再建。外国人のお土産でIsetatsu復活

 四代目は明治39年(1906)、三代目の長男として生まれました。焼け野原となった東京は浮世絵や千代紙どころではなく、三度の食事にさえことかく始末であったといいます。しかし三代目が関東大震災後に再刻させた版木は、幸いにも地方に疎開してありましたので、四代目は裸一貫、これらの版木からコツコツと江戸千代紙を刷り出していきました。やがて世の中が落ち着きを取り戻し、江戸のいなせ、粋を今に伝える千代紙や手拭いは、再び人気を博するようになります。また、東京オリンピックや大阪万博に訪れた外国人のお土産として「Isetatsu」の名は復活を果たし、現在では五代目が店を守っているそうです。江戸の趣味を今に伝える品々は、これからも多くの人に愛されていくことでしょう。

 ドイツの作家トーマス・マンは長編小説「ブッデンブローク家の人々」で、自身の一族の4代にわたる歴史を描きました。また日本では、マンを敬愛してやまない北杜夫が「楡家の人びと」を書きました。

 幕末から明治・大正・昭和、さらに平成、令和と、鷺沼村から江戸に出て、幾多の苦難にもめげずに名をなした代々の辰五郎に思いを馳せてみるのも面白いのではないでしょうか。
(ニート太公望)

(編集部より8月2日追記)
四代目が書いた「江戸の千代紙いせ辰三代」という本に以下のような記述がありました。
習志野歴史散歩に書かれた、この「鷺沼村出身の『いせ辰』」と、「鷺沼から頼朝が出陣!」
習志野歴史散歩:鷺沼から頼朝が出陣! - 住みたい習志野
の内容とも、ピッタリ合っていますね。

「いまの習志野市鷺沼町1〜3丁目あたりは、江戸のころの下総国千葉郡鷺沼村、この町中を幕張、稲毛に向かって突っ走る国道14号線は、もとの千葉街道でございます。
 天保14年1843年、12歳になったかならずの初代辰五郎は連れの御方に手を引かれ、この街道を江戸へと旅立ちました。」

「千葉県千葉郡鷺沼村88番地がその本籍です」

「初代が残した過去帖を頼りに、三代目が試みられなかった故郷の鷺沼を訪ねたいと思い立ち、一日、台東区教育委員会在籍の知人に相談しましたところ、知人が以前勤めていた課に鷺沼から広瀬姓の人が通勤していたから、その人に聞いてあげようという吉報がありました。両三日して、当の広瀬さんから「母親が申すのに、昔、弁慶橋で店を持った人が親戚にあったと聞いている」という思いがけぬお話。たしかに昔は弁慶橋という地名を、わたくしの家の通称にしていましたので、鷺沼でそのことを知っている方なら、きっとご縁があるのではないかと思いました。」

「ある土曜、区役所前からその方に道案内をお願いして、車で前述の国道14号線を下ったのでございます。
 まず、わたくしの目は鷺沼在に一つしかない寺、慈眼寺へ引き寄せられました。」

「仁兵衛供養と彫られた墓石も二基ありました。」

「わたくしの手元に三代目から伝わっている源氏の白旗が一幟あります。」

「頼朝公は石橋山に敗戦し、対岸の安房に逃れ、ここで千葉介常胤の援助を受け、急速に勢力を盛りかえし、治承4年1180年、有名な富士川の合戦を控えて旗揚げしたのが鷺沼城でありました。」

 

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