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習志野歴史散歩:鷺沼から頼朝が出陣!

2020-07-10 17:40:48 | 歴史

鷺沼から頼朝が出陣!

 菅原孝標(すがわらのたかすえ:更級日記作者の父)の一行が習志野市域を通過してから160年後の治承4年(1180)、源頼朝(みなもとのよりとも)が鷺沼にやって来ました。

 鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡(あづまかがみ)』のこの年10月1日のくだりには、「石橋合戦の時 分散せしむるの輩に於いては、今日多く以て武衛の鷺沼の御旅館に参向す。また醍醐の禅師全成(ぜんじょう)、同じく合儀有り。令旨(りょうじ)を下さるの由京都に於いてこれを伝聞し、潛かに本寺を出て、修行の躰を以て下向するの由これを申さる。武衛(ぶえい=頼朝のこと)泣いてその志に感ぜしめ給うと。」(石橋山で敗れた際に別れ別れになった者たちが今日、武衛(頼朝)が滞在する鷺沼の館に集まった。その中には頼朝の異母弟の全成もいた。全成は平治の乱後、醍醐寺に預けられていたが、頼朝に以仁王(もちひとおう)の平家打倒の令旨が下ったことを聞いて醍醐寺を抜け出してきたのである。修行者姿に身をやつしてこうして馳せ参じたのだと頼朝に話すと、頼朝は感激して涙を流したということだ。)と書かれています。

 全成とは阿野全成(あの ぜんじょう、1153~1203)のことで、頼朝の異母弟。父・義朝と常盤御前(ときわごぜん)の間に生まれた今若丸(いまわかまる)、乙若丸(おとわかまる)、牛若丸(うしわかまる:義経)の兄弟の内、今若丸のことです。

(今若丸=阿野全成に関する詳しい情報は、下の画像をクリックしてご覧ください)

 

 

 

 

頼朝はさらにこの後、黄瀬川の合戦の際、牛若丸つまり義経とも再会を果たしますが、その話ばかりが有名で今若丸の方が忘れられているのは「判官びいき」というものですね。

鷺沼での頼朝と今若丸(全成)の再会の場面、永井路子さんの歴史小説「炎環」には、こう書かれています。

 京の醍醐寺に預けられていた今若が、異母兄頼朝の旗揚げを聞いて、武州鷺沼※の陣屋に駆け付けたのは、治承四(1180)年十月一日のことである。
「平家追討の綸旨(りんじ)をうけられたと聞いて、もう矢も盾も堪らず飛んで参りました」
 得度して全成(ぜんじょう)と名乗っていた二十八歳の青年僧、今若は、貪(むさぼ)るように異母兄の顔をみつめていた。
(中略)彼は見たのである。じっと彼に注がれていた兄の大きな双の瞳が、このとき透明な薄い膜に蔽われ始めたのを。そしてその膜が、かすかにふるえ砕けて。やがて玻璃(はり)のように光っては静かに頬をつたい落ちるのを…

上記の引用について、ブログ読者の方から「永井路子さんは武州鷺沼と、田園都市線の鷺沼駅(川崎市宮前区)を考えたのかも知れません」というご指摘をいただきました。
「吾妻鏡」には、鷺沼御旅館で全成に会った翌日、「武衛(頼朝)、常胤、廣常等が舟楫(しゅうしゅう)に相乗り、大井・隅田の両岸を渡る」とあります。大井川は江戸川、隅田川は今と同じですから、ここでようやく武州(武蔵国)に入ったことになります。したがって鷺沼御旅館は武州ではないし、まして川崎ではない、ということになります。永井路子さんが習志野の鷺沼を武州と勘違いされたのでは?と考えられます。ご指摘有難うございました。 

 なお、NHK大河ドラマ「草燃える」で俳優の伊藤孝雄さんが演じた今若丸(全成)は、ドラマの中でも、かなり重要な役どころでした。
(全成と義経が、兄頼朝との再会について語り合う)

(頼朝の妻北条政子の妹と結婚した全成、頼朝の嫡男頼家に謀反を疑われ、処刑される)

 頼朝はこの年8月に石橋山(小田原市)で平家打倒の兵を挙げたものの敗れてしまい、真鶴(まなづる)から船で安房国(あわのくに)に脱出。千葉氏、上総氏などに迎えられて再挙を図り、房総半島を北上してきたのでした。こうして鷺沼に着いたときには平家に叛旗を翻した東国武士が次々と集まり、大軍になっていました。武蔵国の豪族も味方につけ、5日後の10月6日には源氏の故地・鎌倉に入ります。そして10月20日の富士川の戦いで、京都から派遣されてきた平維盛(たいらのこれもり)の軍勢を撃破し、関東に覇権を築きます。その後、弟の義経や範頼を遣わして平家を壇ノ浦に亡ぼしたこと(1185)は改めて言うまでもないでしょう。そこで最近では鎌倉幕府の成立時期を、頼朝の征夷大将軍宣下(1192年、“いい国作ろう鎌倉幕府”)まで待たず、この富士川の戦いに勝って関東を掌握した時とする見解も見られます。

旧市庁舎周辺は、歴史的建造物の宝庫

 このように、頼朝にとっては起死回生、反転攻勢の地となった鷺沼御旅館ですが、誰の館だったのか、どこにあったのか、『吾妻鏡』には一切書かれていません。

 市役所旧庁舎の裏の台地上に、「鷺沼城址公園」があります。築城年代はよくわかりませんが中世の山城で、公園として残されている主郭(しゅかく:いわゆる本丸)の中には、正応年間(1288~92)の城主、鷺沼源太光義の墓と伝わる祠(ほこら=源太塚げんたづか)の他、はるか昔の古墳2基(鷺沼古墳群A号墳、B号墳。6世紀後半)も所在しています。

(鷺沼城址公園地図)

(源太塚=鷺沼源太光義の墓)

(鷺沼源太満義諸武士之碑)

(鷺沼古墳群と埴輪)

※DELLパソコン・モバイル旅行記、というサイトにも出ています。

http://www.pasonisan.com/rvw_trip/14-04saginumajou.html

頼朝が泊まったのは、市役所旧庁舎の周辺?

 人によってはこの鷺沼城こそ頼朝が泊った鷺沼御旅館であり、さらに東海道の浮島駅であると言う人もいます。そこで鷺沼城について、もう少し詳しく見てみることにしましょう。

 城址公園に立ってみると標高は18メートルほど、西側は切り立った断崖になっています。現在は遊歩道の下に暗渠(あんきょ)となっていますが、ここに菊田川が流れていますから、こちらに攻め寄せた敵が川を渡り、崖を登ってくるのは至難の業でしょう。もちろん崖の上には木柵を連ね櫓を立て、登ってくる敵に矢を射たり巨石を落としたりするわけです。

 では、この城の正面(大手)はどちらで、裏(搦手)はどこなのでしょうか。城と言っても近世の、石垣の上に白壁の城壁が続き天守閣がそそり立っているような城ではありません。中世の山城です。縄張図(城の施設の配置図)も見つかっていないようなので想像してみるしかありませんが、山城というものは敵が攻めてきた有事のときに立て籠もるものであって、普段は城主は山のふもとにある居館(根古屋という)で過ごしています。家臣の屋敷や寺などもその周りにあるのが通例です。

 城址公園の入口を出て東側を見てみると、目の前を都市計画道路の切通しが分断していますがこれは現代に作られたもので、本来は丘がなだらかに向う側までつながっていたことがわかります。陸橋を渡って坂を下っていくと、根神社、慈眼寺、陣屋(鈴木家)と、鷺沼村の往時の中枢部があります。根古屋があったとすればここではないでしょうか。そして、幕張方面から敵が押し寄せたときは、根古屋を捨てて山城に立て籠もることになっていた。ですので、こちら側が城の大手ということでしょう。そうなると、頼朝を泊めた館は山城の上ではなく、根古屋の方にあったのではないかと思われてなりません。

 西は断崖だといっても崖の高さは、北の市役所旧庁舎のあたりまで行けば甲冑武者がよじ登ることも不可能ではなさそうです。ですから、現在の市役所前交差点あたりから敵が攻め寄せてくれば、主郭へ攻め入ることもできるでしょう。守る側は当然、こちらに向けた手を打っておかなければなりません。連郭式山城と言って、主郭だけでなく二ノ郭、三ノ郭と陣地を作っておくわけです。この鷺沼城も、現在城址公園になっている部分だけが城だったわけではないはずです。昭和30年代、市役所旧庁舎を作る前には、もしかすると土塁や空堀の痕跡があったのかも知れません。

頼朝を鷺沼に迎えた鷺沼源太が、次の年には平家に島流しにされた藤原師経を迎え、その祖先を菊田神社に合祀

 次に、この鷺沼城は誰の城だったのでしょうか。先ほど出てきた鷺沼源太とは何者だったのでしょうか。

 菊田神社には次のような伝承があります。治承5年(1181)、平家打倒の鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀に加わって流罪となり、船で相模から安房を目指した藤原師経(もろつね)を、鷺沼源太光則が久々田浦で迎えた。菊田神社は810年代に創建されているが、この時、師経の祖先・藤原時平を合祀(ごうし)した云々。

 もしこれが史実だとすれば、4年前の鹿ヶ谷(ししがたに)事件(1177)で平家を倒そうとした師経が、頼朝が鎌倉を目指して鷺沼を進発した翌年に久々田浦にたどり着いたことになります。それを出迎えたのが鷺沼源太光則だということであれば、前年に頼朝を鷺沼館に迎えたのも光則だということになるのではないでしょうか。

何人もいた鷺沼源太

 鷺沼源太を名乗る者はその後、正応年間(1288~92)に鷺沼城を築いたともされる鷺沼源太光義(その墓が主郭の源太塚)、また国府台合戦(1563~1564、第二次)の際、里見方に加わって北条氏康と交戦、討ち死にしたという鷺沼源太満義の名が見られます(「房総里見軍記」)。また「関八州古戦録」などには、鷺沼源太の他、鷺沼源吾、鷺沼七郎兵衛といった名前も登場するそうです。

 なお光義については、室町時代の享徳の乱(1455~83、鎌倉公方足利氏と関東管領の山内上杉・扇谷上杉両氏、さらに幕府軍も加わった関東の動乱)の際、千葉一族の宗家を乗っ取った、千葉氏庶流の原(千葉)胤房の家臣として鷺沼源太光義の名がある、という記述も見られます。正応年間(1288~92)の光義とは時代が合いませんが、代々鷺沼源太を名乗る中で、光義を名乗る者も数人いたのかも知れません。

「源太」は本来、源氏の長男

 余談を記せば「源太」とは本来、源氏の長男(太郎)という意味で、悪源太義平(平治の乱)で知られていますが、一方で梶原源太景季(梶原氏は平家)といった例もあり、鷺沼源太が源氏だとは言えないようです。

旧市庁舎・城址公園周辺は「聖地」だった(城の中に古墳、源太塚)

 次に、鷺沼城は主郭の中に古代の古墳があるのですが、古墳の主、古代にこの地を支配した豪族がすなわち鷺沼源太の祖先なのではないか、という想像も生まれてきますが、この点はどうでしょうか。古墳時代と鎌倉時代では700年も時代が違うので単純に結びつけるのはどうかと思いますが、古代豪族が中世にも武士化して所領を支配したのではないかと言われる例として、下野国(しもつけのくに)の那須氏があります。那須国造碑で知られる古代豪族が、その後、藤原氏などと通婚し、武士化しながら、あの那須与一で知られる那須氏になったのではないかという説がありますから、古墳の主の子孫が鷺沼源太ということも絶対にあり得ないということではないのかも知れません。ともあれ、城の主郭の中に古墳2基と鷺沼源太自身の源太塚が並び、鷺沼にとっては一つの「聖地」になっていたことは間違いありません。

 では、国府台合戦で満義が敗死した後、その末裔はどうなってしまったのでしょうか。これも残念ながらよくわかりません。「鷺沼」という姓は現在、茨城県鉾田市に見られるようですが、こちらが鷺沼源太につながるものかは不明です。むしろ鷺沼城周辺に古くから定着している廣瀬、村山、鈴木、渡辺といった諸家の口伝や系図、慈眼寺の記録などを精査してみることが必要なのでしょう。

 習志野市域の中世の歴史はよくわからないことが多いのですが、その中でこれだけ当時を偲ばせる風景が残っていることは大変貴重なことです。ぜひ後世に伝えたいものですね。

(追記)
※藤原師経のこと

 菊田神社の慶長2年(1597)5月の銘がある棟札の裏書に、「治承5年(1181)4月、左遷された藤原師経が久々田浦に着いた」とあるそうです。史実の師経は安元3年(1177)、院武者加賀国目代(もくだい)だった師経を備後国(びんごのくに)に配流という記録があり、また同じ年、鹿ヶ谷での平家打倒の謀議で父・西光(さいこう)が斬首された際、師経も弟の師平らとともに捕えられ、京・六条河原にて斬首されています。しかし、師経その人でなくても、家族や郎党が難を避けて東国に落ちのびたとすれば、神社の社伝のようなことになるのかも知れません。いずれにしても、頼朝が鎌倉へ進発した後だったのは残念ですね。

習志野を通って京に戻った菅原孝標(更級日記作者の父)は菅原道真(学問の神:天神様)の子孫。
そして菅原道真を京から追放した藤原時平を菊田神社に祀(まつ)ったのは藤原師経(時平の子孫)。
その師経を助けたのが鷺沼源太。
因果はめぐる、習志野で!

 なお、菊田神社に藤原時平を合祀した後、この一族は菊田川を遡って二宮神社(船橋市)、さらに八千代市方面を開拓していったようで、八千代市内には時平神社が散見されます。ところで、時平と言えば菅原道真を陥れて太宰府に左遷させた張本人ですが、前回見た菅原孝標(更級日記作者の父)は道真の子孫。何か因縁を感じてしまいますね。この現代でも、菊田神社の氏子が大学受験で天神様にお参りしたら、志望校に落ちてしまった。道真の呪いだ、といった笑い話があるようです(笑)。
(ニート太公望)


(編集部からの追加情報)
鷺沼城址公園について、地元の長老 柴田義雄さんからも以下の記事をお寄せいただきました。有難うございます。
読者の皆さんは、二つの投稿を合わせてお読みください。

鷺沼城址公園

 東京湾のもっとも奥の海岸線は、舌状の台地がいくつもの谷を挟んで、波状に広がっています。

 鷺沼城址公園は旧市役所の台地にあり、西に菊田川、それを境に数十メートル東の鷺沼地区にあります。

 この辺り一帯は、中世の千葉氏の領地で家臣の一人、鷺沼源太光則(光義とも)という武将の城(館)が置かれていました。このことは「吾妻鏡」という歴史書に記されています。

 治承四年(1180年)、“石橋山の戦い”に敗れた源頼朝が安房に逃れた後、千葉常胤らの加勢を得、房総を北上し、十月一日、“鷺沼の館”に宿泊。石橋山の戦いの残党と合流し、六日に鎌倉を攻略したという史実があります。

 この“鷺沼の館”がいわゆる鷺沼城とされる場所で、頼朝が鎌倉幕府を開く発端となった由緒があります。

 旧市役所はこの城の北端にあり、おそらく北の出入り口が、現在の市役所下の十字路であろうと推察されます。

 鷺沼の館があった200m奥には、縄文か弥生時代の四基の古墳があり、現在は二基が公開されています。



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3 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-07-12 12:15:48
習志野歴史散歩。
市役所職員、議員たち、市内の学校関係者たちに、これまでのことを話したらどうでしょうか。
驚くでしょう。
住んでいる人たちはもちろん、習志野に関わっている人たちは知るべきです。

いつか、大久保の話をお願いします。
京成大久保駅前に、とんでもない安普請のプラッツ習志野ができました。
評判の悪いあの場所は以前、沼のようでした。
関東大震災の時、朝鮮人の虐殺がおこなわれたとか、耳にしています。
大久保商店街がしがみつく騎兵連隊との絡みとかを是非、お願いします。
毎回、ありがとうございます。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-07-12 20:01:02
永井路子さんは武州鷺沼と、田園都市線の鷺沼駅(川崎市宮前区)を考えたのかもしれませんね。こちらは江戸時代、有間村・土橋村・下菅生村で、鷺沼は小字名だったとか。
返信する
Unknown ( フーミン)
2022-03-14 13:12:26
 初めて習志野沿岸部の歴史に触れ、感無量の思いです。 旧庁舎跡地の連絡会リーフレットを拝見し、東京から越して来て もう40年近くなって初めて こんな歴史があったということを知りました。 家から5分ぐらいの所に藤崎貝塚などもありますし、大地と谷津の入り組んだ地形は 最近の宅地開発が分かりづらくしていますが、もうこれ以上の乱開発は断固やめるべきで  、 折角の歴史もあるかけがえのない 由緒ある地域だということを改めて認識しました。 庁舎跡地は鷺沼城址公園と併せ 習志野に残る数少ない史跡として保存すべきと思いを強く致しました。 ちなみにこの文書はどのような方が書かれたのかなあと興味が湧きましたが、記事を読ませて頂き 感謝です。
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