(ブログ読者、南田是也さんの投稿です)
なんでだろ~?
テレビを見ていて、町を歩いていて、皆さんは「なんでだろ~?」と思うことはありませんか?
「心肺停止」「刃物のようなもの」
*事故から3日、犠牲者が「心肺停止」で発見されました。
3日も経っているのだから、お気の毒ですが「死亡」しているんじゃないでしょうか?
*被害者は、刃物「のようなもの」で切られた模様です。
包丁「のようなもの」やカッターナイフ「のようなもの」というのは、余裕を持たせる表現としてわからないではない。しかし、被害者は切られたと言っているのだから、少なくとも凶器は刃物に決まっているではないか。刃物「のようなもの」、切れるが刃物ではないもの、とは何なのだろう。
調べてみると、「心肺停止」とは既に死亡しているとみられるが、まだ医師が死亡を確認していない状態で使うようですね。死亡を確認できるのは医師だけである。心停止していようが呼吸停止していようが、まだ医師が駆け付けていないのだから「死亡した」とは書けない、ということらしいです。
次に「のようなもの」ですが、よほど大きな事件でない限り、警察が捜査状況を公式に発表することはありません。それなのになぜ、ニュースが流せるのかというと、記者が刑事に貼り付いて、オフレコ話の中で捜査状況を漏らしてもらうからだそうです。そこで「凶器は包丁ですか」「いや、カッターナイフだな」といった会話が交わされるのですが、「カッターナイフで」と書いてしまうと、警察部内で「あいつ、何をベラベラしゃべっているんだ」と問題になってしまう。また、あとで犯人を逮捕したら凶器はカッターナイフではなかったとなると、警察の威信にもかかわるし、裁判にも影響してしまう。そんなことで「のようなもの」とボカす必要があるようです。刃物のようなもの、というのは、刑事が刃物かどうかすら漏らしてくれないのだが、傷から見て刃物ではあるだろう、ということを言いたいわけですね。
いずれにしてもマスコミ側のご都合に過ぎず、読者・視聴者のことを考えた表現ではないことは間違いないですね。
優先席付近では混雑時には携帯電話の電源をお切りください
*優先席付近では混雑時には携帯電話の電源をお切りください。それ以外では、マナーモードに設定の上、通話はご遠慮ください。
優先席の前に立ってスマホを見ている人がいるが、「混雑時」でなければかまわないのだな。しかし、呼び出し音は車内のどこであろうと鳴らしてはいけないのだな。通話は発信も受信もしてはいけないのだな。しかし、なぜだろう?
優先席については、以前は混雑時でなくても「電源をお切りください」とアナウンスしていました。心臓にペースペーカーを埋めた方が座っている場合、ペースメーカーに悪影響を与えるから、という趣旨でした。しかし、その後の研究や機器の改良で、ペースメーカーに影響する可能性は少ないことがわかり、ペースメーカー使用者で携帯電話を持っているという人すら出てきたことから「混雑時」と限定したようです。
一方、車内のどこであろうとマナーモードにして、呼び出し音を鳴らすなというのは、呼び出し音が鳴ると一斉に、「あれ、俺かな?」とスマホを取り出さなければならず、迷惑だから、という趣旨です。では、通話してはいけないというのはなぜなのでしょうか。車内では、グループで乗った客は会話しています。なぜ、電話はだめなのか。対面での会話は相手の応答が聞こえるが、電話は相手の応答が聞こえないから、脇で耳にしている者はイライラするので、と言われています。要は、他人の電話に聞き耳を立てて勝手にイライラしているわけですが、そんなことで、これは「禁止」ではなく「ご遠慮」なのだそうです。映画館や音楽会場、式典の会場などの静粛性を求められているわけではない。したがって、車内から発信してベラベラ話しているのはマナー違反でしょうが、こちらが乗車中であることを知らない電話が外から着信するのは仕方がないでしょうね。「いま電車だから、降りたらこっちからかけるね」と応じるぐらいは、お互い様ということでしょう。
立法趣旨を考えない「マスク警察」「自粛警察」、戦時中の「隣組」の密告制度と同じ?
このように規制というものは、なぜそんな規制があるのか、必ず立法趣旨というものがあります。そして、少々の違反が許容できるものなのか、アウトなのかも、その立法趣旨を知ることで解釈することができます。ところが、それが理解できない人は、電車の中で隣人のスマホが着信したからなどと喧嘩を始めたりする。いわゆる「マスク警察」「自粛警察」などという人が出てくるわけですね。
日本人の「マスク警察」「自粛警察」の根元は、江戸時代の五人組や戦時中の隣組の連座制にあるのでしょうね。自分は悪くなくても、同じ組内で違反があるのを見逃していると、同罪に問われてしまう。すぐに止めさせるかお上に密告しないと、自分も処罰されてしまう。そこには、立法趣旨に照らして許容できるのできないのは関係ありません(そんなことは“お上”が判断することです)。ちょっとした違反でも、とにかく目くじら立てて自分の保身を図らなければ生きて行けない社会があったわけです。
こんな話があります。戦争中、撃墜王と言われた坂井三郎中尉が負傷し、内地で休暇を過ごしていた日のこと、空襲警報が鳴りました。防空壕の入口に立ってたばこを点けながら、空を見上げていた坂井中尉を見て、自警団の市民が飛んできたそうです。「こいつはたばこの火で、敵機に信号を送っているぞ。スパイだ、スパイだ!」。中尉が「馬鹿を云うな。俺はパイロットだが、たばこの火が上空から見えると思うのか?」と言い返したところ、殴られて憲兵隊に突き出されてしまったといいます。取り調べた憲兵は海軍の坂井と聞いて、さすがに驚いて釈放したそうですが、「マスク警察」「自粛警察」というものの正体がよくわかりますね。
意味不明の「ブラック校則」
立法趣旨がよくわからないものの代表は、学校の「校則」というやつでしょう。「スカートはひざ下10センチにしなければならない」「通学は生徒にふさわしい、清潔な姿でなければならない」などという奴です。「ひざ下」とはどこから測るのか。なぜ9センチではだめなのか。「生徒にふさわしい、清潔な姿」とは具体的にどういう意味なのか。どうも説明不能です。「生徒にふさわしいかどうかは、学校が決めるのだ」というならば、結局「学校が気に入らない恰好で登校してはならない」というほどの意味にしかなりませんね。
「髪を染めてはならない」とあるのに、生まれつき赤みがかった髪の子は黒く染めさせられた。黒く染めるのは校則違反ではないのか、などという変な話も聞きますね。スカートの話など、常識的に「概ねひざ下10センチ」という趣旨でしょうが、本当にメジャーを持って1センチ長いの短いのと、検査して回っている先生もいるのだとか。きっと、昔の陸軍の服装検査が今に残っているのでしょうね。
「なんでだろ~?」と立法趣旨をとことん問う精神が必要
「校則」の問題点は、制定に生徒・保護者側は関与せず、校長が一方的に定める「法」であること。そうであれば、立法趣旨を説明する責任は校長側にあります。従わされる側は、「規則でそう決っているのだから、黙って従っていればいいのだ」ではなく、「なんでだろ~?」と立法趣旨をとことん問う精神が必要でしょうね。
「規則だから」と、考えることをやめてしまった人たち
学校の中だけでなく、電車内の携帯電話のように「なんでだろ~」は我々の周りにもどんどん広がってきています。「規則だから」「仕方ない」と、考えることをやめてしまった従順な人ばかりなら、飼い馴らす側にとってはこんな楽な話はないのです。
法学というものは、数学や論理学と違って、筋さえ通れば世の中がどうなってしまってもかまわないというものではありません。一方で現実を見ながら、一方で立法趣旨を考えていかなければ解決はない。「なぜだろう」と趣旨を追究することを止めてしまっては、ただ杓子定規をふり回すだけのことになってしまうのです。心しておかなければなりません。
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