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住みたい習志野

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ドイツ人捕虜の料理について「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者に聞きました

2021-02-13 17:08:20 | 歴史

2月11日投稿の
ドイツ人捕虜は収容所でこんな美味しいものを作って食べていた - 住みたい習志野

について「もっと知りたい」「広報にこんな連載があったことを知らなかった」「捕虜の日記に、収容所の食事はあまりにまずかった、と書かれているそうだが」など、さまざまなご意見をいただきました。

「ドイツ兵士の見たニッポン」の執筆者に聞いてみました

 そこで、「ドイツ兵士の見たニッポン」という本を執筆したH氏に、もう少し詳しい事情を伺ってみました。

ドイツ人捕虜の一人、カウル氏の日記の中に、「浅草にいた時と比べて習志野に来てからの食事も肉もひどい」と書かれているが…

浅草にいた時は麹町「宝亭」の仕出し弁当を食べていたのに、習志野の収容所ではドイツ人の自炊に変わっちゃったわけですから、そう感じるのも無理ないですね。

肉についても、すき焼きの老舗(しにせ)「ちんや」が納めていた。

「ちんや」のホームページにも
http://chinya-blog.com/?m=20140629

この戦争中、浅草本願寺が俘虜収容所として使われました。収容所当局は、兵の栄養状態に気を遣ったらしく、旨い肉を調達しようと努めました。その肉を提供したのが、浅草広小路の「ちんや」だった、という次第です。

と書かれています。それが不味(まず)かろうはずがないですね。

日本を「国際規範を守る国」として世界に認めさせるため、捕虜を条約どおり待遇しようとした当時の政府、軍部

 これも重要なことですが、日本を「国際規範を守る国」として世界に認めさせるため、そこまでして捕虜を条約どおり待遇しようとしたのが当時の政府、軍部でした。


この捕虜に対する扱いをマスコミ、政党、一般大衆が一斉に攻撃。それが、後に日本を変な方向に進ませた一因

これに対して、「国民の血税を使って何をやってるんだ」と攻撃したのはマスコミと政党、そして一般大衆でした。福岡では某宮様が使ったベッドをワルデック総督に使わせたというので「不敬だ」「不敬だ」という騒ぎが起こり、こうしたドイツ料理なども「我々が食ったこともない高級洋食を、なぜ捕虜ごときに血税で食わせるんだ」という俗耳(ぞくじ)に入りやすい主張が風靡(ふうび)しました。

 これが次の時代、捕虜など最低の情けをかけてやれば十分だ、とか、首を打って「名誉の戦死」にしてやった方が武士の情けだ、といった変な方向に日本が進んでいった一因だと思います。

「大正の軍縮」が軍人の危機感を高め、逆に軍国化を進めることになった

 軍縮とか民主主義は平和と結びつき、軍拡や独裁は戦争と結びつく、と信じられているのですが、実は日本に関しては、大正の軍縮が軍人の危機感を高め軍国化を進めることになり、俗論主義が「暴支膺懲(ぼうしようちょう:暴虐な中国なんかとっちめろ)」といった暴論に歯止めが効かなくなることになった一因なのです。これも「不都合な事実」として無視されていることですが…。

時には真実を覆(おお)い隠してしまう「多数決」の危うさ

 以前「100人に聞きました」というクイズがありました。通行人100人に「ジンギスカンは義経である」という問題を出す。スタジオにいる解答者は、その問題が正しいかどうか、ではなく、通行人中〇と答える人と×と答える人のどちらが多いか、を答えるというものでした。「ジンギスカンは義経だ」と思う人が過半数いれば、〇が「正解」ということになる。歴史学的にどうか、は関係ない。これは、多数決というものの危うさを皮肉っているわけです。

「緊急事態宣言になればトイレットペーパーがなくなる」と思っている人間が多数であれば、本当にトイレットペーパーが店頭からなくなる。こうした相場のようなものは、経済学的にどうか、ではなく、大多数がどう思い、どう動くか、で決まってきますから、こういう番組も社会を見る目を養う意味はあります。問題なのは、「1+1は2である」といった、客観的に正誤がわかっていることを多数決で決めようとした場合に露呈してくる。そこが番組の面白さでもあったわけですが…。

日本では低く見られる食肉業も、ドイツでは社会的ステータスのあるマイスターがやっている。収容所でもそうだった

 さて、浅草では待遇が良かったのに、習志野に移ってからは腐った肉を食わせられた、という話ですが、肉は「ちんや」のような肉屋から納めさせたのではなく、生きた牛や豚を買ってきては、収容所内で(とさつ)のマイスター(親方)であるドイツ兵が屠(ほふ)っていました。因(ちな)みに、当時日本では食肉に関わる人を不当に差別したりしていましたが、ドイツではのマイスターは非常に社会的ステータスがあります。

左に立つマイスターはマサカリを持って、これから牛を屠るわけですね。マイスターはオットー・シュトライヒという捕虜だったことがわかっています。

こちらは豚を捌(さば)いているところです。

肉は地下の穴倉にいれ、氷を敷いて保存していた

 したがって、肉が腐っていたのだとすれば、こうした収容所内の食肉加工に問題があったわけですね。捌いた後は、電気冷蔵庫がないので地下の穴倉にいれ、大久保の「市角氷室(いちずみひょうしつ)」が納めた氷を敷いて保存したことがわかっています。

食品の貯蔵

厨房に隣接して地下に穴倉を作り、中に市角氷室が納めた氷を敷いた所に、風車から風を取り入れて、冷気を行きわたらせていた。

残飯でも食わせた?というエビデンス(根拠)のない話

 おそらく読者の皆さんの中には、騎兵連隊の食い残した残飯をバケツに入れて捕虜に食わせたのだろうとか、騎兵の厨房(ちゅうぼう)で腐らせてしまった肉を、惜しんで捕虜に食わせたのだろう、などと勝手な想像を膨らませる人もいるかも知れませんが、それこそエビデンスがないお話。しかし、こちらの方が俗耳に入りやすい話ではあります。

「食事がまずい、肉が悪い」という話があったことは、20年前に書いた「ドイツ兵士の見たニッポン」という本でも指摘

 ところで、食事がまずい、肉が悪いという話は何もカウル日記で新発見されたわけではなく、私の「ドイツ兵士の見たニッポン」でもちゃんと指摘してあります。

 「ドイツ兵士の見たニッポン」41ページには戯(ざ)れ歌「シュナーダヒュッペルン」を紹介して、肉不足であったこと、タイプ打ちされたメニューは将校厨房のものではないか、といったことを述べてあります。

『フォーゲルフェンガー日記』には、水兵であったフォーゲルフェンガーらが飢えに苦しんだり、食べ物の質が悪くて下痢に苦しんだりする場面も登場する。また、彼は後に将校厨房の調理員となり、これで食べ物に苦労しなくなった、という記述もある。そうした点からみると、タイプ打ちの豪華なメニューは、あるいは将校用のものであるかも知れない。(41ページの記述)

(と、いうことは、2月11日にブログでご紹介した料理のメニューは将校用のものだったかも知れませんね:編集部)

インフレで賄(まかない)材料費に困っていた、という事情もあった。西郷寅太郎(収容所長)はそこに私財を投じ、西郷家が破綻(はたん)したのではないか?

 もう一つ、考えておかなければならないのはインフレです。大戦が始まった大正3年(1914)から捕虜が解放される大正8年(1919)まで、物価がどう動いたか。

そして、収容所経費の予算は物価スライドするわけではありませんから、どこの収容所も賄材料費に困っている。習志野収容所の決算書のようなものは残っていないので、具体的に証拠付けることが出来ませんが、浅草にいた頃よりはだいぶ不如意(ふにょい)になっていたのでしょうね。そして私の想像では、そこに西郷家の私財を傾けたのではないか、寅太郎死去と共に西郷家が破綻してしまったのはそのためではないか、と思うわけです。

(そう言えば、「バルトの楽園(がくえん)」という映画でも、会津藩出身の鳴門の捕虜収容所長松江氏が、収容所にかかる費用を確保するため私財を投げ出す、というシーンがありました:編集部)

(鳴門収容所の動画)

 こうした当時の社会状況を無視して「ほらみろ、カウルによれば腐った肉を食わせていたのだ」などと言ってしまえば、そういった舞台裏も、もはや見えなくなってしまいます。

他人に読ませるために浄書された「カウル日記」と、作為のないメモ「ハム日記」

 最後に、カウル日記というものを考えてみたいと思います。習志野市が文化財に指定したということで、権威ある一等史料といった扱いになっているのですが、それはどうでしょうか。

 史料というものは、出来事が起ったその場で書かれたメモだとか渦中で書かれた手紙、日記といったものに価値が高く、出来事の後で回想したようなものの方が作為が入り込む可能性があるから価値が下がる。渦中にあった本人ではなく、そこから伝聞したものも価値が下がる、とされています。そういう意味では、カウル日記は習志野収容所で書かれたものですから、一応は価値が高いといっていいでしょう。

 しかし、よく見ると、カウル日記は落ち着いた筆跡で浄書されています。おそらく、本当の日記、日々のメモのようなものが別にあって、それを見ながら収容所内で時間があるときに、ノートにきれいに浄書していたわけでしょう。ということは、後日誰かに読ませることを意識しているわけですね。

(カウル日記)

 一方、『習志野市史研究3』で紹介したハインリッヒ・ハムの日記は、浄書されておらず、本当に日々、自分が書きつけた日記帖です。特徴的なのは、普通に記入した後、上下をひっくり返し、行間の余白に新しい記事を書いている点です。こんなイメージです。

新しいノートが手に入らなかったのでしょうか。それともケチだったのか。とにかく、二つの記入がかぶってしまってなかなか読めないのですが、自分の筆跡なので本人は困らなかったのでしょう。要するに自分のための記録、後で誰かに読ませようというのではなく、自分で読めればいいという記録ですから、きれいに浄書されたカウルの日記と、どちらがより作為が少ないと言えるでしょう。

(ハインリッヒ・ハムの写真とWikipediaの情報)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A0

青島(チンタオ)陥落により捕虜(日独戦ドイツ兵捕虜)となったハムは、東京俘虜収容所(浅草本願寺)、続いて習志野俘虜収容所に収容された。収容中は、男声合唱団のメンバーとなり合唱の楽しみに目覚める一方、習志野ではぶどうを仕入れ、「フェーダーヴァイサー」という若いワインを作っては、仲間にふるまったりしている。収容所での克明な日記は「習志野市史研究3」に収められている

さまざまな歴史資料を突き合わせてみて歴史の真実が見えてくる

 カウル日記を聖典のように考えて、カウルの記述だけでどうのこうの言うのも考えものです。考証というものは、カウル日記と、ハム日記やフォーゲルフェンガー日記、クリューガー回想録など、既に知られている史料、さらに日本側の史料や新聞記事など、仔細に突き合わせてみて煮詰めていくものです。同じ日の同じ出来事を、ハムはこう書いている。日本の新聞はこう書いている。カウルは?という作業を地道に続けてみて、モノが見えてくる。

 歴史の本当の面白さはこういう所にあるのだろうと思います。

 テレビの歴史番組ではレポーターが公文書館の書庫に入っていくと、たちどころに答えが出てきます。まるで、自動販売機にコインを入れるとジュースが出てくるようです。歴史は暗記ものだ、〇か×かですべてわかるのだと思っている人もいます。しかし、本当はそんなに簡単なものではない。最後にそのことを強調しておきたいと思います。

(Hさん、お忙しい中、興味深いお話を有難うございました:編集部)

以前習志野ソーセージについてもHさんから教えて頂きました。ご参照ください。

習志野はソーセージ発祥の地って本当? - 住みたい習志野

 

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