住みたい習志野

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ドイツ人捕虜は収容所でこんな美味しいものを作って食べていた

2021-02-11 01:26:56 | 歴史

習志野でドイツ人捕虜たちが作っていた料理のメニューが残っていた

第一次大戦の時のドイツ人習志野捕虜収容所から「習志野ソーセージ」が誕生したのは有名ですが、当時ドイツ人捕虜の食事当番が作っていた料理のメニューが残っていることを皆さん、ご存知でしょうか?

このメニューを参考に当時ドイツ人捕虜たちが食べていた料理を復元した記事が平成20年(2008)から平成21年(2009)の「広報習志野」に連載されていました。
ユニークな企画でしたので、当時の広報を見ながら、再度振り返ってみたいと思います。習志野市の歴史の「知られざるエピソード」、まだまだありそうですね。

広報習志野(平成20年7月1日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編1

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/shizen/walk/sansaku/h20/sansaku107.html

 捕虜収容所の食事というと、いい加減な「ごった煮」を与えて、味はおろか量も満足ではなかったかのように言う人がいますが、当時のドイツ捕虜に関してはどうやらそれは誤りです。日本側は食費や材料、薪炭(しんたん)、厨房(ちゅうぼう)設備を提供するだけで、それを使ってどう皆の食事を作っていくかは、食事当番になった捕虜の腕の見せ所でした。タイプ打ちされた当時のメニューが残っており、習志野ではどんなものが好まれたのかがわかります。また、こうした収容所の食生活は、近隣の住民にドイツ菓子やソーセージが配られて好評を博すなど、習志野市域の食生活にも影響を与えたのでした。
 今回はその中から、〝シュヴァイネ・ブラーテン〟をご紹介しましょう。

広報習志野(平成20年8月1日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編2

https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h20/sansaku108.html

今回は、大正時代のドイツ捕虜が収容所で食べていた料理を紹介するシリーズの第2弾。
煮込み料理“グーラッシュ”をご紹介します。

広報習志野(平成20年9月1日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編3

 

https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h20/sansaku109.html

今回は、大正時代のドイツ捕虜が収容所で食べていた料理を紹介するシリーズの第3弾。パンケーキをご紹介します。
パンケーキとはホットケーキのことですが、サラダ菜が添えられていることから、ここではジャガ芋のパンケーキのことを意味していると考えられます。
ソーセージなどをあわせて、朝食にいかがでしょうか。

広報習志野(平成20年10月1日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編4

https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h20/sansaku110.html

今回は、大正時代のドイツ捕虜が収容所で食べていた料理を紹介するシリーズの第4弾。
“ケーニヒスベルガー・クロプセ”(ミートボールのホワイトソースがけ)をご紹介します。

広報習志野(平成20年11月1日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編5

https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h20/sansaku111.html

今回は、大正時代のドイツ捕虜が収容所で食べていた料理を紹介するシリーズの第5弾。
ドイツ風カツレツ“シュニッツェル”をご紹介します。

広報習志野(平成21年3月1日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編6

https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/shizen/walk/sansaku/h21/sansaku113.html

今回は、大正時代のドイツ捕虜が収容所で食べていた料理を紹介するシリーズの第6弾。ドイツの代表的なデザート“ローテ・グリュッツェ”をご紹介します。

広報習志野(平成21年5月15日号)

市史を食べよう ドイツ捕虜編7

https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/shizen/walk/sansaku/h21/sansaku114.html

今回は、大正のドイツ捕虜が収容所で食べていた料理を紹介するシリーズの最終回。
東部ドイツの商業都市ライプツィヒの名を冠する野菜料理“ライプツィガー・アラーライ”をご紹介しましょう。“アラーライ”とは、あれもこれもという意味。ちょっと八宝菜のようなお料理です。
大正7年12月8日(日曜)お昼のメニューに登場しています。


(こんなコメントをいただきました)
この投稿について読者の方から、以下のコメントをいただきました。有難うございます。

これは確かでしょうか。ある捕虜の日記には、習志野の収容所の待遇はひどく、「肉といっても脂身の塊しかないが、わずかばかりのそれを皿の中に見つけても、あまりにまずくて食べずに取り出してしまう」と書かれているそうです。それが本当でしょうね。

この記述については、おっしゃるとおり、以前東京新聞でも「カウル日記」(習志野収容所にいたカウルさんの日記)の内容として以下のように紹介されました。

捕虜、食事や郵便に不満 第1次大戦時 習志野に収容のドイツ兵:東京新聞 TOKYO Web

東京俘虜収容所(東京・浅草)の朝食では「紅茶とパンとバターが出た。日本側の待遇は大変に人道的である」だったものの、習志野の収容所に移って以降は「待遇がひどくなっている」と記されていた。
 「肉といっても脂身の塊しかないが、わずかばかりのそれを皿の中に見つけても、あまりにまずくて食べずに取り出してしまう」。

そしてこの「東京にいた時より待遇がひどくなっている」という部分の記述については、このブログの投稿
「カウル日記」に「スペインかぜ 絶望的・・・」の記述(12月15日東京新聞) - 住みたい習志野

の中で、以下のようにご紹介しました。

「音楽会で楽しいおしゃべり」と「ひどい食事」

・弦楽音楽会が行われた。ピアノ1台と自作も混じるバイオリン何本かの演奏。仲の良い戦友たちとコーヒーを飲みながら楽しいおしゃべりをした
・復活祭だ!。合唱の演奏会。故郷にいるかのように感じた

などと収容所内での楽しいひと時を記す一方、「格別ひどいのは食事」と、不満をこぼしたりして、興味深い内容になっています。(もっとも、この「ひどい食事」、浅草で収容されていた頃は麹町・宝亭の仕出し弁当を食べさせてもらっていたのに、習志野の収容所に移ってからは、ドイツ兵の自炊でつくるようになったので「ひどい食事」になった、と不満をもらしている、ということのようですが…)

この「宝亭」については
子規とシュークリーム - 土井中照の日々これ好物(子規・漱石と食べものとモノ):楽天ブログ

というブログの中で
(麹町の)平河町の「宝亭」は、明治15(1882)年に井上浅五郎が開業しました。「宝亭」は、「精養軒」「富士見軒」「中央亭」「東洋軒」と並んで西洋料理の草分け的存在で、宮内省に料理を納める「宮内省御用達」の仕出しも行なっていました。

と紹介されています。
浅草では宮内省御用達の仕出し弁当を食べていたのに、習志野に移ってからはドイツ人が自分たちで料理を作って食べるようになったので、「ひどい食事」と感じたんでしょうね。

こうしていろいろな角度から見てみると、習志野のドイツ人捕虜収容所問題、興味がつきませんね。

 

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コメント (3)
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