子供を持ってみて知ったことだが、どれほど子供の教育で生計を立てる輩がいることか!
子供の教育は未来に対する投資だから、最上の策はもともと不明で、プロなら未来はこうなるという見取り図を客観的に示すはずだが、僕にはその不安を煽っているようにしかみえない。
もしくは我が子なればという親の愛を利用する、利益主義の宗教団体に似ている。
まさに前回同様「異学の禁」的な状況を作為的につくっている。
もちろんそれに騙されるひとが悪いといわれればそれまでだが、江戸時代の儒者、熊澤蕃山の次の言葉を紹介したい。
「まことに妙壽院以降の儒者は、甚だくだれり。実は商人のいやしき心根ありて、外には聖経の威をかりたかぶれば、人のにくめるも理なり。人の悪しくいひなすにあらず、自ら己を賎しくせり」
蕃山自体が儒者としてくくられる人間だったから、アキンドとしての儒者の四十八手が丸見えだったのだろう。
彼は確かに自分で物事を考えないことを嫌ったが、憎んだのはそれをする大衆よりそれを利用するプロたちだった(こういうのが本当の知識人ではないのか?)。
だから儒者といっても中国をそっくりそのまま輸入しようなどとは考えず、絶えず日本には日本の道があり、独自の儒教があると考えていた(といってそれが天皇崇拝になるところには議論の余地があるが)。
ただ年長者がいうからとか、巷間で評価されているからといったことは彼の評価には関係がなかった。
アメリカ同様Practicality が重要だった。
そのため同時代の軍法学者の多くをせせら笑った。
大坂夏・冬の陣以来本当の戦争が起こることを想定しない軍法学者の仕事はバカバカしかった。
戦う以上、相手がどのようにどこから攻めてくるからこちらはどのように対処するかが重要なのにどこかで聞いた風なことを単なる知識としてひけらかしているだけとみたのだろう。
むしろそんな生半可な世の中だったから、もともと素人の正雪が軍法学者として認められた。
正雪はもともとはどこかの農家か商人の次男かなんかで学問を収めたのではなく、たまたま手に入れた軍法書を精読し、かつ世にあぶれていたから、世間の尺度でものをみることがなく現実的に戦争を、そして生きることを考えることができたのだ。
この「第3の視点」こそ肝要に思う。
これがあったればこそ、ThoreauにCivil Obedienceが起こり、Emerson にSelf-Reliance が想起されたのだ。
Our age is retrospective. It builds the sepulchres of the fathers. It writes biographies, histories, and criticism. The foregoing generations beheld God and nature face to face; we, through their eyes. Why should not we also enjoy an original relation to the universe? Why should not we have a poetry and philosophy of insight and not of tradition, and a religion by revelation to us, and not the history of theirs? Embosomed for a season in nature, whose floods of life stream around and through us, and invite us, by the powers they supply, to action proportioned to nature, why should we grope among the dry bones of the past, or put the living generation into masquerade out of its faded wardrobe? The sun shines today also. There is more wool and flax in the fields. There are new lands, new men, new thoughts. Let us demand our own works and laws and worship. われらの時代は反省ばかりしている。それが父たちの墓をつくるのである。そしてそれが伝記や歴史、批評を書くことになるのだ。前の世代は、神と自然とをじかに見据えた。私たちだって自分の目で見ようじゃないか。なぜ宇宙とのもともとの関係を楽しんじゃいけないんだ。なぜ伝統ではなく洞察の鋭い詩や哲学を持ってはいけないのだ。彼らの歴史ではなく我々自身に明らかにされた宗教を持とう!・・・なぜ私たちは乾いた骨のなかを探さなければならない?生きているのに色あせたワードローブから見せかけのなかに飛び込まなければならない?太陽は今も輝いていて畑にはウールも亜麻もある。新しい土地と新しい人間、そして新しい考えがある。自分たちの作品と法と崇拝を持とう。
いつも最終的に文学で締めくくるのは異学の禁ではないのか、と非難されそうだが、文学は、模索する手段を言葉に求めているだけのことで、本来依存する類のものではないので、いいのだっ(言い切っちゃう)!
子供の教育は未来に対する投資だから、最上の策はもともと不明で、プロなら未来はこうなるという見取り図を客観的に示すはずだが、僕にはその不安を煽っているようにしかみえない。
もしくは我が子なればという親の愛を利用する、利益主義の宗教団体に似ている。
まさに前回同様「異学の禁」的な状況を作為的につくっている。
もちろんそれに騙されるひとが悪いといわれればそれまでだが、江戸時代の儒者、熊澤蕃山の次の言葉を紹介したい。
「まことに妙壽院以降の儒者は、甚だくだれり。実は商人のいやしき心根ありて、外には聖経の威をかりたかぶれば、人のにくめるも理なり。人の悪しくいひなすにあらず、自ら己を賎しくせり」
蕃山自体が儒者としてくくられる人間だったから、アキンドとしての儒者の四十八手が丸見えだったのだろう。
彼は確かに自分で物事を考えないことを嫌ったが、憎んだのはそれをする大衆よりそれを利用するプロたちだった(こういうのが本当の知識人ではないのか?)。
だから儒者といっても中国をそっくりそのまま輸入しようなどとは考えず、絶えず日本には日本の道があり、独自の儒教があると考えていた(といってそれが天皇崇拝になるところには議論の余地があるが)。
ただ年長者がいうからとか、巷間で評価されているからといったことは彼の評価には関係がなかった。
アメリカ同様Practicality が重要だった。
そのため同時代の軍法学者の多くをせせら笑った。
大坂夏・冬の陣以来本当の戦争が起こることを想定しない軍法学者の仕事はバカバカしかった。
戦う以上、相手がどのようにどこから攻めてくるからこちらはどのように対処するかが重要なのにどこかで聞いた風なことを単なる知識としてひけらかしているだけとみたのだろう。
むしろそんな生半可な世の中だったから、もともと素人の正雪が軍法学者として認められた。
正雪はもともとはどこかの農家か商人の次男かなんかで学問を収めたのではなく、たまたま手に入れた軍法書を精読し、かつ世にあぶれていたから、世間の尺度でものをみることがなく現実的に戦争を、そして生きることを考えることができたのだ。
この「第3の視点」こそ肝要に思う。
これがあったればこそ、ThoreauにCivil Obedienceが起こり、Emerson にSelf-Reliance が想起されたのだ。
Our age is retrospective. It builds the sepulchres of the fathers. It writes biographies, histories, and criticism. The foregoing generations beheld God and nature face to face; we, through their eyes. Why should not we also enjoy an original relation to the universe? Why should not we have a poetry and philosophy of insight and not of tradition, and a religion by revelation to us, and not the history of theirs? Embosomed for a season in nature, whose floods of life stream around and through us, and invite us, by the powers they supply, to action proportioned to nature, why should we grope among the dry bones of the past, or put the living generation into masquerade out of its faded wardrobe? The sun shines today also. There is more wool and flax in the fields. There are new lands, new men, new thoughts. Let us demand our own works and laws and worship. われらの時代は反省ばかりしている。それが父たちの墓をつくるのである。そしてそれが伝記や歴史、批評を書くことになるのだ。前の世代は、神と自然とをじかに見据えた。私たちだって自分の目で見ようじゃないか。なぜ宇宙とのもともとの関係を楽しんじゃいけないんだ。なぜ伝統ではなく洞察の鋭い詩や哲学を持ってはいけないのだ。彼らの歴史ではなく我々自身に明らかにされた宗教を持とう!・・・なぜ私たちは乾いた骨のなかを探さなければならない?生きているのに色あせたワードローブから見せかけのなかに飛び込まなければならない?太陽は今も輝いていて畑にはウールも亜麻もある。新しい土地と新しい人間、そして新しい考えがある。自分たちの作品と法と崇拝を持とう。
いつも最終的に文学で締めくくるのは異学の禁ではないのか、と非難されそうだが、文学は、模索する手段を言葉に求めているだけのことで、本来依存する類のものではないので、いいのだっ(言い切っちゃう)!