河野さん「事件終わる日」 闘病続けた妻に感謝(共同通信) - goo ニュース
不謹慎ながら自分はずっと忘れていた。このひとたちは、あの日からずっと否応なくあの宗教団体を意識しなければならなかったから、さぞうらみが深かろう、鬱屈したものがあるに違いない、と考えてきた。そしてその気持ちを晴らすことが正義だと考えるだろう、と。
しかし河野さんのオフィシャル・ページで広告されている本の抜粋が以下のようにある。
「私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。(本文より)」
これはキレイゴトでもなければ嘘偽りもない、恨みの向こうに、河野さんがみつけた言葉だと思う。
「正義」とは本来基準でしかなく、裁きではない。
『罪と罰』が反対語でないように、正義の鉄拳はもはや正義ではなく悪意に近くなっている。
それを知っているひとに久しぶりに会えてうれしい。
不謹慎ながら自分はずっと忘れていた。このひとたちは、あの日からずっと否応なくあの宗教団体を意識しなければならなかったから、さぞうらみが深かろう、鬱屈したものがあるに違いない、と考えてきた。そしてその気持ちを晴らすことが正義だと考えるだろう、と。
しかし河野さんのオフィシャル・ページで広告されている本の抜粋が以下のようにある。
「私は、麻原被告も、オウム真理教の実行犯の人たちも、恨んでいない。恨むなどという無駄なエネルギーをつかって、限りある自分の人生を無意味にしたくないのである。(本文より)」
これはキレイゴトでもなければ嘘偽りもない、恨みの向こうに、河野さんがみつけた言葉だと思う。
「正義」とは本来基準でしかなく、裁きではない。
『罪と罰』が反対語でないように、正義の鉄拳はもはや正義ではなく悪意に近くなっている。
それを知っているひとに久しぶりに会えてうれしい。
そうした時に初めて極刑の存在する意味が生まれるのかもしれません。
それにしてもこうした声があまり大きく報道されている様子がないのは何故でしょう?
やはり私は最近の日本の厳罰化などの動きにおかしなものを感じない訳にいかないです。