雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

文学雑感(改訂)

2009-06-22 22:28:54 | 文学
昨今の文学批評にはアキアキしていた。

が、知人が平石貴樹の『小説における作者のふるまい』がよかった、というので、本棚から探して読み始めた(買ってはあった、というのも平石さんといえばフォークナーの専門家として名高い方だから)。

読後、その知人は、ススメタわけではないフリをしてススメタのかもしれない、と思った。

なぜなら僕はその知人Oに、幾度となく以下のようなことをもらしていた。

昨今の文学批評はどんどん作品からはなれている、単なる専門家が文学の専門家をきどるためのサークルみたいなもので、例えば作品中に表れる人種差別の表現や、ジェンダーといえばみなジェンダーで切り裂いて作品自体ときちんと向き合っていない、これじゃ文学じゃなくて文学屋だ、と。

平石さんも同じことを書かれていた。

僕の言葉でいえば、文学の言葉は、カントがいうように作家個人の世界観をそのまま表出するようなもので、読む人間はその世界観と、真正面からぶつかり、その作家が全くの別人であると認識して終わるか、そこで引き離されないでついていかれるかの勝負となる。

もちろんついていくことは困難を極めるが、とにかく文学作品は、作品を介した全人格的なコミュニケーションであり、向き合うことがまず要求され、自分主体の要望や付き合い方はできない(これを誰だっけか、作品が読者を読むのだといった)。

もちろん通勤電車のなかでエンターテインのために読むのならそれでいいが、少なくとも文学部の教授とか文学批評を生業としている専門家たちには、作家がある特定の作品を描かなければならなくなった本当の理由を模索すべきだと思うのに(本当の理由は作家本人でさえ全然わかっていないことが多い)、それがほとんど見受けられない。

というより僕はとっくの昔にあきらめていた。

そうした専門家であればあるほどそのような純粋な文学などできない、大体作家が数百ページもある文学作品を搾り出さなければならなかった理由は食べなければならないとかいう理由ではないから、同じく食べるために文学を解釈するだけのひとであれば、食べるために書いたのではない芸術家、フォークナーやスウィフトやヘンリー・ジェイムズやヘッセやピカソやゴッホがわかるはずがない、と(わかっていると思ったひとに会ったことがない)。

最後のふたりは絵描きだが、先日ゴッホのなんだっけか大御所のフランス人によるゴッホ論を読んだが、ゴッホが現実世界とどのように対峙していたかさっぱりわかっていないと思った。

平石さんはその点専門家でありながらパロールとしてその言葉を受け取って最後の最後までは付き合えないだろうと謙虚にいいつつフォークナーの『八月の光』とつきあっていた。

しかも「敗北主義による自己保存」という、はるかに包括的で透徹した主題を発見していた。

が、そこまでだった。 


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