子供に善悪を教えるのは難しい。
その根源が業、原罪だろう。
他者を傷つけてはいけないといいながら、毎日殺して食べている。
この罪は菜食主義者でも免れない。
『みいちゃんがお肉になる日』を読んだところで、原罪意識までの話である。
そこでまた無私を取り入れることにしたい。
「私」をなくせば「私」は何億もの細胞や寄生虫が暮らす「国」か「惑星」になる。
もちろんこれまで食べてきた動物や植物も同じように考えるから「屠る」対象としての一個の多細胞生物が消え、「食べる」行為は、惑星間の細胞の移動になる。
この移動が行われる限りにおいて「食べる」は「殺す」とは異なることになる。
詭弁といわれるかもしれない。
惑星や国が壊れれば死滅する細胞もいるし、多細胞生物という単位を都合よく省略して、考え方によれば、国家間の武力衝突も是認されるやもしれない。
そこで更に気功師として条件を限定させてもらいたい。「適切に」食べれば、その食べられたものを殺したことにならない、と。
気功でいう「気」とは、多細胞生物の生命活動を可能にする「力」のことである。
身体には、窒素、鉄などいろいろな物質があるが、それら必要なものを摂取して、生命活動を可能にする総務課が存在するはずで、その力のこと。
僕が素粒子に注目するのは、その働きが、分子レベルで、物質の体裁、例えばエイチツーオーは、H二つとOをずっとくっつけたままにする「弱い力」と似ているからである。
死は、その力がなくなることで、「適切に」食べるということは、生命体を糧として取り込むときに、その力も頂くことである。
その力は、死んでも少しの間は残存している。
だから「気」は「生命力」などと呼ばれるわけだが、もし「適切に」食べられればその生命力は、捕食者の生命力に加わるから、単に殺したり消滅させたことにならない(実際生命体が消滅しても生命力は消滅するのではなく、この物質世界が非物資世界と袂を分けた瞬間から存在する力に還元されるだけだ)。
だから「適切に」食べるとはその力が残るうちに食べるということで、完全に死んではいない。完全に死んだものになると、いろんな化学物質が必要になり、多くの地球人は、本当に死んだものに化学物質を振りかけて食べている。
そんななかまたいいお店をみつけた。
アメリカン・イタリアンの店で、いい肉だった。
ごちそうさまでした。
その根源が業、原罪だろう。
他者を傷つけてはいけないといいながら、毎日殺して食べている。
この罪は菜食主義者でも免れない。
『みいちゃんがお肉になる日』を読んだところで、原罪意識までの話である。
そこでまた無私を取り入れることにしたい。
「私」をなくせば「私」は何億もの細胞や寄生虫が暮らす「国」か「惑星」になる。
もちろんこれまで食べてきた動物や植物も同じように考えるから「屠る」対象としての一個の多細胞生物が消え、「食べる」行為は、惑星間の細胞の移動になる。
この移動が行われる限りにおいて「食べる」は「殺す」とは異なることになる。
詭弁といわれるかもしれない。
惑星や国が壊れれば死滅する細胞もいるし、多細胞生物という単位を都合よく省略して、考え方によれば、国家間の武力衝突も是認されるやもしれない。
そこで更に気功師として条件を限定させてもらいたい。「適切に」食べれば、その食べられたものを殺したことにならない、と。
気功でいう「気」とは、多細胞生物の生命活動を可能にする「力」のことである。
身体には、窒素、鉄などいろいろな物質があるが、それら必要なものを摂取して、生命活動を可能にする総務課が存在するはずで、その力のこと。
僕が素粒子に注目するのは、その働きが、分子レベルで、物質の体裁、例えばエイチツーオーは、H二つとOをずっとくっつけたままにする「弱い力」と似ているからである。
死は、その力がなくなることで、「適切に」食べるということは、生命体を糧として取り込むときに、その力も頂くことである。
その力は、死んでも少しの間は残存している。
だから「気」は「生命力」などと呼ばれるわけだが、もし「適切に」食べられればその生命力は、捕食者の生命力に加わるから、単に殺したり消滅させたことにならない(実際生命体が消滅しても生命力は消滅するのではなく、この物質世界が非物資世界と袂を分けた瞬間から存在する力に還元されるだけだ)。
だから「適切に」食べるとはその力が残るうちに食べるということで、完全に死んではいない。完全に死んだものになると、いろんな化学物質が必要になり、多くの地球人は、本当に死んだものに化学物質を振りかけて食べている。
そんななかまたいいお店をみつけた。
アメリカン・イタリアンの店で、いい肉だった。
ごちそうさまでした。