雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

イチョウの新芽

2015-04-15 07:00:34 | 雑談(ジョーク)
すがすがしい朝だった。

ここのところずっと雨だったから久しぶりの朝日で、その感激を写しとりたいと、いろいろなことを自発的に思い出した。

「朝日新聞」、「朝日のようにさわやかに」、しかしどれもこれもしっくりこず、駅に続く街路の脇にあるイチョウの新芽をみて、これだ、と思った。

イチョウというと、秋になってからの方が知名度は高いが、春の新芽の小ささと色は格別だ。その何気なさにここのところ何度目を奪われたことだろう。

そう言えば、息子も今春幼稚園に入った。

息子も何気なく新芽を出していたのだ。

2人目なので、こちらに気負いも気合いもなく、淡々と入学式を迎え、僕は休みもとらなかったが、2日通って熱を出したところをみると、彼にとって激動の変化だったのだろう。期待と不安を支えてやれなかったと悔やんだ。

そこで彼の門出を絵にしようと、
2人で画材を広げた。期待と不安を描きたかった。



そのあと思いっきりじゃれあって遊ぶと気のせいか険がとれてきたような気がした。

娘は無事進級した。

イジメと勉学への対処の仕方から、私立を選んだが、どちらも予想通りの対応を頂けた。

イジメはつくづくストレスから生まれることは痛感した。正確に言えば、ストレスへのケアがないためで、本当のケアによる保護感の不足だと思う。

勉強の方は、テストでいつも八割以上とっていても退学勧告がくることには驚いたが、この方がメリハリがあっていい。

ただ実際に退学させられた子がいて、たぶん息子だったらもたなかったと思った。娘でなければメリハリをつくる余裕は作れなかったろう。

足し算、ひき算、かけ算、漢字の応用問題は僕が想定していた以上にアクロバティックだった。

娘はいつからか画家になりたいと言い出した。

レイチェル・カーソンの伝記とダーウィンのミミズの研究、ピカソの描き方入門、ぼくがガーデニングにはまり出した結果かもしれない。

休みのたびに植物園に行こうと誘い、しまいには「この庭十分に植物園だよ」と断られるようになったが、植物園の帰り道、助手席で、手に入れた花々をみて、「かわいい、これかきたい」というようになった。

レイチェル・カーソンには僕も感銘を受けた。晩年の農薬汚染反対を企業相手にやり通したことは知っていたが、あの時既に癌で余命いくばくもないことを知っていたことは知らなかったし、子供時代から大学院とその後の文学活動にはうならされた。

息子には改めて空間芸術をやることにした。太郎さんが奨めていた教育方法だ。

空間芸術は、物理との相克で、可能性の少ないものを追求するから、教育的意義が出てくるのだろう。



ただ妻にはよく言われる。僕は子供たちの新芽を大事にしたいと思ってるだけなのだが、どうみても僕の方が楽しんでいる、と。

しかし僕はこういう世の中だから、ユキザサのように凛とした立ち姿をたもってほしいと思っただけなのだ。

ささやかで別段耳目を集めるわけではなくても。



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