雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

不審者

2011-06-19 17:29:12 | 雑談(ジョーク)
娘がトイレが自分でできるようになった。

更に今日は百貨店で子供用のトイレで自分でできたため、思わず写メを撮ったのだが、掃除のおばちゃんたちには変態に見えたらしい。

そこで父親であることをアピールしたのだが、なんというのだろう、こういうときにこういう疑われ方をするのは悲しいものだ

しかしもっと悲しい目にあったひとがいる。

Sさんである。

先日目の前に若い女性が歩いていて、そのうちのひとりのカバンに虫がついていたので、それを教えてやると、虫ではなくて、Sさんの風貌に驚いて逃げたらしい。

思えばSさんは新宿や渋谷で何度も挙動不審者で捕まっている。

素性がわかって結局釈放され、警察官は平謝りらしいが、僕は警察官の方に同情的にならざるをえない。

妻も「私も今は知っているから大丈夫だけど。。。」というほどに異様だからだ。

だからSさんは僕より一回り年上なのだが女の子に逃げられた話をきいたときも面と向かって爆笑してしまった。

笑いというのはよい。

report 20

2011-06-19 17:15:49 | 震災
散髪に行った。

市内にあるのだが、妻にはよく「アメリカ旅行?」と皮肉られる。

帰りが遅いからだ。

話が弾んで、1度は帰宅が深夜12時半を回ったことがある。

店主の話題が豊富で、子育てに追われる僕にとっては情報源としてもとても有益なのである。

話題は不可避的に地震後の日本になった。

日本の価値観は、原発事故を含めた震災によって、大きく変更された。

そのためそのあおりを受ける業界がある。

だからといってそうした職種のひとに賠償金などでない。

そもそも大きな道路が一本通るだけで、裏街道と化したその近辺の飲食店がどれだけ大打撃をこうむるが、お役所のひとにはわかるまい。

もちろんそんなことに不平をいっている僕らではない。

僕らは十分な情報を得られない、運命や環境に翻弄される、単なる一市民たる自覚がある。

以前は「百将」と日本語で紹介したから今日はアメリカの『The Red Badge of Courage』で説明しよう。

自然主義文学という人間は所詮運命や環境に勝てない卑小な存在であるという結論を前提にスタートした文芸思潮にくくられる一作品だが、そんな悲観的な話で終わるのならこの小説は評価されまい。

物語は、国家権力とは無縁な一農家の息子が南北戦争に駆り出されるところから始まる。国家の決定事項なんて所詮庶民には関係ないと戦争に行ってもまじめにやらず逃げ回っている。

が、同じ境遇の農夫たちが戦争に参加を余儀なくされ、活躍したり命を落としたりするのをみて、心境の変化が起こる。

確かに運命や環境に翻弄されるのが人間かもしれないが、所詮人間に限らず生き物はそうして生きていくしかない。

それならその逃れえぬ立ち位置を受け入れ、むしろ積極的に戦争に参加することにこそ生き物の本分があるのではないかと考え始める。

むしろ逃げ回っている自分の方が「生きていなかった」のだ(ヘミングウェイはこの小説の主人公ははじめから死んでいた、と語った)。

そうした考え方では現実を許容しても革命は起きないし、現状に悪弊があればそれがそのまま温存されるじゃないかということになるが、必ずしもそれで終わるわけではない。

僕の師匠は、同じく自然主義文学のFrank Norris を専門にしていたが、Norris はコントの影響もあって、個人の運命は確かに乗り越えられないかもしれないが、人類としては乗り越えていくという考え方を示した。

もちろん僕らはそんな気の長い話には耐えられない。

僕であれば下層の民としての生を生き抜いたあとに余力を残し、乗り越えていこうという腹積もりである。

そこで現実どうしていったらいいだろう、と話した。

理想は、各業種の方がNo. 1. を競い合いつつOnly 1になることである。

が、現実には成立しない。

床屋の店主に「Stoneみたいにラーメン食べに行くにも白刃を持っていざ勝負なんてひとはいないよ」と爆笑された。

確かに売り手と買い手のバランス、市場性はそうしたものだけではないだろう。

その証拠に僕がこれまで心から気に入った店はみなつぶれた(その話をしたら店主は高らかにまた笑った)。

が、僕なりに数寄者を主張する根拠はある。

先日僕のところに、珈琲を中心にした喫茶店をやりたい方がアドバイスを求めに来た(それだけで店主はまた笑った)。

僕はそうした経営など経験がないからもちろんお断りしたが、珈琲ファンとしてひとつだけいわせてもらった。

珈琲数寄(「好き」ではない)な人間を対象から外すな、ということである。

珈琲の雰囲気が好きな人や時間を費やすために珈琲を飲むひとは、不景気になればその時間を削るだろう。

しかし珈琲数寄は削れない!

頻度が落ちてもほかのものを削ってやってこざるを得ないし、僕みたいに心臓がバクバクいっても飲む(笑)!

もちろん現実は現実だから、最終的にはアドバイスを求められているのはこっちなのに、そんな数寄者に対応できるようにしてほしいと「懇願」した(また店主は受けた)。

数寄者を満足させる店が減ったからである。

久しぶりに腹から笑って心地よかった。