雨をかわす踊り

雨をかわして踊るなんて無理。でも言葉でなら描けます。矛盾や衝突を解消するイメージ・・・そんな「発見」がテーマです。

To Be or Not to Be 5

2009-10-20 21:57:28 | 文学
信長」が誤解を与えたらしい。

平石・諏訪部ペア(このふたりは師と弟子の関係である)のいうとおりなら、信長が道三や信秀と同列になってしまう、と締めくくったが、それは結論ではなく、「そんなはずないだろ」といいたかったのである。

ただ諏訪部さんがある程度の評価を得ていることは頷けた。それまでの研究成果を踏まえて一段高くピラミッドを積み上げていたわけだから学者としてはよい。

が、僭越ながら僕には、所詮その整合性が可能な枠内の話にみえた(し、更にいえばほころびもみえる)。

芸術作品は論じるものではないと誰かがいってたように思うが、その言い分はよくわかる。

確かに僕も芸術作品の理を論じたくはなるが、本物の芸術作品であればその偉大さを矮小化してしまう怖れがあるからだ。

つまりそもそも芸術作品の凄さは理以前の存在そのものにある。

本来作品は人工物だが、あたかもその作品自体が勝手に存在している存在感を持つことほど恐るべきものがあるだろうか。

したがって芸術家の凄さは、本来この「在る」をつくる技術にあり、研究者であればその技術あるいはそれを可能にした偶然こそをみつめるべきだと思う。

が、現実の文学研究者は、「在る」という不思議さではなく、作品内の理を論じて、矮小化するのである。

ご存知のように、「在る」ことに理はない。

哲学でもこの「在る」ことがどういうことなのか明らかにできてはいない。

しかしフォークナーは人工物を「在る」ことにしてしまった芸術家であり、否応なく「在る」ことを考究させる作家である。

いってみればそれがフォークナーが他の作家と区別される理由ではないのか、といいたかった。

僕と同じ意見を述べていたのが、実存主義者サルトルだった。

存在は理に先立ち、フォークナーの凄さが「在る」をつくることだといった。

当時大学院生の僕もその傑作群を読んでそう思った、というよりそう結論づけざるを得なかった。

僕も現在は何が専門かわからないが、当時の専攻は文学一本槍で、卒業・修士論文ともにテーマは、フォークナーだった。

そして面白いことに諏訪部さんの結論は僕の修論のスタートだった。

諏訪部さんの結論は、『アブサロム、アブサロム!』がハードボイルド、あるいは「メタナラティブのナラティブ化」だということだったが、その通りで、ハードボイルドとは理のない存在感を示すことなのである。

残念ながら彼はそこで立ち止まり本を書いたが、十年前の僕はそんなところで止まれるほど、すでに温厚ではなかった。

その先に更に突っ込み、修論を書き、フォークナーの存在のさせ方を個別に分析し、カラクリまでには到れなかったが、ある学会で発表しようと「フォークナーの representations」という草稿を書いた。

が、何のことだかわからないと却下されてしまった。

が、よく考えてみれば、先端の研究者である諏訪部さんが僕のスタートにやっと来たわけだから当時そうなるのは当然だった、ハッハッハ!(絶好調の自画自賛)

追伸:To be or not to be (1, 2, 3, 4)