初めて告白するが、僕は三宅裕二さんが同志にみえることがある。
ご存知の方もいると思うが、天然ボケの妻を持つという点で似ているからだ。
「天然ボケ」とは簡単にいえば「普通ならこう考える」という筋道というか理屈が完全に抜けているひとのことだが、彼が語る、天然ボケと一緒に暮らす悲哀は非常によくわかり、時に身につまされ、涙でそでをぬらすことさえあるといっても過言ではない。
そんな1例が昨日もあった。
以前も書いたが僕が在宅中は娘は僕のところにいようとする。
が、家に持ち帰りの仕事もそれなりにあって娘と遊んでる場合じゃないこともそれなりにある。
しかし娘はそんなこと関係ないから、僕がいれば僕が何をしていようが僕のところにやってくる。
だからそういうときは仕事部屋のドアの裏側に隠れて不在であることにしてこれまで仕事をこなしてきた。
が、先週末、いつものようにドアの後に隠れたら、妻は何を考えたか僕が隠れているところに娘を連れてきた。
思わず叫んだ。
「この隠れ場所がなくなったらこの先オレどうやって家で仕事すんだよっ!」
しかし妻は口をとんがらして「だって泣くんだから仕方ないじゃん」と謝らない。
そして迎えた昨日。
どうしても終えなければならない仕事があって、僕は仕事場にこもったが、やはり娘が僕を探しに仕事場に来た。
いつものようにドアの裏に隠れたが、昨日は娘はニンマリ笑いながらいつもは素通りするドアの後にまでやってきた。
ついに家で仕事ができなくなったのだ。
妻もその仕事の量は知っていたから自分が軽はずみにしたことの重大さがわかったらしく、やっと謝った。
僕はいいたいことをいわせてもらった、「全く自分がすることがどういうことになるか少しは頭を働かせてくれよ!」
すると妻はいつのもごとく逆ギレする。
「それじゃ私がバカみたいじゃない!」
・・・
僕は驚いた、「天然ボケ」の彼女が僕がいいたかったことをきちんと理解していたからだ!
あまりの感動に、「やればできるじゃないかっ」と手をとった。
妻も「うん」といって涙をこぼし、「これで天然ボケは卒業ね。。。」とささやいた。
註:妻の天然ボケぶりを示すエピソードを紹介しよう。米留学中、妻の天然ボケぶりは僕のクラスメートの知るところだった。英語に「天然ボケ」という概念を表わす言葉はなかったが、字義通りの英訳、Naturally Senile で十分に日本語の「天然ボケ」の意味を完璧に理解してもらえたのは、妻の「天然ボケ」ぶりがまさしく「生まれた瞬間老人ボケ」としか思えなかったからだろう。だから娘が産まれ、英語のsensible にあたる意味の名前、Ren をつけたことを報告したときも、あるひとりがこうかいてきた、"is it possible for your wife to have a sensible daughter?" (お前の奥さんがsensibleな娘を持つことは可能なのか?)。断っておくが、これを送ってきたアメリカ人はひとのことを少しでも悪し様にいうようなやつではない。だから妻もその文面をみて、「このひとがいうんだからよっぽどだね」とおめでたくも納得していたほどだ。ちなみにこの男は日本の僕のところにもよく遊びに来たが、湯斗をはじめ、連れて行く馴染みの場所で、「なんて感じがいいんだ!」とか「なんてかっこよくてやさしそうなんだ」などと絶賛を受けた好男子である(註終了)。
三宅さんがすごいと思うのは、そうした天然ボケの奥さんに一喜一憂することなく、泰然としているところだ。
あれ相手に怒ったって仕方ないからね、とまるでペットの話をするかのごとく話している三宅さんはエライ。
ご存知の方もいると思うが、天然ボケの妻を持つという点で似ているからだ。
「天然ボケ」とは簡単にいえば「普通ならこう考える」という筋道というか理屈が完全に抜けているひとのことだが、彼が語る、天然ボケと一緒に暮らす悲哀は非常によくわかり、時に身につまされ、涙でそでをぬらすことさえあるといっても過言ではない。
そんな1例が昨日もあった。
以前も書いたが僕が在宅中は娘は僕のところにいようとする。
が、家に持ち帰りの仕事もそれなりにあって娘と遊んでる場合じゃないこともそれなりにある。
しかし娘はそんなこと関係ないから、僕がいれば僕が何をしていようが僕のところにやってくる。
だからそういうときは仕事部屋のドアの裏側に隠れて不在であることにしてこれまで仕事をこなしてきた。
が、先週末、いつものようにドアの後に隠れたら、妻は何を考えたか僕が隠れているところに娘を連れてきた。
思わず叫んだ。
「この隠れ場所がなくなったらこの先オレどうやって家で仕事すんだよっ!」
しかし妻は口をとんがらして「だって泣くんだから仕方ないじゃん」と謝らない。
そして迎えた昨日。
どうしても終えなければならない仕事があって、僕は仕事場にこもったが、やはり娘が僕を探しに仕事場に来た。
いつものようにドアの裏に隠れたが、昨日は娘はニンマリ笑いながらいつもは素通りするドアの後にまでやってきた。
ついに家で仕事ができなくなったのだ。
妻もその仕事の量は知っていたから自分が軽はずみにしたことの重大さがわかったらしく、やっと謝った。
僕はいいたいことをいわせてもらった、「全く自分がすることがどういうことになるか少しは頭を働かせてくれよ!」
すると妻はいつのもごとく逆ギレする。
「それじゃ私がバカみたいじゃない!」
・・・
僕は驚いた、「天然ボケ」の彼女が僕がいいたかったことをきちんと理解していたからだ!
あまりの感動に、「やればできるじゃないかっ」と手をとった。
妻も「うん」といって涙をこぼし、「これで天然ボケは卒業ね。。。」とささやいた。
註:妻の天然ボケぶりを示すエピソードを紹介しよう。米留学中、妻の天然ボケぶりは僕のクラスメートの知るところだった。英語に「天然ボケ」という概念を表わす言葉はなかったが、字義通りの英訳、Naturally Senile で十分に日本語の「天然ボケ」の意味を完璧に理解してもらえたのは、妻の「天然ボケ」ぶりがまさしく「生まれた瞬間老人ボケ」としか思えなかったからだろう。だから娘が産まれ、英語のsensible にあたる意味の名前、Ren をつけたことを報告したときも、あるひとりがこうかいてきた、"is it possible for your wife to have a sensible daughter?" (お前の奥さんがsensibleな娘を持つことは可能なのか?)。断っておくが、これを送ってきたアメリカ人はひとのことを少しでも悪し様にいうようなやつではない。だから妻もその文面をみて、「このひとがいうんだからよっぽどだね」とおめでたくも納得していたほどだ。ちなみにこの男は日本の僕のところにもよく遊びに来たが、湯斗をはじめ、連れて行く馴染みの場所で、「なんて感じがいいんだ!」とか「なんてかっこよくてやさしそうなんだ」などと絶賛を受けた好男子である(註終了)。
三宅さんがすごいと思うのは、そうした天然ボケの奥さんに一喜一憂することなく、泰然としているところだ。
あれ相手に怒ったって仕方ないからね、とまるでペットの話をするかのごとく話している三宅さんはエライ。