大切な友人だった所沢さん(仮名)が今週亡くなってしまいました。
病気がわかったのは、去年一緒にオーサンへ行った1か月ほど後のこと。
オーサンでもいつもの感じで酔いどれていたので、病気のことを聞いた時にも
早いうちに治るんだろうなと思っていたのですが・・・
世界の基地で一緒に過ごした日々の思い出を、少し振り返ってみたいと思います。
所沢さんと初めて会ったのは、2008年の10月、僕が茨城に引っ越して2週間後の百里基地でした。
その日は航空観閲式の予行で、よくあるように、たまたま近くで撮影していたのがきっかけです。
はっきりとは覚えていませんが、性格的にも、きっと所沢さんから話しかけてきたんだと思います。
その日の予行。なんの記念塗装だったっけ。
この日、所沢さんが持っていたのはコンデジだったと思います。
その数週間後、僕は東京から深夜バスで岐阜基地航空祭に向かったのですが、
バスから降りると偶然所沢さんも同じバスに乗っていました。
その日はゲートまでご一緒して、所沢さんは基地内で撮影、私は博物館側で撮影したと思います。
所沢さんの手にはニコンの一眼レフ初級機がありました。
その後、何度か百里で再会するうちに連絡先を交換したんでしょうね。
国内の航空祭でも会うようになりましたが、会うたびにボディかレンズどちらかが進化していき、
2010年の三沢では200-400とサンニッパの2本持ちになっていました。
そして2011年の11月。
僕は所沢さんの禁断の扉を開いてしまいました。
初めて海外のエアショーに連れて行ってしまったのです。場所はアメリカ、ネリス空軍基地でした。
職業ドライバーだった所沢さんは「運転はまかせてください」と言ってくれたので、
お言葉に甘えて、僕は助手席でラジオを聴きながら景色を眺めていたんですが、
いきなり違うジャンクションで降りてしまい、若干焦ったことを覚えています。
そして所沢さんのレンズは、サンニッパがゴーヨンになっていました。
手荷物検査で大きなカメラバッグがアウトになったので、重そうに大砲2本を抱えていたっけ。
このイーグルのフレアが彼に火をつけてしまったのか。
このネリスをきっかけに、所沢さんは僕を置いて次々に海外へと羽ばたいていきました。
たしか2度目の海外エアショーは翌年2月のエアロインディアだったと思います。
お腹を壊したらしく、帰ってきた後は「2度とインドへは行かない」と言っていましたが。
2012年はフェアフォードで一緒になりました。
でも、僕はMACH2(なぜかMACH3が届いたけど)、所沢さんはもちろんMACH3なので日程が違います。
よって、この後スタンダードになっていく現地合流スタイルでのRIATでした。
今思うと、行きも帰りも飛行機が一緒だったエアショーは最初のネリスだけだったんだな。
アル・フルサンのポスターを貰った、思い出深いホテルまでの道のり。
助手席はOKB-51さんです。
この年はサンフランシスコ・フリートウィークでもご一緒。
シーフード好きだった所沢さんは、またサンフランシスコに行きたいといつも言っていました。
お隣はれんじゃー氏です。
そして、この後恒例となっていく宮崎は丸万本店での忘年会が始まったのもこの年です。
肝心の航空祭は天気が悪くて、僕は朝から一人基地側に逃げ込んだのですが、
南側に行った所沢さんとOKB-51さんはさっさと帰って、空港で飲んだくれてたんだったかな。
れんじゃー氏は雨の中基地側まで歩いてきたっけ。
2013年はオランダはフォルケルに行きました。
例によってレンタカーの助手席にお世話になったんですが、2日目の帰りは駐車場から2時間出れなくてね。
その間ずっとアホな話をしていたのを思いだします。
この年所沢さんはレンタカーに乗り、初めてのMAKSに一人で突撃。
撮影ポイントを探しているうちに当局に拘束されてしまい「終わった・・・」と思ったそうですが、
翌日には外柵沿いで地元民とバーベキューをしながらロシアンナイツを満喫するという、
僕には到底真似できない行動力を見せてくれました。
2014年は、オランダ、RIAT、ベルギーと3カ所で合流。
だいたいスポッターデーから参加している所沢さんは、海外の知り合いからも情報収集。
エアショー当日のみ参加の私に、いつもその情報を教えてくれるのでした。
そして所沢さんの人懐っこい笑顔は日本人だけじゃなく、海外の人も話しかけやすいのか、
いつもたくさんの人にデカいレンズの事をいじられていたっけ。
このオランダの自動販売機、何度コインを入れても戻ってきて、結局買えなかったんだよな。
2015年はソウルで1日だけ一緒だったかな。そして去年はRIAT、オーサンへ。
そういえば去年はマックループへも2度出かけていましたね。
その1年前には焼酎飲みながら「俺はマックループには行かねえ」と言っていた気がするのですが、
まさかのハマりっぷりにびっくりしましたよ。
ラメックスDのTシャツでF-35を狙う所沢氏。
オーサンは同じ宿だったので、丸2日間行動を共にしましたが、
オーサン2度目の所沢さんは、すでに街を自分のものにしていました。
まさかこれが所沢さんとの最後の食事になるとは・・・
カメラはD5、レンズはロクヨンでしたね。
あまり自分の撮った写真を人に見せたがらなかったので、僕のPCに彼が撮った写真は数枚しかありません。
でも、いい瞬間が撮れた時には、自慢気にカメラの液晶画面をこちらに向けるのでした。
そんな所沢さんが送ってくれた1枚。
Office.S所属カメラマンとして入場とした2013年のドバイからです。
許可なく掲載することを許してください。
本当に悲しいです。
所沢さん、僕らはあなたのことを忘れませんよ。
忘れようとしたって、あなたのような人を忘れられるわけがありません。
どうか今は安らかにお休みください。
秋になったら、天国からアクサルプを堪能してくださいね。
あ、でも所沢さんのことだから、その前にデスバレーにも行っちゃうのかな。
ご冥福をお祈りいたします。
病気がわかったのは、去年一緒にオーサンへ行った1か月ほど後のこと。
オーサンでもいつもの感じで酔いどれていたので、病気のことを聞いた時にも
早いうちに治るんだろうなと思っていたのですが・・・
世界の基地で一緒に過ごした日々の思い出を、少し振り返ってみたいと思います。
所沢さんと初めて会ったのは、2008年の10月、僕が茨城に引っ越して2週間後の百里基地でした。
その日は航空観閲式の予行で、よくあるように、たまたま近くで撮影していたのがきっかけです。
はっきりとは覚えていませんが、性格的にも、きっと所沢さんから話しかけてきたんだと思います。
その日の予行。なんの記念塗装だったっけ。
この日、所沢さんが持っていたのはコンデジだったと思います。
その数週間後、僕は東京から深夜バスで岐阜基地航空祭に向かったのですが、
バスから降りると偶然所沢さんも同じバスに乗っていました。
その日はゲートまでご一緒して、所沢さんは基地内で撮影、私は博物館側で撮影したと思います。
所沢さんの手にはニコンの一眼レフ初級機がありました。
その後、何度か百里で再会するうちに連絡先を交換したんでしょうね。
国内の航空祭でも会うようになりましたが、会うたびにボディかレンズどちらかが進化していき、
2010年の三沢では200-400とサンニッパの2本持ちになっていました。
そして2011年の11月。
僕は所沢さんの禁断の扉を開いてしまいました。
初めて海外のエアショーに連れて行ってしまったのです。場所はアメリカ、ネリス空軍基地でした。
職業ドライバーだった所沢さんは「運転はまかせてください」と言ってくれたので、
お言葉に甘えて、僕は助手席でラジオを聴きながら景色を眺めていたんですが、
いきなり違うジャンクションで降りてしまい、若干焦ったことを覚えています。
そして所沢さんのレンズは、サンニッパがゴーヨンになっていました。
手荷物検査で大きなカメラバッグがアウトになったので、重そうに大砲2本を抱えていたっけ。
このイーグルのフレアが彼に火をつけてしまったのか。
このネリスをきっかけに、所沢さんは
たしか2度目の海外エアショーは翌年2月のエアロインディアだったと思います。
お腹を壊したらしく、帰ってきた後は「2度とインドへは行かない」と言っていましたが。
2012年はフェアフォードで一緒になりました。
でも、僕はMACH2(なぜかMACH3が届いたけど)、所沢さんはもちろんMACH3なので日程が違います。
よって、この後スタンダードになっていく現地合流スタイルでのRIATでした。
今思うと、行きも帰りも飛行機が一緒だったエアショーは最初のネリスだけだったんだな。
アル・フルサンのポスターを貰った、思い出深いホテルまでの道のり。
助手席はOKB-51さんです。
この年はサンフランシスコ・フリートウィークでもご一緒。
シーフード好きだった所沢さんは、またサンフランシスコに行きたいといつも言っていました。
お隣はれんじゃー氏です。
そして、この後恒例となっていく宮崎は丸万本店での忘年会が始まったのもこの年です。
肝心の航空祭は天気が悪くて、僕は朝から一人基地側に逃げ込んだのですが、
南側に行った所沢さんとOKB-51さんはさっさと帰って、空港で飲んだくれてたんだったかな。
れんじゃー氏は雨の中基地側まで歩いてきたっけ。
2013年はオランダはフォルケルに行きました。
例によってレンタカーの助手席にお世話になったんですが、2日目の帰りは駐車場から2時間出れなくてね。
その間ずっとアホな話をしていたのを思いだします。
この年所沢さんはレンタカーに乗り、初めてのMAKSに一人で突撃。
撮影ポイントを探しているうちに当局に拘束されてしまい「終わった・・・」と思ったそうですが、
翌日には外柵沿いで地元民とバーベキューをしながらロシアンナイツを満喫するという、
僕には到底真似できない行動力を見せてくれました。
2014年は、オランダ、RIAT、ベルギーと3カ所で合流。
だいたいスポッターデーから参加している所沢さんは、海外の知り合いからも情報収集。
エアショー当日のみ参加の私に、いつもその情報を教えてくれるのでした。
そして所沢さんの人懐っこい笑顔は日本人だけじゃなく、海外の人も話しかけやすいのか、
いつもたくさんの人にデカいレンズの事をいじられていたっけ。
このオランダの自動販売機、何度コインを入れても戻ってきて、結局買えなかったんだよな。
2015年はソウルで1日だけ一緒だったかな。そして去年はRIAT、オーサンへ。
そういえば去年はマックループへも2度出かけていましたね。
その1年前には焼酎飲みながら「俺はマックループには行かねえ」と言っていた気がするのですが、
まさかのハマりっぷりにびっくりしましたよ。
ラメックスDのTシャツでF-35を狙う所沢氏。
オーサンは同じ宿だったので、丸2日間行動を共にしましたが、
オーサン2度目の所沢さんは、すでに街を自分のものにしていました。
まさかこれが所沢さんとの最後の食事になるとは・・・
カメラはD5、レンズはロクヨンでしたね。
あまり自分の撮った写真を人に見せたがらなかったので、僕のPCに彼が撮った写真は数枚しかありません。
でも、いい瞬間が撮れた時には、自慢気にカメラの液晶画面をこちらに向けるのでした。
そんな所沢さんが送ってくれた1枚。
Office.S所属カメラマンとして入場とした2013年のドバイからです。
許可なく掲載することを許してください。
本当に悲しいです。
所沢さん、僕らはあなたのことを忘れませんよ。
忘れようとしたって、あなたのような人を忘れられるわけがありません。
どうか今は安らかにお休みください。
秋になったら、天国からアクサルプを堪能してくださいね。
あ、でも所沢さんのことだから、その前にデスバレーにも行っちゃうのかな。
ご冥福をお祈りいたします。